昨日、家の外で大工仕事をしていたら、1mの高さから後
ろ向きに落ちて肩と首を強打。首が「グシャ」っと音を立
て、死ぬかと思った。
首がねじ曲がった瞬間に「頚椎をやったかも・・」と思っ
たが、幸い大事には至らなかった。危ない危ない・・・。
あちこち擦りむき、いまも腰・背中・肩・首が痛くて姿勢
が自由にならない。あと二三日はこんな感じだろう。
普段「死を忌み嫌っていてはいけない」ということを書い
てはいるけれど、生き物というものは、生き続けようとする
ものなので、こういう事があると当然気持ちがザワザワす
る。暑いということもあるけれど、落ちた直後に手当をしな
がら、三十分ぐらい汗が止まらなかった。身体が大きな危険
を感じてアドレナリンを大量に放出したのだろう。
私は自分が死ぬことは別に怖くないし、生きていて何がし
たいということも特にないけど、内の奥さんのことを考える
と元気に生きていなくてはいけないので、まぁ常日頃身体を
大事にして生きている。生き続けようとする身体に対する敬
意も忘れてはいけないとも思う。
生きているというのは、終わってしまえば夢とかわりはな
いけれど、夢の中にいる間は、その夢(生きていること)を
大切にした方いいだろうからね。
昔の中国に玄沙師備(げんしゃしび)という禅僧がいた。
ある日、聞法(もんぽう)の旅に出ようと山を降りている
とき、石につまずいて足の指の生爪をはがしてしまう。
「この身体は仮のもので、本当は存在していないはずなの
に、この痛さは何処から来るのか」そう想ったところで悟り
をひらいた。そして「旅に出る必要はない」と寺に帰ってし
まう。
痛いのは嘘ではない。
人生も嘘ではない。
生きているのも嘘ではない。
死ぬのも嘘ではない。
そういう命の上に現れる何もかもをひっくるめて、まるご
とそのまま、現れるままを生きればいい。探し求める必要は
ない。玄沙師備はそう気付いたのだろう。
生きていればさまざまなことに惑わされ、振り回され、揺
さぶられる。意識で落ち着こうとしたって、身体の仕組みで
汗が吹き出る。気持ちがザワつく。そうなっているのだから
仕方がない。それを引き受けながら生きる。放っておいても
出来事は向こうからやって来る。自分からウロウロする必要
はない。
生きるものなら生きる。
死ぬものなら死ぬ。
困るときは困る。
喜ぶときは喜ぶ。
生きていることに敬意を払いながら、生きていることを大
切にしていると、日々がしみじみと愛おしいものになってく
る。
首が痛いけど、この後買い物に行かなくちゃいけない。
まぁ、それもひとつの生きてる現れだな。
《 死ぬるまでは生きるなり 》 武者小路実篤
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