前回「哀言葉は “勇気” 」なんて書いて終わったけど、「勇
気」という言葉が使われる状況というのはなにがしかの危機
だから、そこには多かれ少なかれ緊迫感なり不安なりがある
わけで、「哀言葉」という表現もあながち的外れでもないの
かもしれない。
加えて「勇気」というものがことさら意識されるような状
況では、「勇気」はあまり良い結果をもたらさないんじゃな
いかとも思う。アタマが介入し過ぎてね。特に考えずにやっ
てしまう方が、人に本来備わった勇気が出るように思う。言
葉にしなくてもいい勇気がね。
「勇気」という言葉は、「努力」という言葉と兄弟みたい
なものだろう。“がんばれ系” の思考だね。
「勇気」や「努力」という言葉が出てくるような行為は
“はじめにアタマありき” で、そのせいで行為自体がぎこちな
くなる。心と体のスムーズな連携が邪魔されて、出せるべき
ものが十分に出せなくなるだろうし、自分と周りとの良好な
繋がりも阻害されるだろう。
少し前に「無心のはたらき」という話を書いたけど(『無
心に・・・』2024/3)、アタマが邪魔せずに「無心のはた
らき」がスムーズに出てくるのが望ましい結果を生むでしょ
う。
例えば、駅で線路に落ちた人を助けようとして、とっさに
無我夢中で飛び降りて助けたとかいう場合、それは「無心」
なればこそ素早く行動できるからでしょう。でも、無我夢中
で助けようとして二人ともはねられてしまうということもあ
る。けれど、それは無我夢中の中での事なので、それで完結
しているからそれで良いのだと思う(はなはだ納得してもら
いにくいでしょうけど😅)。
ただなりゆきに任せて生きてゆく。
「勇気」も「努力」も、考えるに及ばない。
生まれて来るときに「勇気」を出して生まれて来たわけじ
ゃない。
生まれて来るときに「努力」して生まれて来たわけじゃな
い。
命のはたらきによって、無心のなりゆきで生まれて来た。
命のはたらきによって、無心のなりゆきで生きて来た。
それなら、命のはたらきに任せて生きていればいい。
無心のはたらきに身を任せていればいい。
アタマは生き方を採点してあれこれ言うけれど、命は生き
方を採点したりしない。アタマより命のはたらきが先なんだ
から、命のはたらきを優先する方が良いに決まっている。ア
タマが文句をつけるので、間違っているように思わされるけ
れどね。
・・・ここまで書いていて、「ああ〈南無阿弥陀仏〉のこ
とを書いているんだな」と気が付いた。私は真宗の信者では
ないけれど、すっかり〈南無阿弥陀仏〉が身についてしまっ
ているんだなぁ。
浄土真宗の僧侶の藤原正遠(しょうおん)さんが、こんな
言葉を遺しておられます。
《 不可思議と 思うは思議なり 自力なり
まかせまつれば まこと不可思議 》
わたしたちは、わけもわからないままで、こうして、生き
ている。ありがたいことではないですか?
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