2024年9月28日土曜日

命に引き寄せられてみる

 

 「ああしたい」

 「こうしたい」

 「ああなりたい」

 「こうなりたい」

 人は四六時中そんなことを考えている。人生をできるだけ自
 
分の望み通りにしたい。そうすれば満足できると思う・・・。
 
 いいえ。そんなことを考えていては、死んでも満足できない
 
でしょうね。満足への最短ルートは「なんでもいいや」と決め
 
ることですよ。「なんでもいい」のだから、即、満足なわけで
 
す。まったく筋の通った話ですね。

 

 生きることの本質に気付けば「人生なんてなんだっていい」

 

「自分の値打ちなんかどうだっていい」と思えるんですよ。そ

 

してそう思えたら、逆説的ですけど、人生が自分にとって満足

 

のいくものになってゆく。

 

 

 「引き寄せの法則」って言葉は結構広まっているようですけ

 

ど、みんな自分の望みに叶うことを引き寄せたいのでしょう?

 

けど、それを引き寄せることができたとして、果たしてそれが

 

本当に自分にとって価値のあることなんでしょうかね?それを

 

望んだ自分は、本当に自分なんでしょうか?私は、怪しいもん

 

だと思いますけどね。大抵は世の中から刷り込まれた価値にこ

 

だわってしまっているだけでしょう。むしろ、こだわりから手

 

を離すことで「引き寄せる」のではなくて、「引き寄せられ

 

る」んですよ。

 

 引力に引かれて落ちてゆくように、お話しの世界から脱落す

 

る。自分が望みもしなかったのに「望んでいたのはこれだった

 

んだ」と感じる意識へと落ちる。世界の本質である「安らぎ」

 

へとね。その「安らぎ」から世の中をながめれば、「なんでも

 

いいか」と思うようになる。自由になる。

 

  真の自由とは「したいことができる」ことではなくて、「し

たいことがない」ことです。「したいことがない」という状態

は、囚われが無いということですから心が解放されている状態

です。

 

 「したいことがない・・・」と悩む人も多いでしょうけど、

「したいことがないとき」は自分の本質を知るチャンスです。

何にもせかされず、何にも誘惑されていない自分が、不幸なの

か?虚心坦懐に自分の内面を観てみれば、決して不幸でも不安

でもないはずです。

  その囚われていない心。それはわたしたちの意識の本質で、

人間の世界のお話しに囚われなければ、いつでもそこに遊べま

す。 

 

 わたしたちの意識から「したいこと」 が消えると、いま起き

ていることがそのまま見えてくる。「自分がしたいこと」では

なくて、「世界がしていること」に遊べる。

 

 

 

2024年9月22日日曜日

高次の存在・・・

 
 
 【バカと煙は高いところへのぼる】という言い回しがありま
 
すけど、宗教の修行者とかスピリチュアル系も高いところへの
 
ぼりたがりますよね。
 
 こんなことを言うと、修行者やスピリチュアル系がバカだと
 
言っているようですが、そうではありません。【バカと煙
 
は・・・】という言い回しがふと頭に浮かんで、「修行者やス
 
ピリチュアル系もそうだよなぁ」と思っただけです。彼らはた
 
いてい「自分を高めたい!」と思っているものですからね。

 

 「ハイヤーセルフ」とか「高次の存在」とかいう言葉をよく
 
見聞きしますが、ああいう言葉は良いものではありませんね。
 
自己肯定感を満足させるために「ハイヤー」「高次」というエ
 
ゴ(自意識)が喜ぶワードが使われている。「自分は普通より
 
優れているのだ」と。
 
 
 いわゆる「ハイヤーセルフ」という言葉で表そうとしている
 
ものは、私の感じでは「0 次元」とでも表現すべきものであっ
 
て、すべての存在の本質です。誰にでも備わっていてエゴの後
 
ろに広がっているものなので、「つながる」「つながらない」
 
とか、上の階層にあるというものではありません。「エゴのお
 
話し」に目と耳を奪われなければ、いつでもそこに安らいでい
 
る自分が在るのです。
 
 その「安らぎ」を元に世界を見れば、人間関係などに悩まさ
 
れることは無くなりますけど(人間関係がすべて良好になると
 
いうことではありません。問題があっても、それが悩みになら
 
ないのです)、それは最も普通で、普通過ぎて忘れてしまって
 
いるのです。例えれば、地面のようなものでしょう。

 
 もしも地面が無かったら、わたしたちに何ができます?
 
  高く登るにしても、地面が無ければ登る足がかりが無い。登
 
るにしたって浮くにしたって、地面という対象との相対関係か
 
らのイメージですし、だいたい高いところへ登ったところで、
 
そこでなにをするのでしょう? 上から見下ろして悦に入るので
 
しょうか? 
 
 
 和尚(ラジニーシ)が講和の中でこのようなことを言ってま
 
す。
 
 
 〈ヒラリー(エベレストに最初に登った登山家)は山頂で何
 
を見ただろうか? 命を賭けて登り詰めたそこには何も無い。彼
 
は自分が愚か者に思えて当惑したことだろう〉
 
 
 ヒラリーが実際に何を感じ、何を思ったかは分からない。け
 
れど、彼が命を懸けたのは自ら作り上げた “お話し” であっ
 
て、それが妄想であることを、彼自身が心の底で知っていただ
 
 ろう。そしてエベレストに登り詰めた彼は、自らの妄想を取り
 
繕うために、あらたな “お話し” を紡がねばならなかっただろ
 
う。
 
 
 人は登りたがるけれど、登っているのは自分たちが作り上げ
 
た “お話し” のルートであって、そこに命にとっての意味や価
 
値があるわけではない。ひと時の興奮や優越感はあるだろうけ
 
れど、本当はなんでもない。
 
 
 いま立っている、いま歩いている、いま寝そべっているこの
 
地面が与えられていて、すべての人間の “お話し” はそこから
 
しか生み出せない。
 
 上ではなくて、わたしたちの下にあるもの。
 
 わたしたちの(まさしく)存在の基盤。
 
 そこにこそ、敬意を示すべき価値があるのでは?
 
 
 上を見るとき、わたしたちは最も大切なものを見失う。
 
 
 
 
 
  
 

2024年9月16日月曜日

「理不尽」にサヨナラ

 
 
 生きていると理不尽なことがいろいろあって、みんないろい
 
ろとストレスを溜めている。「なんでこんな目に・・・」など
 
と考えたりする。でも「理不尽」って問題なんでしょうか?
 
 
 「理不尽」という言葉が使われるシチュエーションを考える
 
と、そのほとんどは「不愉快」という言葉で表した方がいいで
 
しょうね。 自分に都合が悪い(自分にとっての理に沿わない)
 
ことだからといって、状況の方に問題が有ると受け取って「理
 
不尽だ」と思う。でも、それでは状況に揺さぶられ続ける人生
 
になってしまいます。どのような状況もなるべく「愉快」に受
 
け取る智慧(自分にとっての理に拘泥しないこと)が無いと、
 
人生から「理不尽だ」とかいうような愚痴が絶えることは無
 
い。
 
 
 世界は自分の為に動いているのではないので、自分の立場や
 
希望なんかに配慮して展開してくれなくて当たり前です。災害
 
などは理不尽でも仕方がないと考える人はそこそこいるでしょ
 
うが、これが人間のすることになると話は違う。「あいつはな
 
んでこんなことをするんだ😤」と腹が立つ。けれど、自分には
 
理不尽でも、相手の立場や考えからすれば筋が通っているので
 
す。あるいは、そいつには他人の立場に立って考える力が無い
 
のです。
 
 人間は自分が可愛いので、そうそう他人の立場に立ったりし
 
ませんし(「理不尽だ!」と怒ってる人も、理不尽なことをし
 
た者の立場に立ってはいない)、他人の立場に立って考える能
 
力が無い人に「こっちの都合も考えろ!」などと腹を立てても
 
ムダです。その人にはそんなこと無理なんですから。

 
 人間がする理不尽なことも、自然災害の一つだと言えます。
 
だって人間を生み出したのは自然なんですから。ですから、誰
 
かの理不尽な行いも、自然現象の一種として対応することは可
 
能ですが、そんな風にする人は珍しい。それどころか場合に
 
よっては他の人間から批判されたりします。「なんで、あんな
 
ことされて黙ってるんだ!」とか・・・。でも、その人も急に
 
降り出したゲリラ豪雨を睨みつけて文句を言ったりはしないで
 
しょう。そんなのバカですからね。でも、人間相手でも同じこ
 
とですよ。「理不尽だ!」なんて怒っても、バカらしいだけで
 
す。
 
 
 人は、人というものを特別扱いし過ぎです。
 
 不愉快な奴も「サルの一種だからその程度の奴がいても仕方
 
がないよな」と 思うことだってできる。「自分もサルの一種な
 
んだし・・・」と思えば気が楽ですが、そうも行かない。人
 
は、人というものを特別扱いし過ぎますが、自分というものは
 
さらにさらに特別扱いしますからね。
 
 「あいつはサルだが、オレはサルじゃない!」
 
 心のどこかでそう思う。 
 
 確かにサルではないかもしれません。サルも多少は「理不尽
 
だ!」なんて怒ったり恨んだりするでしょうが、人ほどではな
 
いでしょうから、人はサル以下かもしれませんからね。

 
 わたしたちは人というものを特別視し過ぎです。だから、他
 
人や自分の考えること、することが良くも悪くもおおごとに
 
なってしまう。
 
 私は繁華街なんかに出かけると、そこを行き交う人たちがと
 
きどきアリのように見えてしまう(もちろん、そこにいる私
 
も)。人とアリと何も変わりはないと。
 
 自然から生み出され 、何かを求めてうろうろしている。人間
 
が特別なわけじゃない。それを認識しないから、いろんなこと
 
が理不尽に思える。
 
 自分たちが「何者かである」と驕って、背伸びしているから
 
ちょっとしたことでグラつく。で、嘆く「理不尽だ・・・」。

 
 理不尽なんてありませんよ。自分でそうラベルを貼るだけで
 
すよ。わが県の知事が「おれは知事だぞ😤」と怒ったとか怒ら
 
ないとか・・。それと同じです。驕って、背伸びしていたら、
 
気に食わないことが増えるばかり。みんな「何者」でもありま
 
せん。ただの人です。自然のひとかけらです。
 
 人間のお話しを真に受けなければ、理不尽なんてありませ
 
ん。