2020年3月11日水曜日
どんな風が吹いているのだろう。
今日は3月11日。あれからもう九年が経ったんだ。
何か書こうとしたけれど、どうにも考えがまとまらない。
私は、震災以前も震災後も東北には行ったことが無い。震
災後、あの被災地に一度立ってみなければと思いながら、そ
の縁がなく、今まで来ている。
被災地の多くは今も更地が広がっているようだけど、あそ
こに立った時、自分が何を感じ、何を思うかは八割がた想像
がついている。まず感じるのは風だろうと思う。少し不躾
で、思いやりを欠く風が吹いているだろうと思う。
そう思うのは、阪神大震災での自分の経験による。
震災後、自分が元住んでいた町を訪れた時に感じたのは、
「風の吹き方が違う」ということだった。以前とは違う方向
から、違う巻き方で、なじみのない風が吹いていたのだ。そ
して、そのちがう風に感じる違和感に、心がざらつく・・。
「人間の身体って、こんなことまで感じながら生きている
んだ・・・」と、当時驚いたものだった。
建物が壊れ、新たな建物が立ち、風の流れが変わるのだ
が、どうもそれだけではない。その土地の自然の在り様や、
人の営みの大きな変化は、そこに吹く風の「肌触り」という
ようなものを変質させるように思う。
九年が経ったけれど、被災地の多くの場所では、まだ心を
少しざわつかせるような風が吹いているんだろうと思う。
今年も、もうすぐ春の暖かな風が吹くだろうが、その暖か
さの中にも、どうしても無視できないわずかな「無情」がひ
そんでいるような気がする。
春、あの土地に立つ人が、心から風を暖かく感じられる
時、本当の再生が始まるのだろう。そんな気がしている。
2020年3月10日火曜日
死にたくないにも程がある コロナ ⑫
いきなり無礼な質問です。あなたは、自分が死ぬとき、ど
のような死に方だったら納得できますか?
「“死に方” もなにも、死にたくない」
そういう方はこの先を読んではいけません。こんなブログ
を見るのはすぐに止めて、履歴も消去しましょう。でも、本
当はそういう人にこそ、この先を読ませたいのですがね。
コロナウイルス騒動での、世界のニュースを見ていると
「いったい人類はどうしちゃったんだ?」と思う。死にたく
ないにも程がある。
この地球上では毎日々々人が死んでいる。一年で約6000
万人が死んでいる。一日平均164000人が死ぬ。
日本では一年で約130万人。一日平均3500人が死ぬ。そ
のことをいったいどれだけの人が認識しているのか?
日本でコロナウイルスでの最初の死者が出たのは、2月14
日。それから二十六日が経ち、現在の死者数は14人。その
二十六日の間に、この国では約91000人が死んだはずだ
(その中に、先の14人も含まれている)。
コロナの感染拡大がもっと酷くて、二十六日間に100倍の
死者が出ていたとしても、1400人。91000分の1400とい
うことになる。その数字でも、まだ余裕を感じるのだが、実
際は91000分の14。何が緊急事態なんだ?
日本人は、自分の暮らしている国で、毎日人が死んでいる
ことを知らないのだろうか?
その死者の大半が病気で死ぬことを知らないのだろうか?
人が死ぬことは日常の一部だということを知らないのだろ
うか?
誰も自分の死に方を選べないということを知らないのだろ
うか?(*)
「人はみんな死ぬ」ということを知らないのだろうか?
「死にたくなくてもみんな死ぬ」ということを知らないの
だろうか?
ニュースを見てると、日本人に限ったことではなく、世界
中の人間が、「死」が必然で、日常の一部であることを無視
している。異常だ。死にたくないにも程がある。
最近の私は、ほとんどムカついている。理由は二つある。
一つは、今回の騒動のあらゆる面がずさんだということ。
事態を読み解く為の様々な可能性の多くが見過ごされ、非常
に幼稚なストーリーをベースに物事が進んでいる。
もう一つが、世界規模に拡大しようとしている「異常な不
安感」。
この二つが、相互に作用し合いながら、狂気が増殖してい
る・・・。もはや「気持ち悪い」を通り越して、私はムカつ
いている。人類は、これほどまでにバカなのか?
「アタマが悪い」と言い続けて来たが、ここまで悪いと
は・・・。
いいかげんにしろよと思う。
死にたくないにも程がある・・・。
(*)「自殺」は自分で選んだ死だと思われるでしょう
が、あれは “心理的な事故” です
2020年3月8日日曜日
責任者の「無責任」 コロナ ⑪
今、世界を席巻している “新型コロナウイルス” の騒動
は、私がいままでの人生の中で見て来たことの中で、一番
「気持ち悪い」ことだと感じている。
各国の対応は、私の見方からすれば合理性を欠いているの
だが、どの国も「新型コロナウイルス」という “新しいキャ
ラクター” と、そのストーリーを受け入れて、視野狭窄を起
こしているようだ。
今や、私の関心は「なぜ、世界はこのようなストーリーを
受け入れるのだろうか?」ということに移っている。
ウイルスは目に見えない。電子顕微鏡を使えば、一応「見
える」。
ウイルスの振る舞いもよく分からない。人体実験は出来な
いので(していないはずです。人道的に・・)、実験設備の
中で知りえたウイルスの性質と、感染した人の状態から類推
して「ウイルスが引き起こすこと」を推察しているというの
が実際のはずです。だって、『ミクロの決死圏』という映画
のように、人の体内で直接何が起きているかを観察すること
はできないからね。
現代に生きているわたしたちは、ウイルスという目に見え
ないものを「可視化した」つもりになって、その性質を「分
かった」つもりになっているけれども、結局は妄想を現実視
しているだけなのではないのだろうか?
同じような症状を見せて人が続けて亡くなったりする。そ
の様子に「伝染病」というストーリーを見いだして、「次は
自分かもしれない・・・」と恐れる。
その “「伝染病」というストーリー” が、昔は「疫神」や
「妖怪」や「死神」のしわざだったのが、現代では「ウイル
ス」や「細菌」といった「病原体」という言葉に置き換わっ
て、「感染症」になっただけなのではないのか?
「天然痘」が撲滅されたことを考えれば、「ウイルス」や
「細菌」というものが、「“感染症” を引き起こすこともあ
る」という考えは間違ってはいないだろう。けれど、「感染
症」というストーリーの中には、まだまだ広大な闇が残され
ているのは疑いようが無い。ところが、その「疑い」を無視
して、世界中が不完全なストーリーを受け入れて、硬直化し
た振る舞いを見せている。
「物語(ストーリー)の枠組みが変わっただけで、人は相
変わらず同じことを繰り返すのだな・・・」と、私は思う。
わたしたちは、電磁波だとか、放射能だとか、紫外線だと
か、低周波だとか、温暖化だとか、自分自身の感覚ではハッ
キリとはつかめない「見えないもの」を、「見て」、その存
在を恐れるけれど、それは、思考では自分の生きている世界
を認識しきれない為に、その「認識しきれない」部分に物語
を持ち込まざるを得ないという、悪業ではないのか?
《莫妄想》
「妄想するな」という教えは仏教のものだけれど、それ
は、「勝手なストーリーを組み立てれば苦しむことになる」
ということだ。
実際に起きる出来事を「そのまま」に見れば、それは現実
だが、「そのまま」に見ることが出来なければそれは「妄
想」だ。
世界中の責任のある立場の人間たちが、「妄想」の中でも
のごとを決めて行く・・・。
それは最早、「正しい」か「正しくない」かという問題で
はなく、「当たり」か「外れ」か、という話でしかない。な
のに、その判断で、実際の世の中が動いて行く・・・。これ
が気持ち悪くないほうが不思議だ・・・。
少なくとも、「自分の判断には、確固とした根拠はない」
という認識だけは持たなければならないだろうが、そんなも
の、どこにも無いようだ・・・。
ここまで書いたことに「確固とした根拠」など有りはしな
いが、少なくとも私はそのことを踏まえた上で言っている。
何の責任も無い立場だけれどね。
2020年3月7日土曜日
死にたくないのは当たり前だが・・・ コロナ ⑩
さっきニュースを見ていたら、「コロナウイルスの感染拡
大防止の為に、東京の “こども食堂” の七割が活動を自粛し
ている」とあった。それを見て、ムカムカと腹が立ってき
た。
こんな騒動のせいで、貧困家庭の子供がまともな食事を食
べられない。政府は貧困家庭の子供がちゃんと食事をとれる
ような施策も行っていない。事あるごとに「少子高齢化が問
題だ」と言い、何か事件でもあると「子供を守る!」と政治
家が言う。ホントに「子供が大事」なのか? いったい何な
んだ! 何がしたいんだ!
日本に限らず、世界のコロナウイルスに対するこの狂騒は
いったい何なのだろう?
誰だって死にたくはないが、私の目から見ると、この騒ぎ
は常軌を逸している。
誰だって死にたくはないが、人は皆死なねばならない。そ
して、人が死ぬ理由の8~9割は病気だろう。
日本は世界有数の長生きの国だが、その平均余命は約84
歳。「老衰死」するのは100歳前後だろうから、平均余命
84歳というのは、大多数の人が病気で死ぬということを物
語ってもいる。
「老衰死」のことを「自然死」と表現したりもするが、人
が病気になるのは多くの場合「自然」なことだから、病気に
なって人が死ぬのも「自然死」だと私は考える。その自然の
成り行きをある程度まで受け入れるのが、大人のたしなみで
はないだろうか。
昭和の中頃までは「人生五十年」だった。今は「人生100
年」などと言う。
「人生100年」になって、日本人は昔よりしあわせになっ
たのか?
私は、何かをはき違えていると思う。
昭和の中頃、禅僧の沢木興道老師はこんな言葉を残してい
る。(やたらと「長生き、長生き」などと言う人に対して)
「まるで、“長生きしたい病” じゃな」。
今回の騒動がさらにきつくなれば、仕事を失う人が沢山出
るだろう。そのために自殺する人が多く出て、その数はすぐ
に “新型コロナウイルス肺炎” の死者を上回るだろう(統計
には出ないだろうが)。子供の貧困も増加するだろう。医療
崩壊でも起きれば、コロナ以外の病気やケガで医療を受けな
ければならない人がそれを受けられずに死んだりもするだろ
う。
ウイルスによる肺炎は自然の範疇だが、その狂騒から派生
する不幸は、人為によるものだ。
人は、自然がもたらす不幸は辛くても受け入れざるを得な
いだろうが、人為がもたらす不幸はどうしても受け入れがた
いものではないだろうか?
今回世界中で行われていることは、人間の尊厳を守る行為
ではないだろう。表面上は「人の命と健康を守る」と言いな
がら、その実、守りたいのは「エゴ」だ。
わたしたちは自然の一部であり、わたしたちは「死」から
生まれてきた。それを無視すると、人の困難は増すばかりだ
ろう。アタマが悪いよ・・・。
2020年3月6日金曜日
そうか、『バイオハザード』か・・。 コロナ ⑨
今朝ふと思ったことについて書こうと思うけど、その取っ
掛かりとして、まず『バイオハザード』のことから始めなけ
ればならない。
私は、映画の『バイオハザード』が大好きである。理由は
簡単で、「主演のミラ・ジョヴォヴィッチがカッコイイ!」
という一点だけである。ストーリーは一応退屈せずに観られ
る程度にできていればそれでいい。ミラ・ジョヴォヴィッチ
がカッコよければそれでいいのだ。
全作観て、 DVD は全部持ってる。暇が出来たら、一日で
全作通して観てみたいと思う・・・、けれど、今日の話はミ
ラ・ジョヴォヴィッチのことではなくて、ゾンビの方だ。
ゾンビというのは、ご存じの通り “死んでも動き続けてい
る存在” のことで、死人でもなく生きた人間でもない。
『バイオハザード』の中では、「T-ウイルス」に感染した
人間(犬やカラスなんかも感染する)がゾンビになってしま
い、感染してない「生きている人間」に襲いかかって、喰っ
てしまうのだが、その光景とよく似た光景を少し前に見た。
三週間ほど前のニュース番組だったろうか。中国の武漢市
から他の町へ避難した男性が外出したところ、近所の住民に
取り囲まれ、小突き回されていたのだが、その様子はゾンビ
に取り囲まれて喰われようとしている映画のシーンそのまま
だった。(「お前はウイルスを広げる気か!」などと言いな
がら、自分から近付いて行く姿はバカ丸出しだったが)
コロナウイルスの広がりが「バイオハザード」(「生物学
的危害」あるいは「生物災害」)といった認識で捉えられて
いるようだけど、先述の「男性を小突き回していた住民た
ち」は “コロナウイルスの恐怖” に感染し、すでにゾンビと
なっていたのだ。だから行動が「ゾンビ化」していたので
す。恐怖は、人をゾンビ化する。
そんなことを今朝考えて、ふと気付いたのがこのブログの
サブタイトル。「~生きられてる?~」と書いてあります。
このブログを目にする人は、当然「生きている」のです
が、その人に対してこのブログの書き手は「生きられて
る?」と尋ねている。言葉を変えれば「生きながら死んでな
い?」ということです。言ってしまえば「あなた、ゾンビに
なってない?」ということですね。
社会というものの中でうっかり暮らしていると、わたした
ちはゾンビになってしまうのです。そして、生きている人を
見つけると襲いかかるようになる・・・。
世界には、わたしたちに恐怖を抱かせるような事が限りな
くある。限りなくあるので、そのいちいちにいちいち恐怖を
感じていたのでは、とてもじゃないが生きていられない。と
いうわけで、わたしたちは恐怖を抱かせるものを「見ないよ
うに」する。しかし、「見ないように」しただけでは、それ
はなくならない。何かのきっかけで目に触れることがある。
「見ないようにしていたもの」、言葉を変えれば「無いこ
とにしていたもの」が現れたらどうするか?当然、それを消
そうとします。ゴキブリを叩き潰す、あの心理です。
“文化的な人” がよく使うフレーズがあります。
「あってはならない」
一番「あってはならない」のが、「死」です。
「死」は「あってはならない」。
だから、「死」は無くす(!)。
「死」は、消す。
現代の日本では、「死」は無いことになっているようで
す。だから、コロナウイルスのような “ウイルス界の雑魚”
(コロナウイルスには失礼だけど)にさえ、今回のような反
応をする。
「死」を意識させるものも「あってはならない」。
「あってはならない」のですから、消そうとします。が、
消せるでしょうか?
消せるわけがないはずですが、意識の上からは消せてい
るようですね。少なくとも「自分のことではない」という意
識で、他人の「死」を見ている。けれど、問題を隠蔽すれ
ば、後でさらに大きな問題になって立ち現れてくるのが、必
然です。時として、それを「自分のこと」として意識せざる
を得ないことが起こる。
「死」を自分の意識から消して来た人間には、免疫が無
い。なので、「死」のイメージが意識に侵入して来た時には
簡単に感染してしまう。
そして、感染した「死」のイメージは、その人の意識の中
で、その人の思考を利用して「恐怖」を作り出し続ける。や
がて、「恐怖」に思考を覆いつくされた人は理性を失い、衝
動のままに動く “人ではない何か” になる。つまり、「ゾン
ビ化」するのです。
このブログのサブタイトルに「~生きられてる?~」とあ
るのは、わたしたちの多くがほぼ「ゾンビ化」していると、
私が感じているからでしょう。
多くの人が、その心の内に「恐怖」を隠したまま生きてい
る。半分死んでいる。だから、ほんの些細な事でも、自身の
「恐怖」を喚起させるような事に出会うと、すぐに攻撃に出
る。すぐに「ゾンビ化」する。
今回、書きながら思い出したけど、去年『夏休みが終わ
る・・・。死んでも死ねないよ』(2019/8)という回で、
比喩として「ゾンビ」の話をしている。
ゾンビにならないために、ゾンビに殺されないために、人
として生きるために、人としてしあわせであるために、わた
したちはどうすればいいか?
ミラ・ジョヴォヴィッチが演じる “アリス” は、「T-ウイ
ルス」を取り込んで超人となった。
わたしたちは、「死」を意識に取り込んで、それが生み出
す「恐怖」を制御することで、社会的な存在としての “人”
を超える。生命としての “人” となる。
どうやったら「死」の生み出す「恐怖」を制御できるか?
「死」が「恐怖」を生み出すのは、アタマの中の “クズ”
プログラムのせいだと気付くこと。その「恐怖」という奴は
イリュージョンなんだとね。
2020年3月4日水曜日
「新型コロナウイルス肺炎」という “お話し” コロナ ⑧
今回、「新型コロナウイルス肺炎」(そう呼ぶことにす
る)のせいで、感染症についていろいろ考えたおかげで、こ
ういう仮説にたどり着いた。今からその「こういう」を説明
したいと思う。
中国の武漢市で複数の肺炎患者が出て、その患者を調べた
ところ、いままでとは違う型のコロナウイルスが見つかり、
「このウイルスが肺炎を起こしている」とされ、“新型コロ
ナウイルス” が引き起こす「新型肺炎」とされた。け
ど・・・、ホントに “新型コロナウイルス” が肺炎を起こし
ているのか?ちゃんと調べたのか?
ちゃんと調べてるわけがない。あの短期間でそのような調
査研究ができるわけがない。(もしかしたら、“専門家” は
「出来る」と言うのかもしれないが)
わたしたちの身体には、皮膚にも口の中にもおなかの中に
も、何種類もの常在菌や常在ウイルスが生息している。ま
た、わたしたちは日々何種類もの細菌やウイルスに感染して
いる。
仮に、今回見つかった “コロナウイルス” が、近年変異し
て、人の常在ウイルスとして世界中の多くの人に住み着いて
いるとか、環境中に広く分布して常に多くの人に感染してい
るものだと考えてみる。もしそうなら、世界中どこで調べて
も、結構な数の人が感染しているのが確認されることにな
る。ほとんどの人がブドウ球菌を持っているように。
それと同時に考えたいのが、「肺炎」という病気が、ごく
ありふれた「病気」だということだ。
もしかすると、「すでに多くの人が感染している “新型コ
ロナウイルス” 」が、他の理由で「肺炎」や「風邪のような
症状」(ようするに風邪だけど)を起こしている人から見つ
かるだけなのかもしれないではないか。
人が「肺炎」を起こす(普通「肺炎に罹る」とは言わない
ことに注意して欲しい)理由にはいろいろあるが、代表的な
ものとして、「細菌」や「ウイルス」の感染が上げられる。
要するに「病原体」に感染することで「肺炎を起こす」とさ
れるのだが、実際に「肺炎」を起こすのは「病原体」ではな
い。「肺炎」を起こすのはわたしたち自身の免疫機構だ。
免疫細胞は、侵入してきた異物に対抗するために、自分た
ちの活性を高めようと「サイトカイン」という物質などを放
出する。その「サイトカイン」が過剰になると、炎症が起き
る(「炎症」と認識できるレベルの「対サイトカイン反応」
が起きる)ことになる。
免疫細胞が「活性を高めよう」とする契機となるのが、
「細菌」や「ウイルス」などの異物の侵入だというのは間違
いではないのだろうが、もともと「免疫活性」が高い状態で
あれば、免疫細胞は「サイトカイン」をむやみにださなくて
も、異物に対応できるのではないか?「肺炎」などの “炎
症” を引き起こす根本の原因は、「細菌」や「ウイルス」な
どの異物の侵入ではなくて、そもそもその人の免疫活性が低
いことだと考える方が妥当ではないか?
「病原体」に感染しても、発症しなかったり、発症しても
軽かったり、重篤になったりするという違いは、「個人の免
疫力の違い」だと “専門家” も言う。ならば、「病原体」が
強いとか弱いとかではなく、「なぜ免疫力(免疫活性)に差
が出るか?」ということの方に目を向ける方が合理的だろ
う。
今回おきている「肺炎」のような “現象” は、「感染症」
というより、『免疫不良症候群』とでも呼ぶ方がいいのでは
ないかと思う。原因は「ウイルス」ではなく、「免疫活性の
低下」だと。
例に挙げれば、エイズの代表的な死亡原因の「カリニ肺
炎」。(現在では「ニューモシスチス肺炎」というのだそう
だ)
免疫不全を起こしているために、ごくありふれた「細菌」
などで肺炎を起こし、重症化して亡くなってしまうが、その
原因は「細菌」ではなく、免疫不全だと誰もが考える。
それならば、一般的な「感染症」も、エイズのような「免
疫不全」ではないにしろ、なんらかの理由で「免疫不良」を
起こしていることが発症の理由だと考えても、なにもおかし
くはない。警戒すべきは、「細菌」でも「ウイルス」でもな
く、「免疫活性の低下」だろう。
「感染症の “専門家” 」と呼ばれる人間が、メディアに登
場したり、政府に求められて意見を述べたりしているようだ
が、私はあの人たちの持つ「知見」や「常識」に懐疑的
だ だから “専門家” と “ ” で括っている。
人類は、「感染症」や「ウイルス」というものをまだまだ
よく知っていない。かなり昔に考えられた「ウイルスと感染
症のストーリー」を拠り所にして、他の見方・可能性を排除
して今日まで来てしまっているのだ。これまで拠り所にして
きた「ストーリー」が根本から覆される可能性だって十分に
あると思うよ。今回の “専門家” たちの発言を聴いていると
余計にそう思うね。
どの業界でも 、“専門家” がただの「専門バカ」だという
ことは珍しいことではない。何かの「専門」になると、視野
狭窄を起こしやすいからね。
「政府の対応が後手」だとか言う人間が大勢いるようだけ
ど、私の目からは「誤手」にしか見えない。批判を受けたく
ないだけの政治家と、自分の考えを持たない(持ってはいけ
ない)官僚と、視野狭窄の「専門バカ」が、日本のみなら
ず、世界を引っ掻き回しているんだ。それと、忘れてはいけ
ないのが、この三者にエネルギーを供給している存在。“正
しい人” である「安心安全原理主義者」たち・・・。
ここに書いたことが正しいかどうかは知らない。「そうい
う見方もある」ということです。
《 「正しい」とは、
そういうことにしておけば気が済むということである 》
そんなことを言っている人間のブログですからね。これ
は。
免疫不全を起こしているために、ごくありふれた「細菌」
などで肺炎を起こし、重症化して亡くなってしまうが、その
原因は「細菌」ではなく、免疫不全だと誰もが考える。
それならば、一般的な「感染症」も、エイズのような「免
疫不全」ではないにしろ、なんらかの理由で「免疫不良」を
起こしていることが発症の理由だと考えても、なにもおかし
くはない。警戒すべきは、「細菌」でも「ウイルス」でもな
く、「免疫活性の低下」だろう。
「感染症の “専門家” 」と呼ばれる人間が、メディアに登
場したり、政府に求められて意見を述べたりしているようだ
が、私はあの人たちの持つ「知見」や「常識」に懐疑的
だ
人類は、「感染症」や「ウイルス」というものをまだまだ
よく知っていない。かなり昔に考えられた「ウイルスと感染
症のストーリー」を拠り所にして、他の見方・可能性を排除
して今日まで来てしまっているのだ。これまで拠り所にして
きた「ストーリー」が根本から覆される可能性だって十分に
あると思うよ。今回の “専門家” たちの発言を聴いていると
余計にそう思うね。
どの業界でも 、“専門家” がただの「専門バカ」だという
ことは珍しいことではない。何かの「専門」になると、視野
狭窄を起こしやすいからね。
「政府の対応が後手」だとか言う人間が大勢いるようだけ
ど、私の目からは「誤手」にしか見えない。批判を受けたく
ないだけの政治家と、自分の考えを持たない(持ってはいけ
ない)官僚と、視野狭窄の「専門バカ」が、日本のみなら
ず、世界を引っ掻き回しているんだ。それと、忘れてはいけ
ないのが、この三者にエネルギーを供給している存在。“正
しい人” である「安心安全原理主義者」たち・・・。
ここに書いたことが正しいかどうかは知らない。「そうい
う見方もある」ということです。
《 「正しい」とは、
そういうことにしておけば気が済むということである 》
そんなことを言っている人間のブログですからね。これ
は。
2020年3月1日日曜日
「何ごとも無きぞ」
今回のタイトルの「何ごとも無きぞ」というのは、昔のお
坊さんの残した言葉です(誰だったか憶えていない。確かめ
るのも面倒過ぎて・・・)。
前々回、『何も起こっていないんだ』という話を書いてか
ら、この言葉を思い出して考えてる。
「何ごとも無きぞ」
この言葉は、「この世で起こっていることは、別に “何で
もない”」と受け止めるのが普通でしょうね。もう一つの受
け止め方が、「何も起こっていないぞ」ということでしょ
う。
私はこれまで、この言葉を「この世で起こっていること
は、別に “何でもない”」というように捉えていましたが、
今回のことで変わりました。「何も起こっていない」とね。
(「別に “何でもない”」というのも、それはそれでいい)
前にも書いたことがありますが、私の考えることにオリジ
ナリティなんかない。
私の考えつく程度のことは、昔の人がとうに考えてる。私
は、それをどこかで聞きかじったか、昔の人の影響でそう考
える方へ動かされて行っただけのことです。
ならば、昔の人がそんなに偉いのかと言えば、それもまた
違う。昔の人(最初に考えた人)は “世界” によってそこへ
導かれて行った。その結果として、その言葉を残したので
す。“世界” によって考えさせられた。さらに言えば、“世
界” が考えたのです。そしてその考えの一端が、今、私から
析出している。(かなり図に乗ったことを言っていますが、
それが「価値あること」だという保証は無いし、つまるとこ
ろ「何ごとも無い」のです)
”世界” は「何」を考えているのでしょう?
今朝、玄関を出ると、春の匂いがした。
ほのかに甘い香りもする。たぶん我が家のビオラとスイー
トアリッサムの香りだろう。日差しはまぎれもなく春の日差
しで、「ああ、春が来たんだ」と思う。そこかしこで木の芽
や草の芽、花のつぼみが膨らみだしていて、心が湧きたつよ
うな感じになる。「自分は本当に花が、植物が好きなんだな
ぁ」と改めて感じる。私は植物なんだろう。
と、そんなことを考えていたけれど、私をそう考えさせた
のは、“春の匂い” と “春の日差し” だ。
それは「私を使って “世界” が考え、自らの “春” を楽し
もうとしている」のかもしれない、などと思う。
木々の若葉がどんどんと開き、次々にさまざまな花が咲き
だすこれからの季節を思うと、「何ごとも無きぞ」なんて気
にはならないね。「何ごとも在り過ぎ」ぐらいの気分だ。
まったくもって矛盾した話だけれど、この世界では「何も
起こっていない」、と同時に「出来事が無限に起こり続けて
いる」んですね。言葉の上では破綻しているけれど、私の感
覚としてはそれで納得できるのです。
そうそう、前にも書いた『バジル氏の優雅な生活』(坂田
靖子)の「スキャンダル・クラブ」というエピソードのラス
トシーンで、明るい日差しを仰ぎながらバジルがこう言う。
「
いよ」
『バジル氏~』の中でも好きなシーンの一つですが、わた
したちが考えなければ、「嫌な事」など世界に存在しないん
ですよ。そうは思えないのが普通ですがね。
「何ごとも無きぞ」
ノースポールとカレンデュラ(キンセンカ)
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