生きていると理不尽なことがいろいろあって、みんないろい
ろとストレスを溜めている。「なんでこんな目に・・・」など
と考えたりする。でも「理不尽」って問題なんでしょうか?
「理不尽」という言葉が使われるシチュエーションを考える
と、そのほとんどは「不愉快」という言葉で表した方がいいで
しょうね。
自分に都合が悪い(自分にとっての理に沿わない)
ことだからといって、状況の方に問題が有ると受け取って「理
不尽だ」と思う。でも、それでは状況に揺さぶられ続ける人生
になってしまいます。どのような状況もなるべく「愉快」に受
け取る智慧(自分にとっての理に拘泥しないこと)が無いと、
人生から「理不尽だ」とかいうような愚痴が絶えることは無
い。
世界は自分の為に動いているのではないので、自分の立場や
希望なんかに配慮して展開してくれなくて当たり前です。災害
などは理不尽でも仕方がないと考える人はそこそこいるでしょ
うが、これが人間のすることになると話は違う。「あいつはな
んでこんなことをするんだ😤」と腹が立つ。けれど、自分には
理不尽でも、相手の立場や考えからすれば筋が通っているので
す。あるいは、そいつには他人の立場に立って考える力が無い
のです。
人間は自分が可愛いので、そうそう他人の立場に立ったりし
ませんし(「理不尽だ!」と怒ってる人も、理不尽なことをし
た者の立場に立ってはいない)、他人の立場に立って考える能
力が無い人に「こっちの都合も考えろ!」などと腹を立てても
ムダです。その人にはそんなこと無理なんですから。
人間がする理不尽なことも、自然災害の一つだと言えます。
だって人間を生み出したのは自然なんですから。ですから、誰
かの理不尽な行いも、自然現象の一種として対応することは可
能ですが、そんな風にする人は珍しい。それどころか場合に
よっては他の人間から批判されたりします。「なんで、あんな
ことされて黙ってるんだ!」とか・・・。でも、その人も急に
降り出したゲリラ豪雨を睨みつけて文句を言ったりはしないで
しょう。そんなのバカですからね。でも、人間相手でも同じこ
とですよ。「理不尽だ!」なんて怒っても、バカらしいだけで
す。
人は、人というものを特別扱いし過ぎです。
不愉快な奴も「サルの一種だからその程度の奴がいても仕方
がないよな」と 思うことだってできる。「自分もサルの一種な
んだし・・・」と思えば気が楽ですが、そうも行かない。人
は、人というものを特別扱いし過ぎますが、自分というものは
さらにさらに特別扱いしますからね。
「あいつはサルだが、オレはサルじゃない!」
心のどこかでそう思う。
確かにサルではないかもしれません。サルも多少は「理不尽
だ!」なんて怒ったり恨んだりするでしょうが、人ほどではな
いでしょうから、人はサル以下かもしれませんからね。
わたしたちは人というものを特別視し過ぎです。だから、他
人や自分の考えること、することが良くも悪くもおおごとに
なってしまう。
私は繁華街なんかに出かけると、そこを行き交う人たちがと
きどきアリのように見えてしまう(もちろん、そこにいる私
も)。人とアリと何も変わりはないと。
自然から生み出され 、何かを求めてうろうろしている。人間
が特別なわけじゃない。それを認識しないから、いろんなこと
が理不尽に思える。
自分たちが「何者かである」と驕って、背伸びしているから
ちょっとしたことでグラつく。で、嘆く「理不尽だ・・・」。
理不尽なんてありませんよ。自分でそうラベルを貼るだけで
すよ。わが県の知事が「おれは知事だぞ😤」と怒ったとか怒ら
ないとか・・。それと同じです。驕って、背伸びしていたら、
気に食わないことが増えるばかり。みんな「何者」でもありま
せん。ただの人です。自然のひとかけらです。
人間のお話しを真に受けなければ、理不尽なんてありませ
ん。
生きることの本質に気付けば「人生なんてなんだっていい」
「自分の値打ちなんかどうだっていい」と思えるんですよ。そ
してそう思えたら、逆説的ですけど、人生が自分にとって満足
のいくものになってゆく。
「引き寄せの法則」って言葉は結構広まっているようですけ
ど、みんな自分の望みに叶うことを引き寄せたいのでしょう?
けど、それを引き寄せることができたとして、果たしてそれが
本当に自分にとって価値のあることなんでしょうかね?それを
望んだ自分は、本当に自分なんでしょうか?私は、怪しいもん
だと思いますけどね。大抵は世の中から刷り込まれた価値にこ
だわってしまっているだけでしょう。むしろ、こだわりから手
を離すことで「引き寄せる」のではなくて、「引き寄せられ
る」んですよ。
引力に引かれて落ちてゆくように、お話しの世界から脱落す
る。自分が望みもしなかったのに「望んでいたのはこれだった
んだ」と感じる意識へと落ちる。世界の本質である「安らぎ」
へとね。その「安らぎ」から世の中をながめれば、「なんでも
いいか」と思うようになる。自由になる。
真の自由とは「したいことができる」ことではなくて、「し
たいことがない」ことです。「したいことがない」という状態
は、囚われが無いということですから心が解放されている状態
です。
「したいことがない・・・」と悩む人も多いでしょうけど、
「したいことがないとき」は自分の本質を知るチャンスです。
何にもせかされず、何にも誘惑されていない自分が、不幸なの
か?虚心坦懐に自分の内面を観てみれば、決して不幸でも不安
でもないはずです。
その囚われていない心。それはわたしたちの意識の本質で、
人間の世界のお話しに囚われなければ、いつでもそこに遊べま
す。
わたしたちの意識から「したいこと」 が消えると、いま起き
ていることがそのまま見えてくる。「自分がしたいこと」では
なくて、「世界がしていること」に遊べる。