2020年4月4日土曜日
願わくは花の下にて・・・
今日は近所の公園へ桜を見に行った。五~八分咲きという
ところだったが、コロナの件があって、さすがにシートを広
げて宴会などということは誰もしていない。でも、そこそこ
人が来ていた。
ソメイヨシノは、江戸時代に江戸の染井村の植木屋で、エ
ドヒガンとオオシマザクラの雑種として偶然生まれたとされ
ている。一代雑種なので種からは育たず、挿し木、取り木な
どの方法で増やされ、現在まで受け継がれているものだ。な
ので、江戸時代の日本では、今のように全国中どこでも春に
はサクラが咲き乱れるということではなかった。日本がここ
までサクラだらけになったのは、昭和以降のことで、それも
年ごとに加速して行き、いまは日本の歴史上、最もサクラが
多い時代となっている。
至るところでソメイヨシノが咲いているのを見ると、「こ
の時代に日本に生まれて生きていることはラッキーだなぁ」
と思う。サクラの下に座って人と話したり、サクラの下を散
策するあのなんとも平和で穏やかな気分というものは、他で
は味わえないものだ、それを、現代のわたしたちはごく身近
に味わうことができる。
自粛なんてせずに、サクラぐらい見に行ってもよかろう。
その方が人の健康に資すると思うけどね。穏やかでいい気分
の時間を過ごすことは、身体も穏やかでいい状態にするので
はなかろうか。
〈 願わくは 花の下にて 春死なん
その如月の望月のころ 〉 西行
西行の生きた時代にソメイヨシノは無かったので、この
「花」はヤマザクラだろうか。
私も、願わくは花の下で春に死にたいところだけど、ま
ぁ、贅沢は言えない。でも、病院でチューブだらけにされて
死ぬのはヤだなぁ。
『同期の桜』という歌のせいもあってか、サクラには「は
かない」とか「散りゆく命」といったイメージがいまだに少
し付きまとう。
西行の時代は、はるかはるか昔だが、その西行が「願わく
は花の下にて春死なん」と詠んでいるその意味合いは『同期
の桜』とはかなり違うだろう。
西行の「桜」は “自分と同じ自然の一部” であるのに対し
て、『同期の桜』の「桜」は “社会の一部” と言っていいだ
ろう。
西行がわざわざ「願わくは花の下にて春死なん」と詠んだ
のは、その頃すでに、社会との関わりに嫌気がさしていたと
いうことだろうけど、西行の頃から時代が進むにつれて、人
間の中で社会の占める割合は増え続け、『同期の桜』が作ら
れた頃には、人の存在は、 “自然” よりも、はるかに “社
会” に依存したものになっていたのだね。
そして、それからさらに80年程が経ったけれど、人の存
在は、より “社会” に依存したものになっているようだ。
『同期の桜』では、「見事散りましょ、国のため」と歌わ
れていたけれど、今では「個人の為には国が散ってもいい」
という感じだね。だから社会が大混乱しても個人を守る。
そのようなことを考えれば、今は、社会が個人をとても尊
重しているようにも思えるが、そうではない。「この社会
は、個人を守ろうとして守れないような管理能力の低いもの
ではない」と、社会自身が己(社会)の “全能性” を守り、
アピールしたいのだろうな。
西行の頃も、今も、社会の妄想に関わっていると「死にた
く」なる(実際に死んでしまったりする)。
社会の言い分に対しては、「そういう見方もあるね」とい
った感じで受け取っておいて、桜を楽しむぐらいはしていい
だろう。
当然ながら、社会の誕生は人類の誕生より後だからね。
〈 願わくは 花の下にて いま生きん
この春風の やさしさの中 〉 yamasho
2020年4月2日木曜日
新鮮に老いる
突然、「老い」について考えた。
三十後半にもなれば、誰もがシミやシワや肌のハリやらを
気にしだし、白髪や薄毛を意識しだす。中年になると体力の
衰えを感じ始め、大抵の人間がそれを押し留めようとするの
で、「アンチエイジング」はさまざまなジャンルの一大産業
になっている。
「アンチエイジング」というのは、「中古品のオンボロに
なりたくない」ということだろうが、「老いること」は「古
くなること」だろうか?
生まれてから二十歳ぐらいまでは、自分の変化を「成長」
と捉える。何かがプラスされてゆく過程だと。しかし、それ
以降は何かが失われてゆくのだと。
確かに、若い時を基準にして、その状態を「価値あるも
の」と考えれば、さまざまなものを失ってゆくと言えるが、
実際に起きているのは、単に変化しているということだけ
だ。年を取るにつれて、今までとは違う新しい状態に変わっ
ているだけなので、「古く」なっているわけではない。「古
い」のは身体ではなく、若い時の状態にこだわり続ける意識
の方だ。昔の自分という「古い」時代のことにこだわり続
け、引きずっているということは、アタマの中が「古い」の
だ。
「アンチエイジング」にいそしむ人は、「古い人」なの
だ。
年齢による自分の変化を、「今までに経験のない新しい体
験」だと受け止める人は、年を取ることを新鮮な事と感じら
れるだろう。その心は「若い」。そして、新鮮で「新しい」
と言える。そこには老いたからこその魅力があるのではない
か。
若い時の状態にこそ価値が有るとして、それを基準に評価
しなければならなという法律は無い。昔、赤瀬川原平さんが
『老人力』という言葉を作ったが、その真意は「比較に頼ら
ないものの見方」を提示することだったのではなかろうか?
社会の中で支配的な「ある基準」に引きずられ、それから
外れる “もの” “こと” の「絶対性」を貶めるのが、わたした
ちのアタマの癖だと言える。
「老い」は〈四苦〉のひとつであり、〈苦〉の代表的なも
のだが、「若さ」との比較が無ければ〈苦〉にならない。
一歳だろうと十七歳だろうと八十歳だろうと、年を取るこ
とは新鮮なことのはずだ、だって、それまで経験したことが
ないんだもの。
「新鮮に老いる」ことができるのなら、そこには「威厳」
といったものが立ち現れてくるような気がする。
人は死ぬまで、新しい自分になり続ける。
2020年3月31日火曜日
闘いたがる人たち コロナ ⑲
「あたまが悪さをすることを、“アタマが悪い” という」
このブログの初回にその説明をして、その中にこんなこと
を書いた。
〈わたしたちのアタマは、四六時中悪さをしているといっ
ていいでしょう。そして、わたしたち自身を苦しめていま
す。それは時に想像を絶する恐怖として、時には巨大な怪物
となって、わたしたちを押し潰しさえします。〉
その意味合い通りのことが、いま世界規模で起きている。
「新型コロナウイルスが人を死に至らしめる」というスト
ーリーが、“巨大な怪物” となって人々を恐怖に陥れ、わた
したちの暮らし・人生を押しつぶそうとしている・・・。
その “怪物” は、いま書いたように、「新型コロナウイル
ス」そのものではなく、それが「人を死に至らしめる」とい
う “ストーリー” の方で、それはわたしたちのアタマが自ら
作り出したものです。いま、わたしたちの多くが「自家中
毒」を起こしている。
こういうことを言うと、「現実に人が死んでるじゃない
か!」「人が肺炎になって苦しんでるじゃないか!」と詰め
寄られたりもするわけですが、「新型コロナウイル」が存在
しなくても、これまでも同じように人は肺炎になり、これま
でも同じように人は死んで来た。それなのに今回は、その
「これまでと同じような」事に、なぜか「異常事態」とか
「人類の緊急事態」といったストーリーが与えられ、人々が
恐怖している。
この “恐怖を増大させようとするストーリー” を、なぜ世
界中の人が共有してしまうのだろうか? 私はずっと、それ
が不可解でしょうがないのだが、人というものは、ずっと昔
からそういうものなんだろうなとは思う。
情報がリアルタイムで世界に広がる時代になって、昔から
起こってきたことの規模が世界レベルになっただけなんだろ
うな。テクノロジーは発達したけど、わたしたちのアタマは
相変わらずで、その「悪さ」も世界規模になったということ
なんだろう。
それにしても、なぜこうも「恐怖」が好きなんだろう?
私自身も「終末論」みたいな話があると、すぐに聞き耳を
立ててしまう。
「スーパーボルケーノ」だとか「太陽のスーパーフレア」
だとか、「氷河期の到来」だとかいう話には引き込まれてし
まう。どうも、人間は「恐怖」に惹かれるようだ。
「怖いもの見たさ」という慣用句があるね。なぜわざわざ
「怖いもの」を見たいのかというのは、たぶんもう心理学や
脳科学的な考察が有るだろう。それがどんなことか、的を得
ているかどうか知らない。人間の生存欲求や脳の報酬系の働
きが関係していそうだが、それがどういうことかはここでは
探らない。ここではもう少しいかがわしい所に答えを探って
みたいので。
基本的に、マゾなんだろうなと思うね。人が。わたしたち
のアタマが。
こういう自虐的な思考が好きなんだろう、アタマは。
自虐的といっても、今回の騒動は、もちろん個人レベルの
ことではない。社会を一個の人格と捉えての話。
自分たちが酷い目に遭い、それを耐え抜くことで達成感や
自己肯定感を得たいのではないだろうか。その為に、“事”
を実際以上に重大だと演出したがるのでは?
ウソをつくといういう意味ではない。本気でそう思い込
み、現実をその視点からしか見られなくなるんじゃないかと
いうことです。
イタリアの新型コロナウイルスでの死者は10000人を越え
基本的に、マゾなんだろうなと思うね。人が。わたしたち
のアタマが。
こういう自虐的な思考が好きなんだろう、アタマは。
自虐的といっても、今回の騒動は、もちろん個人レベルの
ことではない。社会を一個の人格と捉えての話。
自分たちが酷い目に遭い、それを耐え抜くことで達成感や
自己肯定感を得たいのではないだろうか。その為に、“事”
を実際以上に重大だと演出したがるのでは?
ウソをつくといういう意味ではない。本気でそう思い込
み、現実をその視点からしか見られなくなるんじゃないかと
いうことです。
イタリアの新型コロナウイルスでの死者は10000人を越え
たそうだけど、それをどう見るかということです。イタリア
の人口は日本の約半分。そして日本に次ぐ高齢化社会。
それなら、イタリアでの年間の死者数は日本の半分ぐら
いだと考えていいだろう。
60~70万人。
イタリアでは毎年それぐらいの人が死んでいて、その八
割ぐらいが病死だろうから、今回のコロナウイルスでのイタ
それなら、イタリアでの年間の死者数は日本の半分ぐら
いだと考えていいだろう。
60~70万人。
イタリアでは毎年それぐらいの人が死んでいて、その八
割ぐらいが病死だろうから、今回のコロナウイルスでのイタ
リアの死者数が、イタリアの年間死者数を特に押し上げるこ
とは無いのではないか? もちろん、現段階ではわからないけ
れど、コロナウイルスによって、このペースで今年いっぱい
人が死に続けるとは思えない。ここ二週間ぐらいで鈍化する
だろうと、私は見ている。
“専門家” でもないのに、なぜそんなことが言えるかとい
うと、イタリアの「感染症弱者」の割合、「感染蔓延度」
(そんな言葉無いでしょうが)などを考えると 「考え
る」ではなく、「当てずっぽう」ですけど 、もうそろそ
ろ、イタリア国内では感染が行き渡って、死亡リスクの高い
人は淘汰されてしまうだろうと思うから(薄情な言い方でご
めんなさい。あえて、そういう表現をしています)。常識的
に考えて、そうならざるを得ないと思う。
そして、その後半年ぐらいは、イタリアでの死者数(コロ
ナだけではないすべての死者数)は例年より低く推移するだ
ろうと思う。そして、最終的に、2020年の死者数は例年と
大差ないということになるだろうと思われる。
よその国のことで「他人事だから」とこんな予測をするの
は品が悪いけど、ヨーロッパ・アメリカなどの動きがどうに
も気持ち悪いので、書き残しておきたい。そして、騒動が沈
静化したら確かめたい。私は「冷静」にものを見ていたの
か、「正常性バイアス」によって、見誤っていたのかを。
新型コロナウイルスへの最善の対処法は、「それは無いこ
とにする」ということだと思ってる。
去年までと同じように、「風邪っぽい人」はそれなりに行
動し、「肺炎」の人には、「肺炎」即した治療をする。たぶ
ん、それで大過なく済んでしまうことだろうと、私は思い続
けているのだ。だって、そもそも自然現象なんだから、来た
ら、去って行くんですよ。人が余計なことをしなければね。
「恐怖」の対象を設定して、それを克服して自身(社会)
のヒロイズムを満足させるという、マゾヒスティックな欲求
に支配されて、しなくていいことをしているじゃないだろう
か?
ヨーロッパ・アメリカなどで行われていることは、「余計
な事」なんだろうと思うね。
人が死に続けるとは思えない。ここ二週間ぐらいで鈍化する
だろうと、私は見ている。
“専門家” でもないのに、なぜそんなことが言えるかとい
うと、イタリアの「感染症弱者」の割合、「感染蔓延度」
(そんな言葉無いでしょうが)などを考えると
る」ではなく、「当てずっぽう」ですけど
ろ、イタリア国内では感染が行き渡って、死亡リスクの高い
人は淘汰されてしまうだろうと思うから(薄情な言い方でご
めんなさい。あえて、そういう表現をしています)。常識的
に考えて、そうならざるを得ないと思う。
そして、その後半年ぐらいは、イタリアでの死者数(コロ
ナだけではないすべての死者数)は例年より低く推移するだ
ろうと思う。そして、最終的に、2020年の死者数は例年と
大差ないということになるだろうと思われる。
よその国のことで「他人事だから」とこんな予測をするの
は品が悪いけど、ヨーロッパ・アメリカなどの動きがどうに
も気持ち悪いので、書き残しておきたい。そして、騒動が沈
静化したら確かめたい。私は「冷静」にものを見ていたの
か、「正常性バイアス」によって、見誤っていたのかを。
新型コロナウイルスへの最善の対処法は、「それは無いこ
とにする」ということだと思ってる。
去年までと同じように、「風邪っぽい人」はそれなりに行
動し、「肺炎」の人には、「肺炎」即した治療をする。たぶ
ん、それで大過なく済んでしまうことだろうと、私は思い続
けているのだ。だって、そもそも自然現象なんだから、来た
ら、去って行くんですよ。人が余計なことをしなければね。
「恐怖」の対象を設定して、それを克服して自身(社会)
のヒロイズムを満足させるという、マゾヒスティックな欲求
に支配されて、しなくていいことをしているじゃないだろう
か?
ヨーロッパ・アメリカなどで行われていることは、「余計
な事」なんだろうと思うね。
2020年3月29日日曜日
「ロックダウン」と「かすみ提」 コロナ ⑱
ちょっと前に、『ウイルスと「移民・難民」』というタイ
トルで、「日本はなぜヨーロッパの国のようにコロナウイル
スで大混乱を起こしていないのか」という話(思い付き)を
書いたのだけれども、それに加えて、こういうことも考えた
(思い付いた)。
昔からよく言われることだが、ヨーロッパ人は「自然は克
服するもの」と考えるが、日本人は「自然と折り合いを付け
る」ように動く。その違いが、日本とヨーロッパ・アメリカ
との状況の差を生んでいるのだろうと。感染症は自然現象だ
からね。
「政府の初動が遅かった」などと言われるが、日本人は自
然の様子をうかがいながら、上手くやり過ごそうとするもの
だ。少なくとも今まではそうして来たし、その習性は深く根
付いているので、なんだか「ダラダラ」と動いているように
見える(実際そうだけど)。けれど、今回はそれが功を奏し
て、ヨーロッパの国などから「なぜ日本は、感染者・死者の
急増が抑えられ、社会活動をある程度維持できているん
だ?」といった驚きの声が出ることに繋がっているのだろ
う。
日本人は「まず自然有りき」「自然には逆らえない」とい
う考えで生きてきた。
「こちら(人)が、自然に合わせる」と。
一方ヨーロッパの人は「自然は克服するもの」「自然の方
を変えて、こちら(人)に合わせる」というやり方で生きて
きた(中国もね)。
言い換えれば、日本人は「現実的」で、ヨーロッパ人は
「観念的」なんだね。
ヨーロッパの国は「観念的」でイデオロギーの力が強いの
で、「感染症」などという “不要な自然” は完全に排除しよ
うとする。
イデオロギーの前には、人の暮らしだとかの “現実” は二
の次で、だから「ロックダウン」などということがすぐやれ
てしまう。もともと、「城郭都市」なんて作って、敵を排除
しようとしてきた人たちなのだから、ああいうやり方を選ぶ
のは自然なんだろう。それで上手くゆくのならいいけど、相
手の正体も状況もよく分かっていないまま強引なことをする
ので、あんなふうになってしまう。
かたや日本では、様子をうかがいながら「のそのそ」「じ
わじわ」と「その場しのぎ」を続けている。「あんまり酷い
ことにならなければ、まぁいいか」というような感覚が根底
にあるのだろう。それが、日本がある程度の平静を保ってい
る理由じゃないだろうか。
この感じで、「のそのそ」「じわじわ」と「その場しの
ぎ」で “いなし続けて” ゆけばいいと思うね。
ところが、安倍総理などはヒロイズムが好きで、欧米風が
お好みなので、「コロナウイルスとの闘いに、完全に勝利す
る!」などと言ったりしてるし、小池百合子というお調子者
のオバサンも「ロックダウン」とか「感染爆発」「オーバー
シュート」などとか言いたがる。
総理大臣や首都の首長が、ああいう「観念的」な発言をし
ていては、この先不安だね。まぁ、そう言わざるを得ない事
情
のもあるのは分かるんだけどね。
極端な施策をとらずに、ある程度の発症者・死者は容認し
ながら、「のそのそ」「じわじわ」と事態をやり過ごすのが
日本的だし、かえって良い方向に向かうんではないだろう
か?そもそも、大した「感染症」でもないんだし。
中国やヨーロッパ・アメリカのやり方は、「観念的」で強
引だよ。自分たちの世界に、「感染症」などという “自然”
が断りも無く入り込んでくることが許せないんだろうな。だ
からこの程度の「感染症」でも、ヒステリックに排除しよう
とする。でも、その結果があの状況ではね・・・。
武田信玄は洪水対策として「かすみ提」というものを作っ
た。
洪水を完全に封じ込めようとするのではなく、堤が決壊し
て大被害にならないように、溢れた水を田んぼなどに流すよ
うに、わざと堤の一部を低くした。そのように、自然をいな
すのが、日本的で、かつ、賢いやり方だと思うね。受け入れ
つつ、「のろのろ」「じわじわ」とやり過ごす・・・。
それで、日本がヨーロッパより優れてるとは言わないけれ
ど、自然との関わり方においては、上手なんじゃないかな。
まあ、経済に踊らされて、酷い失敗も沢山してきたわけだけ
どもね。
「観念(アタマ)」が前面に出てくると、物事はロクな方
に進まない。
2020年3月28日土曜日
「恐怖」で死ぬのか? コロナ ⑰
コロナウイルスでのイタリアの死者数の多さを見ている
と、「人は、過度な不安や恐怖によっても、死ぬのだろう
か?」などと考える。
今回の死者の年齢層などを考えると、私はどうしても、こ
のウイルスが恐ろしいものだとは思えない。ただ、イタリア
の死者の増加スピードは少し早すぎるように思う。
私が思うように「ウイルスはさほど恐ろしいものではな
い」という前提に立つのならば、イタリアの死者の増加スピ
ードは何故か?
ストレスが身体的に大きな影響を及ぼすことは、今や誰も
否定しないだろう。自律神経の乱れや、免疫系への悪影響な
ど、さなざまな研究がなされ、心療内科などもすでに社会的
に認知されている。
そもそも免疫力が低下している高齢者の場合、極度の「不
安・恐怖」によって、それがさらに低下し、炎症系の疾患を
発症して、さらに増悪することは十分に考えられる。
さらに、イタリアの場合、パニック下で早くから医療機関
の機能が低下し、十分な医療が提供できず、それがさらにパ
ニックを増大させるということが起きているのかもしれな
い。
また、ニュース映像にあるように、患者を裸でベッドに寝
かせるといった処置を見ていると、イタリア特有の医療慣習
のようなものがあって、それがかえって死者を増やしている
のかもしれないなどと思う。
が、私の考えはさらに先へ進んでしまって、こんなことを
考えてしまった。
「“恐怖” と “不安” により呼吸が浅くなる状態が続くと、
肺が委縮し、免疫活性が低下している人の場合、炎症反応が
極端に過剰になり、間質性肺炎にまで至るのではないか?」
つまり、「恐怖によって、死に至る」のではないかと。
もちろん、これは何のエビデンスも無い私の妄想ではある
けれど、第一次世界大戦中に「スペイン風邪」が猛威を振る
ったこととも考えあわせると、「あるかもしれない」ぐらい
には思う。当時、ヨーロッパは「恐怖」が蔓延していただろ
うからね。
こんなことを書いていたら、映画の『リング』を思い出し
た。
貞子の呪いを受けた者は、「恐怖」によって死んでしま
う。
ヨーロッパやアメリカは、何か呪いを受けているのだろう
か?
この前書いたような、「ナショナリズム」や、「個人主
義」や、「競争原理」などの反作用が、〈呪い〉となって
人々の「恐怖」を増大させて死に至らしめているのかもしれ
ない・・・。
とはいえ、死んでいるのは平均寿命前後の人がほとんどな
ので、これはやっぱりヨタ話なんだろうな。
遠くの国の、見知らぬ人とはいえ、そこには家族も友人も
いるのだから、死んだ人をネタにヨタ話をするのは下品だ
ね。
ごめんなさい。
ただ、「恐怖を起こさせるもの」より、「恐怖そのもの」
の方が人を不幸にし、死に近付けるのだとは思うね。
恐怖すべきは、“「恐怖」という感情そのもの” なんだと
ね。
2020年3月27日金曜日
当たり前に死ねる世界を! コロナ ⑯
ここのところ、コロナウイルスの話題をスルーしていたの
ですが、今回はまたそっちの話で・・。
小池百合子という人は、相も変わらずお調子者で、「ロッ
クダウン」などという言葉を使いたがる。「都市封鎖。ロッ
クダウン」などと言う。「都市封鎖」で言い終えているの
に、そこに「ロックダウン」という同じ意味の言葉を被せ
る・・・。
自分が「排除」という言葉を使って墓穴を掘ったのに、相
も変わらず、刺激の強い、きつい言葉を使いたがるのは、自
治体の首長としては相応しくないだろう。
明るい話題の時に、盛り上げるための印象的な言葉を使う
のはいいだろう。けれど、今回のような時に、ネガティブな
強さをもつ言葉を使うことには慎重であるべきだと思うんだ
がね。
「ロックダウン」どころか「都市封鎖」でもキツイ。
こういう時には、もっとやんわりと表現するのが、リーダ
ーとしての心構えではなかろうかと思うのは私だけ?
お調子者のオバサンの話はさておき、連日「コロナウイル
スに感染した70代の男性が亡くなりました」とか「80代の
男性が死亡しました」とか「90代の女性がコロナウイルス
に感染して亡くなりました」とかいう報道があるのだが、日
本の「平均余命」は83歳なのだ。70代・80代・90代の人
が亡くなるのは、平均的な事なんじゃない?
マスコミというのは、異常な事や特異な事を報道するのが
信条なんだろうと思うのだが、なんだって平均的な年齢で死
ぬ人の事を一々報道するのだろう? 70~90代の人は、毎日
死んでますよ。癌や脳卒中や肺炎や心筋梗塞やらでね。なん
でコロナウイルスで死んだ人だけ特別扱いなの?
日本では、平均すると毎日3500人位の人が死ぬのだが、
「平均余命83歳」というのは、その3500人の平均年齢が
「83歳」だと捉えてよいということだろう(いろいろと面
倒な理屈もあるようですが)。ならば、今回のコロナウイル
スで亡くなる人のほとんどが、70~90代だということは、
このウイルスが蔓延したところで、日本人の「平均余命」を
あからさまに引き下げることはないだろうと思われる。それ
ならば、いま起きていることは、「平均的な」ことなのでは
ないのか?どこが「緊急事態」なのか?
70~90代の人が病気で死ぬことがニュースになるのな
ら、心筋梗塞や脳卒中や癌で死ぬ人のことも報道しなさい
よ。テレビは毎日5~6時間それを流すだけになるでしょう
がね。
今回の騒動の報道などを見ながら、「気持ち悪いなぁ」と
思い続けてきたけど(ウイルスではなくて、人間の行動
が・・・)、今日になって、「なぜこんなことになるのか」
というのがやっと分かってきたように思う。
わたしたちは、個人的には「死にたくない」。それで当然
です。それが「個人」としての当然の見方だ。けれど、社会
という枠で考えると、その見方は違ってくる。
人というのは死ぬものなのだ。日本であれば、83歳ぐら
いで死ぬのが一般的なのだ。
社会の状況・在るべき姿を考え、それがどうあるのが「普
通」か、「望ましい」かを考えるときに、個人の価値観を持
ち込むのは筋が違う。社会を見る時に、そこに個人の “情”
や “理想” を持ち込むと、社会は機能不全を起こしてしま
う。日本だけでなく、今、世界で起きていることは、「“個
人の価値観” が “社会の価値観” を排除した」ということの
表れだと思うね。
私は〈反社会的な人間〉で、「社会が個人を喰い潰す」な
どと言って社会を目の敵にしている人間だけど、今回のよう
な狂騒を見ると「社会全体の安定を考えようよ」と言いたく
なる。だってアタマが悪過ぎるんだもの。そもそも、社会と
いうものは狂っているけども、これ以上の「狂い過ぎ」は勘
弁してほしいものだ。
「高齢者が死んでゆく」
それは当然のことでしょ?
高齢になるということは、「死に近づく」・「死にやすく
なる」ということでしょ?
「重い基礎疾患を持つ」ということも、「死に近くなる」
ということでしょ?
「その人の免疫力が低下している」のなら、一見健康で
も、本人も周りも知らないだけで、その人も「死に近付いて
いる」のでしょ?
いつでもどこでも、ある割合で、“死に近付いている人”
がいるのが当たり前です。「当たり前」のはずなんです。け
れど、今回の騒動を見ていると、その「当たり前」を受け入
れない人間が世界中に “蔓延” している。
「病原性ウイルス」も「感染症」も自然現象です。それで
亡くなる人のほとんどが高齢者だというのも自然な事です。
それは「当たり前」のことです。でも、その「当たり前」を
受け入れたくないのです。わたしたちのアタマが、エゴ
が・・・。
『都市封鎖』なんて言うけれど、それは、「熱中症で人が
死ぬから、東京を屋根で覆って日差しを遮ろう」とするよう
なものです。今回行われていることは物理的に見えにくいか
ら、その「異常さ」が無視されてしまうけれど、「ウイル
ス」や「感染症」よりも、それを「完全に排除しよう」とす
ることの方が “異常” なのです。アタマの妄想・暴走なので
す。
人間にとって最大の脅威は、「ウイルス」でも「感染症」
でもなくて、わたしたち自身の “アタマ(エゴ)” です。
このウイルスのせいで、十代・二十代の子がバタバタ死に
出したら・・・、私も深刻になってみます。
2020年3月26日木曜日
「いま、ここ」ばっかり。
スピリチュアル系の本や、ネット上のその手のサイトなど
を見ても、その話の中心になって、やたらと出てくる言葉が
ある。「いま、ここ」。
このブログでも、「いま、ここ」を結構使ってる。上の
〈ラベル〉にも、「いま、ここ」がある。
そう言うしかないし、間違ってもいないと思う。加嶋祥造
さんの代表作も『タオ~ヒア・ナウ』だし、仏教では「即今
当所」という言葉があるし、自分や世界の本質を突き詰める
と、「いま、ここ」ってことになってしまう。
けど、「いま、ここ」はこのごろあまりに使われ過ぎて、
言葉が安っぽくなってしまったように思う(こんなブログで
も使われるぐらいに・・・)。このままでは、「いま、こ
こ」という言葉が胡散臭いものになりそうな気がしている。
何とかしといた方がいいんじゃないか? と思って、これを
書き始めた。何とかなるかどうか知らんけど。
このブログでは、これまでに、「いま」や「ここ」につい
て何度か書いてきた。
「今、この瞬間は、全宇宙どこでも、今なんだ」とか、
「この瞬間は、すべての過去とすべての未来が、重層的に存
在している」とか「ここは、そこだ」とか・・・。
そういったことをまとめると、「いま、ここ」は「全時間
(永遠)、全宇宙」と言えるのだ。
う~ん。大袈裟なことになってしまった。
実のところ、「いま、ここ」には、その伝えたいことがあ
まりにも微妙過ぎ、かつ、あまりにも壮大過ぎて言葉にでき
ないので、そのギリギリの表現として「いま、ここ」という
言葉ぐらいしか使えないというやむにやまれぬ事情がある。
「いま、ここ」を使わないとなると、黙っているしかないと
いうことにもなりかねない。まぁ、黙っていてもいいんだけ
ど、それじゃぁ親切心が足りない。命の本質は「慈悲」なの
で、黙っているわけにもいかない・・・。で、結局「いま、
ここ」などと言わざるを得ない・・・。
その昔、倶胝(ぐてい)という坊さんがいた。彼は、悟り
や仏教の本質のようなことを尋ねられると、いつも黙って指
を一本立てたという。
仏像の定番の一つに “釈迦誕生仏” というのがあるが、そ
の姿は右手で「天」を、左手で「地」を指している。それで
すべて。他には何も無いので、他にする事も言うこともな
い・・・。
倶胝の指の先の極小の一点と、釈迦の示した「天」と
「地」の無限は同じもの。それを言葉にすれば、どうしても
何かを取りこぼしてしまう。仕方がないので「いま、ここ」
などと言うしかない羽目になる。
他の言い方を考えても、「この、ここ」とか、「これ」と
か、「その、そのまま」などという言い方になってしまっ
て、大した違いはない。それどころか、もはや、「いま」も
要らないんじゃないかとは思う。なぜなら、「いま」が存在
するかどうかも怪しいものだから・・・。だって、「いま」
は常に過ぎ去り続けてるのだからね。さらに、「ここ」も怪
しい。前に書いたように、「ここ」は「そこ」でもあるし
(『そこは、どこ?』2019/10)、宇宙全体でもある。「こ
こ」はあまりにも曖昧過ぎる。
ということで、「いま」も「ここ」も出番は無くなってし
まった。
やはり、倶胝のように指を一本立てるしかなさそうだ。
はて? 私はいったい何を言わんとしているのだろうか?
「いま、ここ」という言葉の値打ちを下げないようにしよ
うとしていたはずが、その「いま、ここ」はどこかに行って
しまった。いま、ここには、「いま、ここ」は無い。
どうやら、「いま、ここ」という意識を持つこと
は、“「いま、ここ」さえ、無い” という「無」あるいは
「空」に目覚める最後のステップなのだろう。
究極の、ギリギリの、「言葉」の最後の一段から、「言葉
の外」へ最後の一歩を踏み出すための・・・。
「いま、ここ」から、「いま、ここ」へ。
(最後、ちょっとカッコ良かったんじゃない?)
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