2025年5月9日金曜日

線を引く

 
 
 いまから三十年以上前、私の働いていた職場に知的障害を
 
持つ人たちが職業体験に来た。職場の者たちは親切に対応し
 
て予定の日数を終えたのだけど、その人たちと仕事をしなが
 
ら、私はあることに気がついた。
 
 
 当時の職場にいた私より少し先輩の一人の女性は、いわば
 
頭が悪く、簡単な計算とかでも苦手だし、物覚えも悪いし、
 
少し感情的になりやすい面もあった。基本的に良い人なの
 
で、まわりから嫌われたりはしていなかったが、仕事ができ
 
ないことでバカにされたりすることはよくあった。
 
 先輩でもあるので、私はバカにしたりはしなかったけれ
 
ど、まわりからバカにされるのを見ても「まぁ、そうだな」
 
と思っていた。ところが、職業体験に来た先の人たちの扱わ
 
れ方を見たときに「この人たちとあの先輩と、どこで線引き
 
をするんだ?」と思ってしまった。
 
 
 あの職業体験に来た人たちは、仕事ができなくても親切に
 
扱われ、障害者として社会的なサポートも受けている。一方
 
あの先輩は、一応普通に仕事はできるけれど、ちょっとした
 
失敗をするたびにバカにされてしまうし、社会からのサポー
 
トも無い・・・。私は「これはなんだ?」と思った。そし
 
て、誰かの至らなさについて、ものが言えなくなってしまっ
 
た。
 
 
 あの障害を持つ人たちに配慮し、親切にするのなら、あの
 
先輩にも配慮し、親切であるのが筋だ。だってあの人たちの
 
間に線引きをすることはできないから。この気付きはその後
 
の私のものの見方に大きな影響を与えた。
 
 
 最近「境界知能」という言葉が使われるようになってき
 
た。この言葉がいつ頃から有るのか知らないけれど、そうい
 
う概念・認識が人々の意識に留められるのは良いことだ。と
 
はいうものの、今後もその境界にいる人たちが社会的配慮を
 
受けられることは望めないだろうなと思う。社会の中の個人
 
が配慮してくれることはあってもね。
 
 
 人の知能だけではなく、本来、世界のあらゆることは線引
 
きすることができない、分けられないものはたくさんある。
 
養老孟司先生が書かれていたが、解剖学的に言えば「口」だ
 
とか「指」だとか「心臓」だとかいうものは区別できない。
 
全部つながっていて、便宜的に分けているだけだと。身体以
 
外でもあらゆることがそうだ。
 
 
 人間が作り出した物は一応分けることができる。ネジはネ
 
ジで、コップはコップだ。でも自然のものは分けられない。
 
 スズメがウンコをする。確かにスズメとウンコは別だけれ
 
ど、ウンコとスズメは、自然の命のつながりのそれぞれの一
 
面だとも言える。それを分けて見るのは、わたしたちのアタ
 
マのクセによる。アタマは分けなければしようがないから。
 
 分けなければ「自分」が存在できなくなるから、アタマは
 
なんでもかんでも分けてしまう。特にその区別が自身の存在
 
意義を強く感じさせる事柄は分けずにいられない。分けなけ
 
れば自分の存在がぐらついてしまう。

 
 アタマにとって「境界知能」という曖昧なものはとても具
 
合が悪い。
 
 「自分は良い。あれは良くない」
 
 「自分は普通。あれは異常」
 
 「自分は賢い。あいつはバカ」
 
 そういうはっきりした区別をすることで、アタマは安定感
 
を得る。しかし境界が曖昧だと、自分が区別しておきたいこ
 
とが、自分の方へ侵食してきてしまう。「もしかして自分も
 
あれと同じ部分があるのか?・・・」と思わせられてしま
 
う。アタマは線を引きたい。線を引いて「自分は良い側だ」
 
と思いたい。
 
 人がアタマ中心でいる限り線引きはやめられない。そし
 
て、社会というものが人々のアタマの働きで作られ動いて
 
いる以上、社会の中の線引きもなくならない。「境界知能」
 
という言葉が広く世に知られたところで、そこに線を引けな
 
くなったとしても、代わりに何かの線引きをしてアタマは安
 
定を得ようとするだろう。
 
 
 アタマが安定を得られるのならそれで良いということもあ
 
るだろうけれど、その安定はすぐ揺らぐ。そもそも線を引け
 
ないところに無理やり線を引くのだから、そんなもの長続き
 
しない。だから世の中にいさかいは絶えない。ひとりの人間
 
の中でもしょっちゅう葛藤や苦悩が有るのは、無理に線を引
 
いているからだ。
 
 
 線を引かないと、はなはだ落ち着きが悪い。気持ちが悪
 
い。中途半端でスッキリしない。自分というものが曖昧にな
 
るから。けれど、曖昧でありながら、その曖昧な自分がここ
 
に存在しているという事実に目を向けることは、大事なこと
 
を気付かせる。
 
 線を引いて、区別しなければならない「自分」以前に、と
 
にかくここに自分が在る。説明も区別も無く自分が在る。
 
 アタマの右往左往に関係なく自分が在る。そこに落ち着け
 
ば、いさかいや葛藤や苦悩はよそ事になる。ましてや、自分
 
と他人を区別してバカにしたりなどという愚かさは出る幕が
 
無い。
 
 
 線を引くことが愚かさを生む。世界に苦しみを生む。




 

0 件のコメント:

コメントを投稿