書いておいて何だけれど、見た方は、少しケンカを売られ
てるような感じがするかも知れないタイトルだなぁ。
あなたは、この世に必要でしょうか?
それとともに、私はこの世に必要でしょうか?
別に必要ないでしょうね。
「そんな身も蓋もないこと、言うなよなっ!」
そんな反応も有りそうですが、“「あなたや私」に必要性
があるかどうか” という事ではなく、“あなたや私を「必要
性」という見方で捉えていいのか?” 、 という方向から考え
てみようという話です。
世の中では、あらゆるものが「要・不要」で判断されま
す。もちろん人間も例外ではない。
「役立たず」とか、「能無し」とか、「でくのぼう」とか
思われたり、思ったりする。
最終的に「必要ない!」、「ジャマ!」というジャッジを
されてしまったりする・・・。ああ、辛い・・。
だから、みんなそうならないように必死です。
「人にどう見られるか?」
「自分で自分をどう見るか?」
わたしたちの関心事の大部分がそれで占められています。
やだね~。
けれど、人間を「必要性」で見ていいのでしょうか?
そりゃあ、そういう見方が必要な局面が、世の中では多い
でしょうが、人間というものを見る時に “はじめに「必要
性」ありき” というのも、もうそろそろいい加減にしましょ
うよ。
だってね、「必要性」という考えは、前提として “ある条
件” が設定されて、初めて意味を持つものであって、その
“条件” 自体が不必要になったら、求められていた「必要
性」なんて何の価値も無い。“ある時と場所” でだけ価値を
持つものです。
そんな ”ある時と場所” の為に、うっかりすれば自身の、
あるいは誰かの全人格まで、「取るに足りないもの」とする
のが、この社会。
“ある時と場所” という、時間と空間を固定された中で、
人間(だけに限った事ではないが)を観ることは、“違う時
と場所” からの反作用をもたらす事になるでしょう。
人間は、「必要」だから存在しているのではない。
「要・不要」という事を超えて、〈存在している〉という
“リアル” に想いを致さないから、世界が駆け引きの場所に
なってしまう。
あなたも私も、この世界に必要ありません。
あなたが居ない世界は、《あなたが居ない世界》です。
私が居ない世界は、《私が居ない世界》です。
それぞれに何の問題もありません。
また《あなたが居る世界》も《私が居る世界》も、それぞ
れに何の問題もありません。
何が欠けようと、何が加えられようと、世界は《その世
界》として成立する。そして《あなたと私が居る世界》は、
今、確かに成立している。
「要・不要」なんてことは、不要です。無意味です。
居るものは、居るのです。
存在するものは、存在するのです。
そこに「要・不要」などという “ジャッジ” を持ち込むの
は、“その時と場所” に有利な立場に立っているエゴの駆け
引きに過ぎない。「要・不要」などという事を、ことさらに
言い立てるのは、卑怯者のすることです。
「卑怯」はダメですよ。
「卑しく」て「怯えてる」わけですからね。
表面上 “有利な立場” に立っているようで、その実、不安
定さを感じているので、「自分に分がある」と見るやいな
や、他人を評価することで自分の立ち位置を固めようとす
る・・・。
逆に「高貴」で「安心している」人は、自分の尊厳を疑わ
ないので、「自分に分があるか」とか「他人がどうあるか」
とか気にもならない。
「自分がどんな評価をされようが、自分は今・ここに在
る」
そのことに落ち着いている。
あなたも私も「必要」ではありません。
あなたも私も、今・ここに在る。
「要・不要」などという世の中のペテンに、自分を見失わ
ない様に・・。「不要」なのは、わたしたちを利用して自分
の立場を固めようとする、世の中の〈エゴ〉の方ですから
ね。
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