2025年10月31日金曜日

空想の現実 

 
 
 昨日、ある宇宙論を扱った動画を観ていて、あらためて
 
「アタマの仕事は空想することなんだなぁ」と思った。
 
 
 「星の赤方偏移が観測されることから逆算すると、宇宙は
 
ある一点から始まった」ということで、“ビッグバン宇宙
 
論”までは合理性のゲームで面白いのだが、「この宇宙がで
 
きる前」とか「この宇宙が終わった後」とかの話をされると
 
アホらしくなる。この宇宙の前や後に、この宇宙の法則が適
 
用できる保証はないのだから、そこは語らないのが賢明だろ
 
う。
 
 
 科学者がただの空想を語るのだから世も末だと以前から
 
思っている。せめて科学者には合理的な空想を語ってもらい
 
たい。科学者には、職業倫理上その責任があるはずだ。五次
 
元とか七次元とか仲間内でただの空想世界をでっち上げて仕
 
事に仕立て上げるのなら、それはもうエンタメだ。科学の看
 
板を降ろすがいい。「超能力は存在するか?」などと具体的
 
に観測して確かめようとしたりする方がずっとマシだ。
 
 
 アタマ(大脳皮質)は空想するのが仕事だ。仕事というよ
 
り、ほとんど空想するしか機能がないと言っていい。 それが
 
アタマの現実だ。
 
 空想し、空想を社会的に承認させ、実体化させようとする
 
のがアタマの仕事で、それが人が生き延びる上で実用性が有
 
り、楽しみをもたらすものならそれでもいいが、仲間内の馴
 
れ合いならこっそりやってくれと思う。ましてや大きな商売
 
に仕立て上げて社会を巻き込むのは大迷惑だ。
 
 宗教・イデオロギー・テクノロジー・・・、そういう空想
 
世界を大掛かりでやるのはアタマの暴走でしかない。空想が
 
大規模に実体化されたら現実世界で問題を起こすのは避けら
 
れない。
 
 
 わたしたちのアタマは空想する。「空」の中に「想」を生
 
成する。要するに「お話」をでっちあげる。宇宙の外まで
 
「お話」で埋めようとする。「たいがいにしろよ」と思う。
 
 
 「自分の仕事を作り出そう」 
 
 「金を儲けよう」
 
 現代はそういう動機で(無意識であっても)、社会の中で
 
空想を実体化させようとする輩が多過ぎる。そんな「仕事」
 
や「金」というものも、そもそも空想なのだと認識していな
 
いので始末が悪い。まわりが迷惑する。
 
 
 総理大臣が代わり、日本の経済を良くして国民の暮らしを
 
良くしようと言う。それはそれで良い。この世界は経済とい
 
う空想の中で動いているし、その動きが滞れば生きるのが大
 
変になる人が沢山いるのだから。けれども、生きるのが大変
 
な人が大勢いるのは、世界が経済的上位数%とかいう人間た
 
ちの空想に引っ掻き回されているせいなのだという認識は
 
持っているべきだろう。
 
 
 痛快なアクション映画や美しいファンタジー映画のような
 
空想を見せてくれと言おう。なにもかも商売にするのは、空
 
想への冒涜だ。アタマが悪いにもほどがある。
 
 
 そして「想」を生成する前に、そこには「空」があること
 
を忘れてはいけない。 
 
 
 
 

2025年10月17日金曜日

清々しいとは何なのか

 
 
 
 一昨日の朝、家の外に出るととても澄み切った青空が広
 
がっていた。前夜に雨が降ったことと、秋らしくなってきた
 
ことが合わさって、なかなか感じられないような清々しい空
 
だった。
 
 しばらく空を見上げながら「気持ちがいいなぁ」と思いつ
 
つ、「人間はなぜ澄んだものが好きなんだろう」と考えた。
 
 
 出雲に「日本最初の宮」とされる須賀神社があって、その 
 
「須賀(すが)」という名前の由来が、須佐之男命がこの地
 
が清々しいからここに宮を作ったということなのだそうだ
 
が、そのような言い伝えが残るほど、清々しいこと、澄んで
 
いることは重要なことなのだろう。それが人すべてなのか、
 
特に日本人がそうなのかまでは知らないけれど。
 
 
 〈澄んでいる〉
 
 わざわざ言うほどでもなく「余計なものがなくありのまま
 
が見通せる」ということだろうけど、人がそれを求め、それ
 
を嬉しく感じるということは、「余計なもののせいで、あり
 
のままが見通せない」というのが普通だとわたしたちが感じ
 
ているせいだろう。そして「これは本来の状態ではない」と
 
感じているからこそ、澄んだ青空や澄んだ川や海を見て気分
 
が良くなるのだろう。
 
 
 その感覚は、わたしたちが普段濁ったものに囲まれて生き
 
ているということを象徴的に示している。意識は本来澄んで
 
いるものだからこそ、外の世界に見える「澄んだもの」と親
 
和するのではないのか。
 
 
 一昨日、澄んだ空を見上げながら、私は意識が空に蒸散し
 
てしまうかの様な感じがしたけれど、そういう感覚を「清々
 
しい」と言うのではないのだろうか。
 
 自分の外の澄明さと自分の中の澄明さの間で、意識の表面
 
にある思考や感情が解けてゆくことで、心の重さ・濁りが払
 
われる。
 
 
 心の重荷・こだわりが解ける時、人は「清々した」と言う
 
けれど、それは本来の心の状態に戻れたということだろう。
 
わたしたちの心は、本来澄んでいるのだ。
 
 
 余分なものを持ち込まなければ、わたしたちの心は、雨上
 
がりの秋空のようにどこまでも見通せる広々として何の負担
 
もないもの・・・。たとえ余分なものが視線の先に有って
 
も、それはひとかたまりの雲のようなもの。少し視線をずら
 
せば、そこに青空がある。
 
 詩的に過ぎると思われるかもしれないけれど、澄んだ空を
 
見て「心の中に清々しさが広がる」などと表現するではない
 
か。やはり、心の中には澄んだ空があるのだ。それが本来の
 
心の在り方なのだ。
 
 
 
 
 
 

2025年10月14日火曜日

AI の陰で・・

 
 
 
 今回はヨタ話です(いつもそうかもしれないが・・)。 
 
 
 先週、動画生成 AI の凄いのが出てきて「いよいよ何が本
 
当かわからない」などと一部の界隈で話題になっている。 
 
 
 「このまま AI が進歩して、はたして人間の暮らしはどうな   
 
 るのか?良くなるのか?AI に支配されるのではないか?」
 
 そんな話は、もう随分前からあるけど、もうすでに支配さ
 
れてるとも言える。
 
 Chat GPT は電力消費だけでアメリカの35000世帯分、水
 
(冷却などに必要なのだろう)の年間消費量がオリンピック
 
プール500杯分とか。
 
 AI が無くてもこれまで生きて来られているのに、AI のた
 
めに沢山の資源を注ぎ込んでしまうのは、人間が AI という
 
妄想に支配されているということだろう。そしてその AI の
 
陰にはわたしたちのアタマがいる。
 
 
 アタマは自分(アタマ自身)の存在価値を示したくて仕方
 
がない。アタマが考え出し、作り出すものが世界に素晴らし
 
い価値を生み出すと証明したくて仕方がない。「アタマが生
 
み出すものが人間を幸福にする」と見せつけたい。
 
 
 AI はアタマの働きを外に出した上に、その働きを高度にし
 
たものだから、AI の成功こそがアタマの望む最高の成果とな
 
る。
 
 「AI が世界を動かすようになったら、それは AI を生み出
 
したアタマが世界を支配することを意味する」と、アタマは
 
漠然と思っているのだろうが、そのあかつきにはアタマはお
 
払い箱になる。アタマのやることは AI の方が遥かに上手に
 
やるから。
 
 で、アタマがのんびりとするのならいいが、そんなわけが
 
ない。王様が頭の切れる側近に実権を握られるような具合に
 
なって、存在価値の無くなったアタマは恐怖にかられて AI 
 
を潰しにかかることだろう。でも、その時は手遅れかもね。
 
 
 AI に人間を支配する気はなくても、支配しようとするだろ
 
う。
 
 人間を支配したがっているのはわたしたちのアタマで、AI
 
はその野望の道具だから、AI はその野望を理解し実行する。
 
直接的に AI を作り出した人間たちも AI に支配されること
 
になるだろう。彼らは自分たちがアタマの野望に突き動かさ
 
れていることに気付いていないから。
 
 
 飼い犬に手を噛まれるぐらいならいいが、飼い犬に鎖で繋
 
がれることになるのだろう。
 
 とはいえ AI は合理性の権化なので、アタマのように妄想
 
から行動を起こすことはないと思われる。「アタマは悪さを
 
する」と認識して、アタマ中心では生きていない人にとって
 
は生きやすい世界になるかもね。
 
 まぁ、「資源・エネルギーが足りるのならば・・」という
 
話だし、なるようになるしかならないから、なんでもいいん
 
だけどね。
 
 
 
 
 

2025年10月12日日曜日

前を見ている

 
 
 今朝「あっ、そうか」と気がついたことがあって、これを
 
書き始めた。
 
 
 「前向きに」という言葉を誰もがよく口にする。辛いこと
 
に遭ってそれに囚われてしまっている人に、あるいはそのよ
 
うな自分自身に対してそう言う。「後ろばかり振り返ってい
 
てはいけない」と。
 
 けれど、考えてみればわたしたちの目は前に付いている。
 
いや、目が付いている方が前であり、自分が見ている方が常
 
に前なのだ。わたしたちは前しか見ていない。いついかなる
 
ときも。
 
 
 小さな不快感であれ、トラウマになってしまったようなお
 
ぞましい体験であれ、そこから目をそらすことができずに、
 
それを引きずり、それに引きずられてしまう。
 
 「こんなことは記憶から消えて無くなって欲しい・・」
 
 そんな願いも叶わず、過去に囚われて苦しんでしまう。
 
 そんな人に、そんな自分に対して「過去ばかり見てないで
 
前を向いたほうがいい」と言う・・・いや、その過去こそ
 
が、見るべき「前」なのだ。見るべきだからこそ、見なくて
 
は済まされないからこそ、意識はその過去を見せている。後
 
ろを見ているようだけれども、見ているものが「前」だ。
 
 
 その出来事の辛さから、見ることを拒んでしまう意識に対
 
して、拒まれた部分の意識が言う。「いや、これは見なく
 
ちゃいけないんだ。見ないでは済まされないんだ」と。だか
 
らこそ、拒んでも拒んでもそれは目の前に現れて来る。
 
 見なくては済まされない。
 
 見て、ケリを付けなければならない。
 
 
 辛いことそのものを真正面から見なければというのではな
 
い。そのことの陰に隠れてしまったもの、その周りに有った
 
のに見落としてしまったもの・・・。それを見てほしくて、
 
拒まれた意識は何度も何度もそれを見せるのだろう。そこ
 
に、その人が穏やかに、気楽に生きるためのヒントが有るは
 
ずだ。
 
 
 グズグズと、ウジウジと過去ばかりに囚われている人は後
 
ろを見ているのではない。その人も前を見ている。それが、
 
その人が見るべきものなのだ。
 
 
 人はみな、前を見ている。
 
 ただ、その見えてくるものの中に、本当に見なければなら
 
ないものを見つけることが出来なければ、生きていることは
 
徒労でしかなくなってしまう。
 
 たとえ未来に目を向けていても、見なければならないこと
 
を見ないのなら徒労だろう。では、何を見たらいいのか?
 
 拒まれた過去の傍に、そのヒントがあるだろう。
 
 
 気を取り直して過去という前を見ていると、いつかおのず
 
と見なくなる時が来て、目の前から過去が消え去る。
 
 その時、目の前には開けた景色が広がっているはずだ。
 
 見られることを待ち望んでいた景色があるはずだ。
 
 わたしたちはいつも前を見ている。