2020年3月7日土曜日

死にたくないのは当たり前だが・・・ コロナ ⑩



 さっきニュースを見ていたら、「コロナウイルスの感染拡

大防止の為に、東京の “こども食堂” の七割が活動を自粛し

ている」とあった。それを見て、ムカムカと腹が立ってき

た。
 

 こんな騒動のせいで、貧困家庭の子供がまともな食事を食

べられない。政府は貧困家庭の子供がちゃんと食事をとれる

ような施策も行っていない。事あるごとに「少子高齢化が問

題だ」と言い、何か事件でもあると「子供を守る!」と政治

家が言う。ホントに「子供が大事」なのか? いったい何な

んだ! 何がしたいんだ!


 日本に限らず、世界のコロナウイルスに対するこの狂騒は

いったい何なのだろう?

 誰だって死にたくはないが、私の目から見ると、この騒ぎ

は常軌を逸している。

 誰だって死にたくはないが、人は皆死なねばならない。そ

して、人が死ぬ理由の8~9割は病気だろう。

 日本は世界有数の長生きの国だが、その平均余命は約84

歳。「老衰死」するのは100歳前後だろうから、平均余命

84歳というのは、大多数の人が病気で死ぬということを物

語ってもいる。


 「老衰死」のことを「自然死」と表現したりもするが、人

が病気になるのは多くの場合「自然」なことだから、病気に

なって人が死ぬのも「自然死」だと私は考える。その自然の

成り行きをある程度まで受け入れるのが、大人のたしなみ

はないだろうか。


 昭和の中頃までは「人生五十年」だった。今は「人生100

年」などと言う。

 「人生100年」になって、日本人は昔よりしあわせになっ

たのか?

 私は、何かをはき違えていると思う。


 昭和の中頃、禅僧の沢木興道老師はこんな言葉を残してい

る。(やたらと「長生き、長生き」などと言う人に対して)

「まるで、“長生きしたい病” じゃな」。



 今回の騒動がさらにきつくなれば、仕事を失う人が沢山出

るだろう。そのために自殺する人が多く出て、その数はすぐ

に “新型コロナウイルス肺炎” の死者を上回るだろう(統計

には出ないだろうが)。子供の貧困も増加するだろう。医療

崩壊でも起きれば、コロナ以外の病気やケガで医療を受けな

ければならない人がそれを受けられずに死んだりもするだろ

う。

 ウイルスによる肺炎は自然の範疇だが、その狂騒から派生

する不幸は、人為によるものだ。

 人は、自然がもたらす不幸は辛くても受け入れざるを得な

いだろうが、人為がもたらす不幸はどうしても受け入れがた

いものではないだろうか?


 今回世界中で行われていることは、人間の尊厳を守る行為

ではないだろう。表面上は「人の命と健康を守る」と言いな

がら、その実、守りたいのは「エゴ」だ。


 わたしたちは自然の一部であり、わたしたちは「死」から

生まれてきた。それを無視すると、人の困難は増すばかりだ

ろう。アタマが悪いよ・・・。





2020年3月6日金曜日

そうか、『バイオハザード』か・・。 コロナ ⑨



 今朝ふと思ったことについて書こうと思うけど、その取っ

掛かりとして、まず『バイオハザード』のことから始めなけ

ればならない。


 私は、映画の『バイオハザード』が大好きである。理由は

簡単で、「主演のミラ・ジョヴォヴィッチがカッコイイ!」

という一点だけである。ストーリーは一応退屈せずに観られ

る程度にできていればそれでいい。ミラ・ジョヴォヴィッチ

がカッコよければそれでいいのだ。

 全作観て、 DVD は全部持ってる。暇が出来たら、一日で

全作通して観てみたいと思う・・・、けれど、今日の話はミ

ラ・ジョヴォヴィッチのことではなくて、ゾンビの方だ。


 ゾンビというのは、ご存じの通り “死んでも動き続けてい

る存在” のことで、死人でもなく生きた人間でもない。

 『バイオハザード』の中では、「T-ウイルス」に感染した

人間(犬やカラスなんかも感染する)がゾンビになってしま

い、感染してない「生きている人間」に襲いかかって、喰っ

てしまうのだが、その光景とよく似た光景を少し前に見た。


 三週間ほど前のニュース番組だったろうか。中国の武漢市

から他の町へ避難した男性が外出したところ、近所の住民に

取り囲まれ、小突き回されていたのだが、その様子はゾンビ

に取り囲まれて喰われようとしている映画のシーンそのまま

だった。(「お前はウイルスを広げる気か!」などと言いな

がら、自分から近付いて行く姿はバカ丸出しだったが)


 コロナウイルスの広がりが「バイオハザード」(「生物学

的危害」あるいは「生物災害」)といった認識で捉えられて

いるようだけど、先述の「男性を小突き回していた住民た

ち」は “コロナウイルスの恐怖” に感染し、すでにゾンビと

なっていたのだ。だから行動が「ゾンビ化」していたので

す。恐怖は、人をゾンビ化する。 


 そんなことを今朝考えて、ふと気付いたのがこのブログの

サブタイトル。「~生きられてる?~」と書いてあります。


 このブログを目にする人は、当然「生きている」のです

が、その人に対してこのブログの書き手は「生きられて

る?」と尋ねている。言葉を変えれば「生きながら死んでな

い?」ということです。言ってしまえば「あなた、ゾンビに

なってない?」ということですね。

 社会というものの中でうっかり暮らしていると、わたした

ちはゾンビになってしまうのです。そして、生きている人を

見つけると襲いかかるようになる・・・。


 世界には、わたしたちに恐怖を抱かせるような事が限りな

くある。限りなくあるので、そのいちいちにいちいち恐怖を

感じていたのでは、とてもじゃないが生きていられない。と

いうわけで、わたしたちは恐怖を抱かせるものを「見ないよ

うに」する。しかし、「見ないように」しただけでは、それ

はなくならない。何かのきっかけで目に触れることがある。

 「見ないようにしていたもの」、言葉を変えれば「無いこ

とにしていたもの」が現れたらどうするか?当然、それを消

そうとします。ゴキブリを叩き潰す、あの心理です。


 “文化的な人” がよく使うフレーズがあります。

 「あってはならない」


 一番「あってはならない」のが、「死」です。

 「死」は「あってはならない」。

 だから、「死」は無くす(!)。

 「死」は、消す。

 現代の日本では、「死」は無いことになっているようで

す。だから、コロナウイルスのような “ウイルス界の雑魚” 

(コロナウイルスには失礼だけど)にさえ、今回のような反

応をする。


 「死」を意識させるものも「あってはならない」。

 「あってはならない」のですから、消そうとします。が、

消せるでしょうか?

  消せるわけがないはずですが、意識の上からは消せてい

るようですね。少なくとも「自分のことではない」という意

識で、他人の「死」を見ている。けれど、問題を隠蔽すれ

ば、後でさらに大きな問題になって立ち現れてくるのが、必

然です。時として、それを「自分のこと」として意識せざる

を得ないことが起こる。


 「死」を自分の意識から消して来た人間には、免疫が無

い。なので、「死」のイメージが意識に侵入して来た時には

簡単に感染してしまう。

 そして、感染した「死」のイメージは、その人の意識の中

で、その人の思考を利用して「恐怖」を作り出し続ける。や

がて、「恐怖」に思考を覆いつくされた人は理性を失い、衝

動のままに動く “人ではない何か” になる。つまり、「ゾン

ビ化」するのです。


 このブログのサブタイトルに「~生きられてる?~」とあ

るのは、わたしたちの多くがほぼ「ゾンビ化」していると、

私が感じているからでしょう。

 多くの人が、その心の内に「恐怖」を隠したまま生きてい

る。半分死んでいる。だから、ほんの些細な事でも、自身の

「恐怖」を喚起させるような事に出会うと、すぐに攻撃に出

る。すぐに「ゾンビ化」する。


 今回、書きながら思い出したけど、去年『夏休みが終わ

る・・・。死んでも死ねないよ』(2019/8)という回で、

比喩として「ゾンビ」の話をしている。

 ゾンビにならないために、ゾンビに殺されないために、人

として生きるために、人としてしあわせであるために、わた

したちはどうすればいいか?


 ミラ・ジョヴォヴィッチが演じる “アリス” は、「T-ウイ

ス」を取り込んで超人となった。

 わたしたちは、「死」を意識に取り込んで、それが生み出

す「恐怖」を制御することで、社会的な存在としての “人” 

を超える。生命としての “人” となる。


 どうやったら「死」の生み出す「恐怖」を制御できるか?

 「死」が「恐怖」を生み出すのは、アタマの中の “クズ” 

プログラムのせいだと気付くこと。その「恐怖」という奴

イリュージョンなんだとね。




 
 

2020年3月4日水曜日

「新型コロナウイルス肺炎」という “お話し”  コロナ ⑧



 今回、「新型コロナウイルス肺炎」(そう呼ぶことにす

る)のせいで、感染症についていろいろ考えたおかげで、こ

ういう仮説にたどり着いた。今からその「こういう」を説明

したいと思う。


 中国の武漢市で複数の肺炎患者が出て、その患者を調べた

ところ、いままでとは違う型のコロナウイルスが見つかり、

「このウイルスが肺炎を起こしている」とされ、“新型コロ

ナウイルス” が引き起こす「新型肺炎」とされた。け

ど・・・、ホントに “新型コロナウイルス” が肺炎を起こし

ているのか?ちゃんと調べたのか?

 ちゃんと調べてるわけがない。あの短期間でそのような調

査研究ができるわけがない。(もしかしたら、“専門家” は

「出来る」と言うのかもしれないが)


 わたしたちの身体には、皮膚にも口の中にもおなかの中に

も、何種類もの常在菌や常在ウイルスが生息している。ま

た、わたしたちは日々何種類もの細菌やウイルスに感染して

いる。

 仮に、今回見つかった “コロナウイルス” が、近年変異し

て、人の常在ウイルスとして世界中の多くの人に住み着いて

いるとか、環境中に広く分布して常に多くの人に感染してい

るものだと考えてみる。もしそうなら、世界中どこで調べて

も、結構な数の人が感染しているのが確認されることにな

る。ほとんどの人がブドウ球菌を持っているように。


 それと同時に考えたいのが、「肺炎」という病気が、ごく

ありふれた「病気」だということだ。

 もしかすると、「すでに多くの人が感染している “新型コ

ロナウイルス” 」が、他の理由で「肺炎」や「風邪のような

症状」(ようするに風邪だけど)を起こしている人から見つ

かるだけなのかもしれないではないか。


 人が「肺炎」を起こす(普通「肺炎に罹る」とは言わない

ことに注意して欲しい)理由にはいろいろあるが、代表的な

ものとして、「細菌」や「ウイルス」の感染が上げられる。

要するに「病原体」に感染することで「肺炎を起こす」とさ

れるのだが、実際に「肺炎」を起こすのは「病原体」ではな

い。「肺炎」を起こすのはわたしたち自身の免疫機構だ。


 免疫細胞は、侵入してきた異物に対抗するために、自分た

ちの活性を高めようと「サイトカイン」という物質などを放

出する。その「サイトカイン」が過剰になると、炎症が起き

る(「炎症」と認識できるレベルの「対サイトカイン反応」

が起きる)ことになる。

 免疫細胞が「活性を高めよう」とする契機となるのが、

「細菌」や「ウイルス」などの異物の侵入だというのは間違

いではないのだろうが、もともと「免疫活性」が高い状態で

あれば、免疫細胞は「サイトカイン」をむやみにださなくて

も、異物に対応できるのではないか?「肺炎」などの “炎

症” を引き起こす根本の原因は、「細菌」や「ウイルス」な

どの異物の侵入ではなくて、そもそもその人の免疫活性が低

いことだと考える方が妥当ではないか?

 「病原体」に感染しても、発症しなかったり、発症しても

軽かったり、重篤になったりするという違いは、「個人の免

疫力の違い」だと “専門家” も言う。ならば、「病原体」が

強いとか弱いとかではなく、「なぜ免疫力(免疫活性)に差

が出るか?」ということの方に目を向ける方が合理的だろ

う。


 今回おきている「肺炎」のような “現象” は、「感染症」

というより、『免疫不良症候群』とでも呼ぶ方がいいのでは

ないかと思う。原因は「ウイルス」ではなく、「免疫活性の

低下」だと。


 例に挙げれば、エイズの代表的な死亡原因の「カリニ肺

炎」。(現在では「ニューモシスチス肺炎」というのだそう

だ)

 免疫不全を起こしているために、ごくありふれた「細菌」

などで肺炎を起こし、重症化して亡くなってしまうが、その

原因は「細菌」ではなく、免疫不全だと誰もが考える。

 それならば、一般的な「感染症」も、エイズのような「免

疫不全」ではないにしろ、なんらかの理由で「免疫不良」を

起こしていることが発症の理由だと考えても、なにもおかし

くはない。警戒すべきは、「細菌」でも「ウイルス」でもな

く、「免疫活性の低下」だろう。


 「感染症の “専門家” 」と呼ばれる人間が、メディアに登

場したり、政府に求められて意見を述べたりしているようだ

が、私はあの人たちの持つ「知見」や「常識」に懐疑的

  だから “専門家” と “ ” で括っている。


 人類は、「感染症」や「ウイルス」というものをまだまだ

よく知っていない。かなり昔に考えられた「ウイルスと感染

症のストーリー」を拠り所にして、他の見方・可能性を排除

して今日まで来てしまっているのだ。これまで拠り所にして

きた「ストーリー」が根本から覆される可能性だって十分に

あると思うよ。今回の “専門家” たちの発言を聴いていると

余計にそう思うね。

 どの業界でも 、“専門家” がただの「専門バカ」だという

ことは珍しいことではない。何かの「専門」になると、視野

狭窄を起こしやすいからね。


 「政府の対応が後手」だとか言う人間が大勢いるようだけ

ど、私の目からは「誤手」にしか見えない。批判を受けたく

ないだけの政治家と、自分の考えを持たない(持ってはいけ

ない)官僚と、視野狭窄の「専門バカ」が、日本のみなら

ず、世界を引っ掻き回しているんだ。それと、忘れてはいけ

ないのが、この三者にエネルギーを供給している存在。“正

しい人” である「安心安全原理主義者」たち・・・。


 ここに書いたことが正しいかどうかは知らない。「そうい

う見方もある」ということです。


 《 「正しい」とは、

 そういうことにしておけば気が済むということである 》


 そんなことを言っている人間のブログですからね。これ

は。




 

2020年3月1日日曜日

「何ごとも無きぞ」



 今回のタイトルの「何ごとも無きぞ」というのは、昔のお

坊さんの残した言葉です(誰だったか憶えていない。確かめ

るのも面倒過ぎて・・・)。


 前々回、『何も起こっていないんだ』という話を書いてか

ら、この言葉を思い出して考えてる。


 「何ごとも無きぞ」


 この言葉は、「この世で起こっていることは、別に “何で

もない”」と受け止めるのが普通でしょうね。もう一つの受

け止め方が、「何も起こっていないぞ」ということでしょ

う。


 私はこれまで、この言葉を「この世で起こっていること

は、別に “何でもない”」というように捉えていましたが、

今回のことで変わりました。「何も起こっていない」とね。

(「別に “何でもない”」というのも、それはそれでいい)


 前にも書いたことがありますが、私の考えることにオリジ

ナリティなんかない。

 私の考えつく程度のことは、昔の人がとうに考えてる。私

は、それをどこかで聞きかじったか、昔の人の影響でそう考

える方へ動かされて行っただけのことです。


 ならば、昔の人がそんなに偉いのかと言えば、それもまた

違う。昔の人(最初に考えた人)は “世界” によってそこへ

導かれて行った。その結果として、その言葉を残したので

す。“世界” によって考えさせられた。さらに言えば、“世

界” が考えたのです。そしてその考えの一端が、今、私から

析出している。(かなり図に乗ったことを言っていますが、

それが「価値あること」だという保証は無いし、つまるとこ

ろ「何ごとも無い」のです)


 ”世界” は「何」を考えているのでしょう?


 今朝、玄関を出ると、春の匂いがした。

 ほのかに甘い香りもする。たぶん我が家のビオラとスイー

トアリッサムの香りだろう。日差しはまぎれもなく春の日差

しで、「ああ、春が来たんだ」と思う。そこかしこで木の芽

や草の芽、花のつぼみが膨らみだしていて、心が湧きたつよ

うな感じになる。「自分は本当に花が、植物が好きなんだな

ぁ」と改めて感じる。私は植物なんだろう。


 と、そんなことを考えていたけれど、私をそう考えさせた

のは、“春の匂い” と “春の日差し” だ。

 それは「私を使って “世界” が考え、自らの “春” を楽し

もうとしている」のかもしれない、などと思う。


 木々の若葉がどんどんと開き、次々にさまざまな花が咲き

だすこれからの季節を思うと、「何ごとも無きぞ」なんて気

にはならないね。「何ごとも在り過ぎ」ぐらいの気分だ。


 まったくもって矛盾した話だけれど、この世界では「何も

起こっていない」、と同時に「出来事が無限に起こり続けて

いる」んですね。言葉の上では破綻しているけれど、私の感

覚としてはそれで納得できるのです。



 そうそう、前にも書いた『バジル氏の優雅な生活』(坂田

靖子)の「スキャンダル・クラブ」というエピソードのラス

トシーンで、明るい日差しを仰ぎながらバジルがこう言う。

 「   いい天気だ。嫌な事など何ひとつ考えられやしな

いよ」


 『バジル氏~』の中でも好きなシーンの一つですが、わた

したちが考えなければ、「嫌な事」など世界に存在しないん

ですよ。そうは思えないのが普通ですがね。


 「何ごとも無きぞ」




   ノースポールとカレンデュラ(キンセンカ) 





2020年2月29日土曜日

コロナウイルスには殺されなくても、社会に生殺しにされる コロナ ⑦



 思い出したのだった。前に『安心・安全原理主義』

(2017/5)というタイトルで書いたとき、最後にこういう

ことを書いたのを。 




〈そのうち、そう二十年ぐらい先。時の、総理大臣か厚生労

働大臣が、こんなコメントを出すかも知れません。


 「生きていると、さまざまなリスクがあり、これらをすべ


て避けることは容易ではありません。ですから、国民の皆様


におかれましては、なるべく生きない様にして下さい」と。


 もうすでに、国民の何割かは、「生きていない」と思いま


すけどね。今。〉




 今回、安倍総理の打ち出した「休校」要請や、厚労省が出

している「なるべく出かけず、できるなら仕事も休ん

で・・・」とかいう公共広告は、まさに上に書いたことです

ね。二十年先ぐらいと書いたのに、三年足らずで現実化して

しまった・・・。ああ、怖い。


 私は「若くて健康な人がバタバタ死んでるわけじゃないん

だから、こんなウイルス感染、放っておけばいい」と思って

る人間なので、安心安全原理主義者に殺されないように外国

へでも逃げたいところだが、各国のコロナウイルス対応を見

ていると、日本と変わらない・・・。どうなってるんだ。


 私は、「安心安全原理主義」は日本で特に強い力を持って

いるのだろうと思っていたけど、もはやそういうことではな

いんだね。どこも一緒なんだ。

 今回のコロナ騒動は、みんながスマホばっかり見ているこ

とと関係ありそうだと思う。

 「スマホのせいでこうなった」というのではなく、みんな

がスマホを見ているようなメンタリティや行動様式と、この

騒動の “根” は一緒なんだろう。どう一緒なのかは、考えて

みてくださいな。


 現代は「生き辛い時代」だと言われる。昔だって生きるの

は大変だったろうけど、その大変さと、今の「生き辛さ」は

たぶん別物だ(昔を体験していないので、確証はない)。


 すべてをコントロールしようとする社会。そこに必要なの

は人間ではなくて、社会を社会の思い通りに動かすためのパ

ーツだ。そんなところに居たのでは、人が生き辛くて当然で

す。でも生き辛さを感じない人間もいる。そういう人間はみ

ごとに社会適応して、パーツに成れている。それを「社会的

成功」という。


 しかし、そんな成功者も、社会にとってはパーツの一つに

過ぎない。社会にとって大事なのは社会だけです。社会の維

持に必要があれば、簡単に見捨てる。今回のように「良しと

いうまでじっとしてろ!」みたいなことになる。人間の都合

は無視です。


 社会が守りたいのは観念としての社会であって、人が暮ら

している実社会ではない。

 「ウイルス」「感染症」という、得体のしれない、“自然”

いうコントロール外のものの侵入は、観念としての社会に

っては我慢ならないので、何を犠牲にしても排除したいの

しょう。わたしたちの「暮らし」なんかどうなってもいい

わけです。




 ということで、皆様におかれましては、「なるべく生きな

いで下さい」。


 さて、どうなるんでしょうねぇ・・・。私の知ったこっち

ゃないけど。



  
 

何も起こっていないんだ。



 今朝、目が覚めて何気なく窓の方を見た。

 ベージュのカーテンを透過して外の光が部屋をほのかに明

るくしている。

 壁、天井、カーテン、何一つ動くものが無い部屋の中で、

そのカーテンのドレープを見ていたら、突然こう思った。

 「何も起こっていない」


 部屋の中で何も起こっていないということではない。この

世界で「何も起こっていない」と思った。


 さあ、この説明は難しい。どう表現していいのやら。



 いままでに何度か《起こった時には終わってる》という言

葉を書いた。その言葉を捉え直すと「何も起こっていない」

と言えそうなので、その線で行こう。


 この世界のすべての出来事は、起こった時には終わってい

る。それは誰でもが納得できる事実です。わたしたちは、出

来事の「余韻」とでも言うべきことに、思考のエネルギーを

与え続けて、出来事に実体感を持たせているのです。が、そ

こには実体は無い。すべての出来事は、その都度「終わり続

けている」。わたしたちが意識した瞬間には、その出来事は

もう終わっている。存在していない。それは、今、この瞬間

には「何も起こっていない」ということなんです。


 今、この瞬間には「何も起こっていない」にもかかわら

ず、わたしたちの記憶の中には膨大な「起こった事」が蓄積

されている。けれど、その「起こった事」は、記憶が無くな

れば無くなってしまう。私に「起こった事」も、忘れてしま

えばもう「起こった事」でさえない。何もなかったことにな

るというより、何もなかったのです。


 わたしたちが思考のエネルギーを注ぎ続けなければ、「起

こった事」さえ消えてしまう。「私の父や母が生きていた」

ということは、私や家族の記憶に有っても、もうその二人は

この世界の何処にも存在していません。私や家族が死ねば、

父と母の存在したという記憶すら、この世界に残りません。

誰一人として記憶していない事は、存在しなかった事です。

「起こらなかった事」です。果たして私の父と母は存在して

いたのでしょうか?


 わたしたちは何を見ているのでしょう?何を聞いているの

でしょう?

 わたしたちは何をしているのでしょう?もとより、わたし

たちは居るのでしょうか?この世界は「在る」のでしょう

か?


 世界は在ります。

 厳然として、世界は在る。

 ただ、その在り方は、アタマが捉えているような在り方で

はない。


 こういうことにしておきましょう。


 《 無限の “在る” が、“今” に満ち満ちているのだ 》と。


 「何も起こっていない」

 ただ、今すべてが在る。



 (途方もないことを書いてしまったけど、私が書いたんじ

ゃない



2020年2月28日金曜日

「美しさ」が問いかけるもの



 我が家のクレマチスの芽が動き始めて、「そういえば、去

年ブログにそういうことを書いたなぁ。あれは、いつだった

っけ?」と思って、その時のブログを見返した。

 日付は三月三日になっている。今年は一週間ほど芽吹きが

早いのだ。


 そのままブログを読み進めると、最後にこんなことを書い

ている。



  〈 春、さまざまな命が、“移ろい” の力によってこの世

界に押し出されて来る・・。“美しさ” という「問い」をた

ずさえて・・・。〉(『春を探す』2019/3/3)


 「へぇ~」などと思う。

 “美しさ” は、「問い」なんだ・・・。


 “美しさ” は、何を問うているんでしょう? かなり「深

い」ことを問いかけているように思います。ほとんど、「命

の根源」とか「生きる意味」ぐらいのレベルのことのように

感じますが、それをこれから探りましょう。(ああ、無謀

だ・・・)


 と、思ったんですが、もうすでに『美しいとは』

(2018/6)という話を以前に書いていた。もう、ネタ切れ

なんだな。でも、まぁそのラインで話しを進めてみよう。


 今朝も、自分が育てている花を見て「きれいだなぁ」と思

っていた。

 いつも、ほんとうに不思議なんです。なぜ、人は花を見て

キレイだと思うのか。

 花は、植物の生殖器官です。その色や形状は、ほとんどの

場合昆虫を引き寄せる為に適応・進化して今に至っている。

そこに人間の影響は無いはずです。なのに、なぜ人間が花を

「きれいだ」と思うのか?


 花は、昆虫を引き寄せて受粉し、実を付けます。その実が

人間の食糧になることも多いので、人間が植物の実を見て

「キレイだ」というような肯定感や期待を持つのなら自然だ

と思うけれど、なぜ具体的な価値を持たない花を見て、「美

しい」といった肯定感を持つのか? それは単なる文化的な

影響の産物なのか?

 けれど、それが文化的な産物になるためには、最初の一人

が「きれいだ」という思いを抱く必要がある。結局、なぜ

「きれいだ」と思ったのかという話に戻ってしまう。

 そもそも「きれいだ」という感情はいったい何か?


『美しいとは』という回で書いたのは、「美しさ」とは “言

葉には出来ない世界の肯定感” みたいなことだったんですが

(もっとメンドクサイ言い回しでしたが)、なぜそれが「問

い」なのか?


 世界が、存在が、美しさを見せて語りかけているのでしょ

うね、「これを見ろ。いったい何の不服がある?」と。


 わたしたちは、エゴのフィルターを通して世界を見るの

で、普段は思考(言葉)によって加工された世界を見てい

る。けれど、その思考を突き抜けるようにしてわたしたちの

意識に飛び込んでくるものがある。それが「美しさ」の正体

だろうと思う。

 「美しさ」はわたしたちの “加工された価値観” を破壊す

る。


 ここで言う「加工」とは、アタマのつじつま合わせという

ような意味合いですが、「美しさ」は、そのつじつま合わせ

とは違う次元でわたしたちの意識に届く。霧の中でも声が聞

こえるように。

 それは、感性のバイブレーションとでも言うべきもので、

考を透過して人の意識に届き、命の本質的な部分を揺さぶ

ので、アタマはそれを恐れる。放っておけば「つじつま合

せ」が崩壊してしまうので。


 「美しさ」は語りかける。「これを見ろ。いったい何の不

服がある?」。

 その問いは、常に「足りない」と言い続けるエゴにとって

恐怖であり、嫌悪の対象でもある。なので、エゴは「美し

さ」をダイレクトに受け止めないようにフィルターをかけて

いる。(『感動から逃げるな』2017/11参照)

 エゴも必死ですが、「美しさ」がそのフィルターを突破し

た時、人は世界の本質を一瞥する。そして人は変容する。そ

して、本当のしあわせを感じる。


 「美しさ」は美しい。