2025年5月22日木曜日

愚に生きる

 
 
 
 テレビで四国遍路の番組を観ていたら、一番の難所と言わ
 
れる山道にお遍路さんを励ます言葉が書かれていて、その中
 
に「愚に生きる」というのが有った。
 
 
 「愚」というのは、「計算しない」「損得勘定をしない」
 
ということだろう。
 
 長い遍路を歩き続けて、お寺を参るだけ。「こんなにしん
 
どい思いをして、これが何になるのだろう・・」という思い
 
が浮かんでくるだろうことを見越して、「愚に生きる」と一
 
声掛ける。
 
 「損得勘定をやめて」「何になるのかなんて計算せずに」
 
と促す。
 
 
 四国遍路をしようなどという人は、単に興味本位だった
 
り、マラソンをするような気持ちの人もいるだろうけど、
 
にがしかの迷いや悩みを抱えていて、遍路をすればそこから
 
抜け出す糸口がつかめるかもしれないという思いを持つ人が
 
多いことだろう。「愚に生きる」というのは、遍路の真髄を
 
突いた言葉なんじゃないだろうか。

 
 
 「こんなことをしていていいのか?」
 
 「このままだとどうなるのか?」
 
 そんな風にいろいろと考えてしまい、現状を肯定できず、
 
自分の進む道に確証が持てず、過去の自分の行いはまずかっ
 
たのではないかとか、まずいことをしたとか・・・。そのよ
 
うに人は苦悩する。
 
 特に大きな悩みや迷いでなくとも、人は誰も大なり小なり
 
そういうものを抱えているものだけど、迷い・悩みというも
 
のは、あれやこれやと計算をすることで生まれてくるものだ
 
ろう。だから、ただ歩く。
 
 目指す場所が有るとはいえ、ただ寺に参るだけで、なんに
 
もならない。日常を離れて、なんにもならないことをひたす
 
ら続けること。
 
 お寺に行って「パワースポットでエネルギーをもらう」と
 
か「心を浄化する」などと考える者もいるのだろうけど、そ
 
ういう人が遍路をしても、それこそなんにもならないだろ
 
う。
 
 無意味なことをただ続ける。
 
 無意味なことをただ続けているその時も、自分は生きてい
 
る。
 
 意味がなくても人は生きている。生き続けている。
 
 ただ歩く。ただ生きる。
 
 あれこれと計算するアタマの右往左往を置き去りにする。
 
 自分は本来ただ生きているだけなんだということに気付
 
く。
 
 その気付きが人を開放する。
 
 だから「愚に生きる」。
 
 
 そもそも、生まれて来て死んで行くのだから、生きている
 
ことはなんにもならないのに、損得勘定を考えることを刷り
 
込まれて、「上手にやれば、なにかになる」と思わされてい
 
る。その固定観念が人を苦悩させる。

 
 なんになるかなんて考えずに、とにかく遍路道を歩いてい
 
ると、山道の湿気を肌が感じる。風を頬をなでる、髪をとか
 
す。鳥の声が聞こえる。里を歩けば、人が声を掛ける。饅頭
 
をくれる。そういう体験は、人が生きてゆくことを端的に示
 
している。それだけのことで、そういうものだし、それでい
 
いのだ。
 
 大層なお話を刷り込まれて、利口に生きようとすることが
 
人を迷わせる。度がすぎれば、自分自身や世の中に害を成す
 
(それが一見して害に見えなくても)。
 
 
 どこのどなたが書いたものかは知らないけれど、遍路道に
 
「愚に生きる」と記したのは、その人の実体験からなんだろ
 
うなぁ。






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