今日、吉田兼好の『徒然草』についての動画を見て
いると、“兼好は世の中と関わらなくなって暇だから
頭に浮かぶことを書いたのが『徒然草』になった”と
解説していた。なんだ、このブログと同じじゃない
か。
「徒然」というのは、暇で手持ち無沙汰ということ
だけど、「草」はなんなのか?ちょっと調べてみたけ
どわからなかった。ということで自分で考えてみる。
「正法眼蔵」に《花は愛惜(あいじゃく)に散り、
草は棄嫌(きけん)に生(お)うるのみ》という言葉
が有る。「嫌っても草は勝手に生えてくる」というこ
とを引き合いに出して、「諸行無常、この世界に人の
思惑なんて関係ない」ということを戒める言葉だけ
ど、兼好も「草」を「勝手に出てくるもの」という意
味合いで『徒然草』という題にしたのだろう。
しかし、今は21世紀。ネットの世界で「草」といえ
ば「笑い」です。今回のタイトルのように「徒然で
草」と書けば、「暇ですることなくて笑ってる😄」と
いうことになる。
このブログが『徒然草』みたいなものなら、「手持
ち無沙汰で笑うしかない」というより、「手持ち無沙
汰だから笑ってしまう」あるいは「手持ち無沙汰だか
らこそ笑える」という姿勢でいたい。
わたしたちは目的意識を刷り込まれているので、手
持ち無沙汰を嫌う。退屈を恐れる。それが人間の本性
であるかのように思っているけれど、本当は違うだろ
う。人の本性は、することが無い状況に安らげるはず
だ。アタマが不安になるのであって、本当はすること
が無ければ「あ〜、気楽だ」と寝転んでいられるもの
だろう。
「徒」というのは「いたずらに」で、「然」は「し
からしめる」だから、「わけもなくそのようになる」
という意味でもあって、そこには意志が無い。目的も
コントロールもないので、なんの気負いも生まれな
い。「徒然」は草だ。気楽に笑っていられるはずだ。
そのはずなのだが、わたしたちは「徒然」だと不安に
なったり、罪悪感さえ持つように刷り込まれているの
で「徒然」を排除しようとしてしまう。
「徒然」は草だ。この次「徒然」が訪れたら、そこ
に生えてくる草に触れられるよう、心にスペースを
とっておこう。
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