2025年2月25日火曜日

神様に選ばれた人?

 
 
 「神様に選ばれた人」という言い方がありますよね。「成功
 
者」ということでしょうけど、安直な表現だなぁと思います。
 
 人は皆、神様に選ばれてそれぞれ生まれて来るし、神様に選
 
ばれてそれぞれ暮らしているし、神様に選ばれてそれぞれ死ん
 
でゆく・・・そういうもんだと思います。
 
  結局のところ、この世のすべては神様が選んだわけで、その
 
中の何かを取り立てて神様が選んでいるわけじゃない。神様
 
は、誰も、何も、選んでいはない。
 
 
 人なら人、トカゲならトカゲ、木なら木・・・、すべての存
 
在は、それぞれのままに、それぞれの在り方で存在するように
 
選ばれている。
 
 善人は善人のままで、悪人は悪人のままで、長生きは長生き
 
なりで、早死には早死になりで、天才は天才として馬鹿は馬鹿
 
として・・・。すべての人が 、すべての存在するものが、そう
 
あるように選ばれている。神様の意向を人があれこれと選別す
 
るけれど、それはアタマの一人相撲でしかない。 
 
 
 「神はサイコロを振らない」
 
 本当にそうです。もしも神がサイコロを持っているとした
 
ら、人用のサイコロは八十億面体でしょうけれど、神はサイコ
 
ロを振らず、わたしたちにサイコロのそれぞれの一面であるこ
 
とを割り振っているだけ。サイコロは振られず、サイコロの周
 
りで世界が展開してゆく、夜空の星が動いてゆくように・・。
 
 
 仮に私が、神のサイコロの “二億三千六百三十八の目” であ
 
るとしたら、私はただその目であるだけでいい。いや、そうで
 
あるべきだし、そうあるしかない。 
 
 サイコロから離れて、“自分というサイコロ” を振れば、博打
 
を打つことになる。それは興奮することかもしれないが、自分
 
からはぐれてしまうことだろう。
 
 
 いま自分が在る。
 
 それは神様に選ばれているということ。
 
 人は、“神のサイコロ” であることを楽しめば、それでいいん
 
じゃないだろうか? 
 
 
 
 
 

2025年2月24日月曜日

「挑戦」って何でしょう?

 
 
 私は「挑戦」というものをしない。若い頃はそういうことも
 
あったのかもしれませんけど、そういう記憶はとくに無い。
 
 それまでしたことがない事をやるということは当然ある。そ
 
んなこと生きていれば当たり前で、生活や仕事の中で、やった
 
ことがないことをしなければ仕方がない、という局面はいくら
 
でもある。そんなことをいちいち「挑戦」とは言わないでしょ
 
う。
 
 自分の楽しみの中で新しいことを始めるとか、次のステージ
 
へ進むということもあるけれど、それは楽しみの延長上のこと
 
で、そういうことも「挑戦」とは言わない・・・。いったい
 
「挑戦」って何でしょうか? 
 
 
 こういうことを言うと嫌われるけれど、「挑戦」って、する
 
ことをもったいぶってるだけでしょう。「挑戦」なんて、不要
 
な言葉だと思いますね。むしろ無い方がいい言葉だと思いま
 
す。
 
 
 生きていると、さまざまなことをしなければならなかった
 
り、したくなったりするけれど、そういうことはやるのならや
 
ればいいだけの話で、面倒だったり、しんどかったりはするけ
 
れど、生きているとそういうものでしょ? そういうことのいく
 
つかを取り上げて、「挑戦」なんて看板を立てる・・・大袈裟
 
なのは嫌いです。
 
 
 「大袈裟」と書いて気が付きました。
 
 「袈裟」というのはお坊さんの衣服のことですけど、昔は人
 
が捨てたりした布を縫い合わせたりして着ていたそうで、粗末
 
な必要最低限の衣服だったようですけど、そこから察すると
 
「大袈裟」というのは、「不必要な装い」ということでしょう
 
ね。
 
 
 しなければならないことをする。
 
 したいことをする。
 
 
 すればいいのです。淡々と、たかぶらず、おごらず、できれ
 
ば遊び心を持って、自分なりにやって行けばいいだけのことで
 
しょう。「挑戦」とか「夢」だとか、もったい付けるのは不必
 
要な装いです。その分、心のエネルギーがムダになるだけで
 
す。することの本質的な喜びを濁すようにも思いますね。 
 
 
 そういえば、昔、影山民夫さんがこういうことを書いていま
 
した。
 
 「淡々と、坦々と、“W タンタン” で生きて行きたい・・」
 
  いい話だなぁと思って、印象に残っています。
 
 
 「挑戦」・・・戦いに挑む、挑んで戦う・・・。
 
   大層ですねぇ。
 
 
 
 
 

2025年2月22日土曜日

大したことじゃない

 
 
 5年ほど前から本が読めなくなった。もちろんディスレクシ
 
アではない。こうしてブログを書けているのだから。
 
 どういうことかというと、「面白そうだな」と本を買っても
 
20~30ページ読んだあたりで一度中断すると、そのまま
 
放ったらかしなってしまう。そういう本が数十冊になっている
 
のだけど、それらの本が面白くないのではなく、自分の興味が
 
続かない。以前から持っている本を読み返すことも、ほとんど
 
なくなってしまった。そのため、2年ほど前からは本を買うこ
 
と自体を控えている。どうやら自分に必要なことはおおかた
 
知ってしまったせいらしい。
 
 
 もちろん、世界には自分の知らないことが無限にある。でも
 
無限にあるものに手をだしても不毛なだけ。人が、自分に必要
 
なものを知り得たらもうそれでいいだろうというのは、当然と
 
いえば当然だ。
 
 
 本を読むことに限らず、さまざまなことに興味が無くなって
 
きている。わざわざ美味しいものを食べようとか、美味しい酒
 
を飲みたいとかも思わなくなったし、よく味わいながら食べた
 
り飲んだりもしなくなった。着るものも、不潔な感じがしなけ
 
ればそれでいい。音楽に対する興味は今でも結構あるけれど、
 
以前ほどはじっくり聴いていない・・・。こう書いてみると、
 
なんだかセルフネグレクトみたいだけど、そういうことでもな
 
さそうだ。美しいものを見れば感動するし、毎日機嫌は良い。
 
 
 自分の在り方というのが確定したのだろうと思う。あっち
 
こっちキョロキョロして、自分に合うものとか自分らしいこと
 
とかを探す必要が無くなったのだろう。単に歳を取ったせいだ
 
けなのかもしれないが・・・。
 
 
 理由はともかく、そういう風になってみて思うのは、どうで
 
もいいことをいかに重要だと感じていたかということ。これま
 
で重要だと感じていたことが大したことではなくなったのな
 
ら、それは元々大したことではなかったということ。
 
 「大したことではない」ということの確認の為に、さまざま
 
なことを体験・学習するのが人生であるのかもしれない。それ
 
がムダであるのかどうかは定かじゃないけれど、まぁムダかど
 
うかも大したことじゃない。
 
 
 いずれにせよ、「人生は大したことじゃない」と思えるのな
 
ら、それはなかなか大したことじゃないだろうか? すっごく、
 
気が楽になるからね。