2018年4月4日水曜日

そこにはただ風が 吹いているだけ


 人はだれも唯一人 旅に出て

 人はだれもふるさとを ふりかえる

 ちょっぴりさみしくて振りかえっても

 そこには ただ風が吹いているだけ

 人はだれも人生につまずいて

 人はだれも 夢やぶれ振りかえる・・・・



 私なんかの世代にはなじみの深い〈はしだのりひことシュ

ーベルツ〉の『風』です。1969年の作品ですから、ほぼ五

十年前の曲という事になりますね。(年を取ったんだなぁ)
 

 私は最近の曲も聴きますが、こういった古い曲も日常的に

聴いています。

 そんな昔の曲の歌詞を眺めていて、さっき気付いたのが、

「自分はこの頃の歌の詞に、影響を受けているんだなぁ」と

いうことでした。

 あの時代に育ち、あの時代の空気を吸いながら大人になっ

たということは、思った以上に自分を規定しているんだな

と、今さらながら感じたのでした。

 やはり《すべての存在は時代に殉じる》しかない。



 この曲の歌詞を読み替えると、



 人は誰もひとりで生きて行く

 人は誰も過去にとらわれる

 不安になって、過去に安らぎを求めるが

 諸行は無常である

 人は誰も自己実現をめざすが

 人は誰も自己を見失い、後悔に暮れる・・・



 といった感じになる・・。

 それほど強引な読み替えでもないと思います。

 日本人が人生を考えると、仏教になっちゃうんです(今の

十代二十代もそうだと断言できるかどうか微妙ですが)。だ

から、『風』の歌詞にも仏教がにじみ出してしまう。

 そんな歌を聴きながら思春期を過ごせば、ちょっと多感な

少年  私のことですが  は、仏教を取り込んでしまう。

その成れの果てが、このブログなんでしょう。


 この『風』という曲に限らず、昔好きで聴いていた曲の歌

詞を改めて見てみると、それらのものが自分を形作って来た

と言えると思う。

 その一方で、自分の資質がそれらの曲に愛着を持たせたと

も言えるでしょう。私が好きな曲を、嫌った人もたくさん居

たでしょうから、時代の影響の仕方は人によって違う。

 『風』の歌詞の中に「仏教を観る」なんていうのは、かな

り変なのかも知れない・・・。


 結局のところ人間というものは、自分の都合に合わせて情

報を処理することしか出来ない。

 どこまで行っても、どんなに抗おうと、“自分” で在るし

かない。勝とうが負けようが、成功しようが失敗しようが、

“自分” を生きて、“自分” を終えるだけだ。

 たとえ受け入れがたく感じても、いままで生きて来た “自

分” 、いま在る “自分” を潔く認めてしまうことが、“自分”

の為なんだろうと思う。


 自分で自分を作ることは出来ない。

 自分は世界に作られる。

 その “自分” をどう観るか?

 といっても、“自分” を観ている自分に信用がおけるの

か?

 “自分” というものは、「ああだこうだ」と観るものでは

なくて、ただ生きるものだろう。


 さみしかろうが、夢やぶれようが、ただひとり、旅を続け

るのだ。


 「そこにはただ風が吹いているだけ」だけど、その風に吹

かれることを楽しんでしまおうというのが、人間の度量とい

うもんでしょう。

 そして、楽しんでしまえたら、それこそが人としての「成

功」でしょう。


 『風』の歌詞は次のように終わる。


 振り返らず唯一人 一歩ずつ

 振り返らず泣かないで 歩くんだ




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