“「嫌なことはしなくていい教育」が社会で通用し
ないことが分かってしまう W ”
You Tube のサムネにそんな言葉が有った。
内容は察しがつくので動画は観ていないが、この言
葉を裏返せば、「嫌なことをしなければ、社会でやっ
ていけない」ということだ。“社会で通用しないこと
が分かってしまう W ”などと笑っていていいのか?
人間が狩猟・採集で生きていたときのことを想像す
れば、嫌なことでも辛抱してやらなければ生きていけ
ないのは当然だとわかる。けれど、人が生きていくた
めの基本的な“嫌なこと”と、社会で通用するための
“嫌なこと”は違うのではなかろうか?
初代の貴乃花が「人間、辛抱だ」(「人生、辛抱
だ」だったかもしれない) と語ったという。それは
よくわかる。自分の望むように物事が運ぶわけじゃな
い。生きていれば、辛抱しなければならないことはい
くらでもある。けれど「嫌なことをしなければ、社会
でやっていけない」ということには、常に疑いの目を
向けておくべきではないだろうか。
「そういうもんだから・・・」と嫌なことを受け入
れ、時によれば自ら身を置き、その結果得られるもの
が果たして自分にとって・・いや、人にとって本当に
良いものなのか?そこのところを不問にしたまま「人
間、辛抱だ」をやっていると、苦しいだけで本当は何
も得ていないことになりかねない。
「嫌なことをしなければ、社会でやっていけない」
を続けることが、過労死・過労自殺・鬱病・パワハラ
などを生んでいることは間違いないはずだ。
ブラック企業を揶揄するその同じ人物が、“「嫌な
ことはしなくていい教育」が社会で通用しないことが
分かってしまう W ”と言って笑っているのだろうと
私には思える。こういう話題で“ W ”などと言って
いる奴は、「するべき辛抱」と「するべきではない辛
抱」を見極めようなんてしていないだろう。
社会の中の“得るべきもの”のほとんどは、「する
べきではない辛抱」の上に成り立っていると見てまち
がいないだろう。それらは失われても直接人の命を奪
わないものだから。
ところが多くの人が、その“得るべきもの”の為に
ストレスを抱え、人間関係に疲弊し、身体や心を壊し
たり、命まで失ったりする・・・単に個々の事案だと
片付けずに、本質的なところに疑問を持てよと思う。
これまで何度も書いてきたけれど、社会は人をしあ
わせにしない。社会は社会の為に個人を利用するだけ
だ。
もちろん、不幸になるだけなら誰も社会の為に動か
なくなるので、嫌なことだけではなく飴も与える。し
かし、その飴は対価として見合うものなのか?
本質的なことを確かめようとする人は少ない。ほと
んどの人のアタマは社会の統制下にある。
「嫌なことはしない」は大事なことだ。
しないことで得られないもの。
しないことで得られるもの。
しないことで失うもの。
しないことで失わずにすむもの。
何が大切なのか?
嫌なことを拒否して社会から干される、割を食ら
う・・・それは確かにしんどい。私は何度も経験した
からよくわかる。けれどそここそが人としての辛抱の
しどころじゃないだろうか?
ただの社会的わがままの為じゃなく、人としての本
質を大事にする為の辛抱は「嫌なこと」にはならな
い。
こんなことを言って責任は持てないけれど、社会の
お話が何を与えてくれるのかを吟味すれば、誰でもう
なずく話じゃないだろうか。
「嫌なこと」は嫌だ。
その素直な感覚には、ちゃんと相手をしてあげるべ
きだろう。その上で、するのかしないのか?
嫌がっているのはアタマなのか、身体なのか、心な
のか?
身体と心を無視したら、たぶん地獄を見るだろう。
初代貴乃花はしあわせだっただろうか?
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