前回書いた『楽観的人生』というのを読み返していて「あ
あ、そうか」と気付いたことがあった。
「命は問答無用だな」と。
これまでに何度も何度も書いてきているけれど、わたした
ちは世の中で「お話し」を生きている。人生というのは「お
話し」を生きることだ。「お話し」だから、そこにはなんだ
かんだと問答が行われる。単にしゃべることだけではなく、
自分の立場と自分以外の人の立場や、環境とのやり取りが言
葉を介して(思考を使って)行われる。自分自身とのやり取
りもする。人生は問答をつなぎ合わせる運動のようなもの
だ。
それに対して、命は問答無用だ。
問答無用でこの世に産み出される。
問答無用で世の中に押し込まれる。
問答無用で苦しみを感じさせられる。
問答無用の死が待っている。
「お話し」を生きているわたしたちは「問答無用」が許せ
ない。「説明はないのか!」と怒りを覚える。無力感や恐怖
を感じるので、なるべく「お話し」から出ないようにする。
「お話し」の中にいれば一応わけは分かるので、わけが分か
らないという「不毛」に関わらなくて済む。が、「お話し」
の中はありとあらゆる問答が溢れてる。「問い」と「答え」
に振り回され続けて終わることがない。終わるときは「死」
だ。最終回答は問答無用の「死」なんだから、すべての問答
も「不毛」だろう。
どうせ不毛なら、問答無用の「命」の方を選んでもいい。
問答無用に産み出されてきたのだから、後付けの問答など
後回しでもいいはずだ。
なにせ「命」は問答無用だから、問答に振り回されること
がない。それは魅力的なことではないだろうか?
問答無用がわたしたちの本質のはずだ。
問答無用がわたしたちの実態であり、世界の実態だ。
考えるのを止めたら、その瞬間に「人生」も「世の中」も
何処かへ行ってしまうけれど、「命」はここに在る。気絶し
ていたって生きている。
「お話し」の中に生きていると「命」に敬意を払うのを忘
れてしまう。「お話し」を続ける為だけに「命」を利用しよ
うとし始める。「命」を生きずに「お話し」を生きることに
なる。
「それでもいいじゃないか」
そう考える人の方が多いだろう。
でも、たぶんそういう人は人生の終わりに「自分の人生は
なんだったのか?・・」という思いに囚われるだろう。だっ
て、問答の連なりの果てに現れるのは、問答無用の「死」な
のだから、問答を生きてきただけの人には受け止めようが無
い。
「問答は無用か😌」
そうして、気負わずに問答無用の「命」を感じながら生き
るのは、問答無用で産み出されたわたしたちにとって、筋の
通った在り方だと思う。
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