「南無阿弥陀仏」 なんてことを言ったり書いたりすると、
「宗教だ」「信仰だ」なんて思われる。まぁ普通はそうなん
だろう。けれど私は「宗教者」でも、何かの宗教の「信者」
でもないと自分では思っている。ひとつの手掛かりとして
「南無阿弥陀仏」という言葉が私の中に浮かび上がってくる
のであって、阿弥陀仏を信じたりしているのではない。むし
ろ、信じない方がいい。阿弥陀仏を信じたりしないまま「南
無阿弥陀仏」を行き着くと、「信じる必要もない」というと
ころへたどり着く。けれど阿弥陀仏を信じていると、そこへ
はたどり着けない。それは「信仰」のままで、「信仰」して
いる限りしあわせにはなれない。
あらら、ヤバいこと書いてしまった・・・、「信仰してい
る限りしあわせにはなれない」なんて、人類の8割ぐらいを
敵にまわしたかもしれない。でもね、私が思うに、「信仰す
る」って〈壁〉を立てることなんですよ。それに守られてい
るように感じるのでしょうけど、実は世界を区切っているわ
けです。制限され、風通しも悪い。
どのような「信仰」を持っている人であれ、「信仰」を持
っていない人であれ、すべての人の心臓は動き、赤い血が流
れている。それは、命は「信仰」を必要としていないことを
示しています。
「信仰」の有無に関わらず、人は生まれてきて死んでゆ
く。命は「信仰」より広いものです。それを区切ったりせず
にそのまま受け取った方が、当然世界は豊かではないでしょ
うか? これは筋の通った話だと思いますが、にもかかわらず
多くの人が「信仰」を持つ。それはなぜでしょう?
その理由は、エゴというものが意識の中で存在し続けたい
からですね。
エゴとは自意識ですが、自意識が存在するためには自分と
世界を区切らなければならないわけです。そうしていたいエ
ゴにとって、何かを信じ、それを盾にして世界を区切ること
は、エゴを強化するのにとても都合がいい。「信仰」はエゴ
の道具です。そしてエゴは本当のしあわせを知りませんか
ら、自分の周りを「信仰」という壁で囲って守りを固めて
も、その中にしあわせは無い。小さな安心感は有るでしょう
けども、世界を区切っていることでさまざまな不都合を生み
出して困る部分の方が大きいでしょう。「信仰」の中にしあ
わせはありません。
「信仰」を持つ人をバカにしたり、ケンカを売ったりした
いのではありません。本当にしあわせになりたいのなら、
「信仰」を持つべきではないという見方もあるのだというこ
とを示したいだけです。その上で「信仰」とはどういうもの
かを考えてもらいたい。自分の「信仰」を振り返ってもらい
たい。「自分は本当にしあわせなのか?」と。
じゃあ、何も信じずにしあわせは有るのか?
しあわせになれるのか?
何も信じる必要はありません。いや信じないようにするべ
きです。そしてただ見ればいいのです。感じればいいので
す。何も信じなくても、生まれて来たことを。いま生きてい
ることを。その不可思議さを。そして微笑もうと思えば今す
ぐ微笑むことさえできるのだということを。
そのとき、「何かを信じる」という壁は倒れ、世界の広
さ、自分の命の広さを目の当たりにします。そして気付きま
す。「ああ、何も信じる必要はなかったんだ」ということ
に。
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