2025年8月26日火曜日

出来ないでいる勇気

 
 
 生きていると、しなければならないことや、社会から求め
 
られ期待されることにお尻を突かれる。仕方ないからやって
 
みたり、欲にかられてやってみたりすることになるけれど、
 
なかなか大変だし、できないこともたくさん有る。そういう
 
ときに、わたしたちはつい「出来ない・・」と情けなく感じ
 
たり、落ち込んだりしてしまうけれど、やってみて出来ない
 
のならしようがないわけで、その事実をないがしろにして自
 
分を情けないと思うのは、物事をはき違えてるだろう。事実
 
の方に重きを置くべきだ。
 
 
 事実として出来ない。
 
 それならば出来ないでいて当然だ。だって、事実として出
 
来ないのだから、その前にはどんな理屈や理想が出しゃばっ
 
てこようと相手にする必要はない。胸を張って、出来ないで
 
いていい。アタマの都合より、事実優先だ。

 
 
 「なんで出来ないんだ!」
 
 誰かからそういう風に咎められることはよくあるし、自分
 
自身をそんな風に咎めたりするけれど、事実に則した答えは
 
こうなる。
 
 「出来ないから」 
 
 
 出来ないことを咎める心理というものが、誰もの心に刷り
 
込まれ、世の中に蔓延してる。
 
 「出来ない」という事実を前にしてもそれを受け入れず、
 
誰かを、自分を咎める。事実を受け入れないなんてアタマが
 
おかしいと言うしかないのだけど、それがまかり通る。
 
 
 昔働いていた職場に、仕事はいまいち出来ないけど気の良
 
いおっちゃんがいた。ある日、そのおっちゃんは上司にかな
 
り忙しい仕事をまかせられてだんだん余裕が無くなってきて
 
いたのだけど、そのおっちゃんが「間に合いましぇ〜ん」と
 
言いながらもマイペースでいたので、私は笑いながら少し手
 
伝ってあげた。その時私は、そのおっちゃんを「師匠だな
 
🤣」と思った。
 
 
 「間に合いましぇ〜ん」
 
 「出来ませ〜ん」
 
 それのどこがいけない? 全然いけなくはない。事実とし
 
て出来ないのならそれでいいはずだろう。
 
 
 「使えない奴!」 
 
 仕方がないじゃないか、そう思うのなら別の奴を呼んでく
 
ればいい。それだけのことじゃないか。咎めるのはお門違い
 
だ。
 
 
 人は誰でも出来損ないだ。誰でも出来ないことがいろいろ
 
ある。それが事実なんだから、胸を張って出来ないでいてい
 
い。
 
 
 「出来ることはするし、出来ないことは出来ない。出来な
 
いことを求めるなら、他を当たってくれ」
 
 私はそういう考え方で世の中を生きてきた。だって、そう
 
するしかないじゃないか。(誠実であることが前提ですが)
 
 
 出来ないでいる勇気を持つこと、出来ないでいることを受
 
け入れる度量を持つことは、これからの世の中ではとても大
 
事なことだろうと思う。自分の為にも、誰かの為にもね。
 
 
 
 

2025年8月24日日曜日

死ぬかと思った

 
 
 昨日、家の外で大工仕事をしていたら、1mの高さから後
 
ろ向きに落ちて肩と首を強打。首が「グシャ」っと音を立
 
て、死ぬかと思った。
 
 首がねじ曲がった瞬間に「頚椎をやったかも・・」と思っ
 
たが、幸い大事には至らなかった。危ない危ない・・・。
 
 あちこち擦りむき、いまも腰・背中・肩・首が痛くて姿勢
 
が自由にならない。あと二三日はこんな感じだろう。 
 
 
 普段「死を忌み嫌っていてはいけない」ということを書い
 
てはいるけれど、生き物というものは、生き続けようとする
 
ものなので、こういう事があると当然気持ちがザワザワす
 
る。暑いということもあるけれど、落ちた直後に手当をしな
 
がら、三十分ぐらい汗が止まらなかった。身体が大きな危険
 
を感じてアドレナリンを大量に放出したのだろう。
 
 
 私は自分が死ぬことは別に怖くないし、生きていて何がし
 
たいということも特にないけど、内の奥さんのことを考える
 
と元気に生きていなくてはいけないので、まぁ常日頃身体を
 
大事にして生きている。生き続けようとする身体に対する敬
 
意も忘れてはいけないとも思う。
 
 生きているというのは、終わってしまえば夢とかわりはな
 
いけれど、夢の中にいる間は、その夢(生きていること)を
 
大切にした方いいだろうからね。
 
 
 
 昔の中国に玄沙師備(げんしゃしび)という禅僧がいた。  
 
 ある日、聞法(もんぽう)の旅に出ようと山を降りている
 
とき、石につまずいて足の指の生爪をはがしてしまう。
 
 「この身体は仮のもので、本当は存在していないはずなの
 
に、この痛さは何処から来るのか」そう想ったところで悟り
 
をひらいた。そして「旅に出る必要はない」と寺に帰ってし
 
まう。
 
 
 痛いのは嘘ではない。
 
 人生も嘘ではない。
 
 生きているのも嘘ではない。
 
 死ぬのも嘘ではない。 
 
 そういう命の上に現れる何もかもをひっくるめて、まるご
 
とそのまま、現れるままを生きればいい。探し求める必要は
 
ない。玄沙師備はそう気付いたのだろう。
 
 
 生きていればさまざまなことに惑わされ、振り回され、揺
 
さぶられる。意識で落ち着こうとしたって、身体の仕組みで
 
汗が吹き出る。気持ちがザワつく。そうなっているのだから
 
仕方がない。それを引き受けながら生きる。放っておいても
 
出来事は向こうからやって来る。自分からウロウロする必要
 
はない。
 
 
 生きるものなら生きる。
 
 死ぬものなら死ぬ。
 
 困るときは困る。
 
 喜ぶときは喜ぶ。
 
 
 生きていることに敬意を払いながら、生きていることを大
 
切にしていると、日々がしみじみと愛おしいものになってく
 
る。
 
 
 
 首が痛いけど、この後買い物に行かなくちゃいけない。
 
まぁ、それもひとつの生きてる現れだな。
 
 
 《 死ぬるまでは生きるなり 》 武者小路実篤 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

2025年8月15日金曜日

社会と人権

 
 
 
 今日は終戦記念日で、この日が近づくとテレビなんかが
 
「人権」についての発信をすることが増える。まぁそれはそ
 
れでいいのだが、私は毎年わずかな違和感を覚える。
 
 私がひねくれた人間だからだろうけれど、ひねくれ目線と
 
いうものも一つの見方ではある。
 
 
 世の中には人権を語るのが大好きな人が沢山いるけれど、
 
それは社会というものがそもそも個人を抑圧するものだから
 
こそであって、社会の中でいくら権利を求めたって、制限と
 
自由が半々ぐらいになれば上出来だと思っていなければいけ
 
ない。
 
 
 社会というものは、ある規範に基いてそれに則った仕組み
 
でしか機能できない。個人々々が持つ、その規範からはみ出
 
る部分を組み込むのは不可能なので、個人はそれをあきらめ
 
るしかないのだが、当然ながら文句を言う人が後を断たな
 
い。
 
 
 そういった文句を受けて規範を変えれば、必ず反対側から
 
文句が出る。というわけで社会には政治が発生するが、どの
 
ような理念と熱意を持った代表者でも、大きな発言力を持つ
 
ようになると、ほどなくして権力者になることは防げない。
 
なぜなら「ある規範」を採用するしか社会を機能させられな
 
いので、機能を高めようとする程、誰かへの制限が強くなる
 
からだ。(もちろん強欲な搾取者が生まれることもよくある
 
のは言うまでもない)
 
 
 立法者にしろ革命家にしろ
 
 平等と自由とを同時に約束する者は
 
 空想家にあらずんば山師(詐欺師)だ
 
                      ゲーテ

 
 社会の中で自由を求めるなんて子供のすることだ。社会は
 
不自由なものである。
 
 もちろん度の過ぎた制限・抑圧には従う必要はないが、そ
 
れにはそれなりの見識と責任が伴う。やたらと「人権」と言
 
いたがる人たちを見ていると、そういう見識があるようには
 
見えないから、本当に人権を侵害されている人には迷惑な話
 
だろう。
 
 
 今回の話は、先のゲーテの言葉を紹介したくて書き始め
 
た。この頃は、いろいろと政治状況がにぎやかなので、この
 
ゲーテの言葉がアタマに浮かんできたのだろう。
 
 ゲーテは200年前に生きた人だけど、社会に生きる人々は
 
今も変わってはいない。人々は今も「自由と平等」を語る人
 
を求める・・・ムリだって。
 
 
 社会に「自由と平等」は両立しない。資本主義と共産主義
 
を同時にやるようなものだ。
 
 「自分の都合ばっかり言っても仕方がないから一応黙って
 
おくけど、あまり図に乗ると承知しないぞ」というのが一般
 
人が社会に対して採るべき態度だろうけど、なぁに、一般人
 
だってすぐに図に乗る。ちょっと旗色が良ければどんどん要
 
求をエスカレートさせて、社会を機能不全にしかねない。政
 
治をやる方も、政治に求める方もどっちも人間だ。アタマが
 
悪いことに変わりはない。

 
 時代状況によって割を喰らう人もいる。それは運が悪いと
 
言うほかない。「人生には当たりハズレがある」(橋本治)
 
のである。
 
 私のような人間などは、どんな社会に生まれたってハズレ
 
だろう。「社会は必要悪」「社会は個人をしあわせにしな
 
い」なんて言っている人間を、社会が優遇するわけがない。
 
 私のような人間でなく、真面目に社会人をするつもりなの
 
に運悪く割を喰ってしまう人にも、肚を括って見方を変えて
 
ほしいものだ。どうにかこうにかして、社会と自分の人生を
 
笑ってしまえと。

 
 戦時中、徴兵されて死んでいった人たちの中にも、肚を
 
括って自分のさだめを笑い飛ばした人たちもいたはずだ。
 
 「抗えないさだめなら、せめて笑い飛ばしてやりたい」
 
と。
 
 人権を奪われても、その中で笑ってみせる気概までは奪う
 
ことはできない。自分次第ですけどね。
 
 
 
                 
 
 

2025年8月13日水曜日

問答無用

 
 
 前回書いた『楽観的人生』というのを読み返していて「あ
 
あ、そうか」と気付いたことがあった。
 
 「命は問答無用だな」と。
 
 
 これまでに何度も何度も書いてきているけれど、わたした
 
ちは世の中で「お話し」を生きている。人生というのは「お
 
話し」を生きることだ。「お話し」だから、そこにはなんだ
 
かんだと問答が行われる。単にしゃべることだけではなく、
 
自分の立場と自分以外の人の立場や、環境とのやり取りが言
 
葉を介して(思考を使って)行われる。自分自身とのやり取
 
りもする。人生は問答をつなぎ合わせる運動のようなもの
 
だ。
 
 
 それに対して、命は問答無用だ。
 
 問答無用でこの世に産み出される。
 
 問答無用で世の中に押し込まれる。
 
 問答無用で苦しみを感じさせられる。
 
 問答無用の死が待っている。
 
 
 「お話し」を生きているわたしたちは「問答無用」が許せ
 
ない。「説明はないのか!」と怒りを覚える。無力感や恐怖
 
を感じるので、なるべく「お話し」から出ないようにする。
 
「お話し」の中にいれば一応わけは分かるので、わけが分か
 
らないという「不毛」に関わらなくて済む。が、「お話し」
 
の中はありとあらゆる問答が溢れてる。「問い」と「答え」
 
に振り回され続けて終わることがない。終わるときは「死」
 
だ。最終回答は問答無用の「死」なんだから、すべての問答
 
も「不毛」だろう。
 
 
 どうせ不毛なら、問答無用の「命」の方を選んでもいい。
 
 問答無用に産み出されてきたのだから、後付けの問答など
 
後回しでもいいはずだ。 
 
 なにせ「命」は問答無用だから、問答に振り回されること
 
がない。それは魅力的なことではないだろうか?
 
 問答無用がわたしたちの本質のはずだ。
 
 問答無用がわたしたちの実態であり、世界の実態だ。
 
 
 考えるのを止めたら、その瞬間に「人生」も「世の中」も
 
何処かへ行ってしまうけれど、「命」はここに在る。気絶し
 
ていたって生きている。
 
 「お話し」の中に生きていると「命」に敬意を払うのを忘
 
れてしまう。「お話し」を続ける為だけに「命」を利用しよ
 
うとし始める。「命」を生きずに「お話し」を生きることに
 
なる。

 
 「それでもいいじゃないか」
 
 そう考える人の方が多いだろう。
 
 でも、たぶんそういう人は人生の終わりに「自分の人生は
 
なんだったのか?・・」という思いに囚われるだろう。だっ
 
て、問答の連なりの果てに現れるのは、問答無用の「死」な
 
のだから、問答を生きてきただけの人には受け止めようが無
 
い。
 
 
 「問答は無用か😌」
 
 そうして、気負わずに問答無用の「命」を感じながら生き
 
るのは、問答無用で産み出されたわたしたちにとって、筋の
 
通った在り方だと思う。





2025年8月1日金曜日

楽観的人生

 
 
 これまでにも何度か書いたように思うけれど、このブログ
 
は社会でイイ思いをする為に直接的にはなんの役にも立たな
 
い。むしろ却って邪魔になるかもしれないぐらいだ。けれ
 
ど、上手くすれば間接的には役に立つだろう。
 
 社会の価値観を深刻に捉えないようになり、気楽に社会に
 
関わることでプレッシャーが軽減されて社会の中で良いパ
 
フォーマンスが発揮できる可能性はある。まぁ、そんなこと
 
があったとしても副産物・オマケ であって、このブログの
 
目的ではないけれど。

 
 このブログをたまたま目にして、「もう少し読んでみよ
 
う」と思う人は、人生や社会の中で深刻な気分を感じさせら
 
れてしまっているか、以前にそういうことがあった人だと思
 
われる。まぁ、そんなことを言えばそれは人類ほぼ全員とい
 
うことになるけど、全員がこのブログを読んでみようと思う
 
はずがない。読もうと思う人は少数派だ。では読もうと思わ
 
ない人はどういう人かというと、「深刻さが、人生の価値を
 
逆説的に証明している」と無意識に思っている人だ。
 
 「人生の価値は重い。だからこそ、少し何かが欠けただけ
 
でこんなにつらい・・・」そんな風に思っている。
 
 でも本当は違う。人生に価値はないからこそ、深刻にし
 
て価値があると思い込もうとしているだけだ。そして、無意
 
識のどこかでそれに気が付いている。それは、“深刻ぶる演
 
技”と“自分の本心が持つ感覚を誤魔化す”という、二重の
 
自己欺瞞として自分を苦しめてしまう。
 
 
 もしそういうタイプの人がたまたまこれを読んでいるな
 
ら、怖いだろうけど自分の心の底を覗いてもらいたいと願
 
う。
 
 「自身で、元からそれに気付いているでしょ?」
 
 違いますか?


 ほとんどの人は気が付いているはずなんですよ。ただ、そ
 
れを直視する機会がなかった。そんな怖いこと、きっかけが
 
なければ誰もしませんからね。私の場合は随分昔にそういう
 
きっかけがあったので、こういうことばかり考えてきました
 
けどね。

 
 「人生はなんということもない」
 
 そう受け止めることは「人生は価値あるもので満たされる
 
べき大切なものだ」と刷り込まれてきたアタマには恐ろし
 
い。これまでのすべてが灰燼に帰すとでもいうような感覚を
 
覚えるだろう・・・。しかし、実際は違う。怖く思えるだけ
 
で、実際に人生の価値を軽く受けとめられたら、人生は気軽
 
に楽しめるものになる。本来の姿を現す。

 
 人生は楽観すべきもの。
 
 とはいえ、人生を「楽観」するのではない。
 
 人生を、「楽」を「観る」場にする。
 
 さまざまな出来事が伴っている「楽」を「観る」。
 
 それこそが、人生を価値あるものにする。
 
 
 縁あって生きている。人生の持つ「楽」に目を向けよう。
 
 それは、深刻さを脇にどければ、いつでもそこにある。