2022年5月15日日曜日

「現実」って言うけどね・・・



 毎日、ロシアのウクライナ侵攻のニュースが続く。「本当

にそんなことおきているのか?」という気もする。なにせ、

この目で見たわけでもない。

 私の住む世界は平和そのもので、困った人間もいるにはい

るが、生活が壊されるようなことはない。そもそも、ここ数

年で、私の “現実感” というものはかなり希薄になっている。

自分の生活や命さえ、なにやら他所事のようなのに、遠い国

で、ましてや戦争が起きているなどということには、“現実

感” など持てない。

 私は昔から、他の人よりも “現実感” というものが希薄なよ

うに思う。もちろん、他の人の “現実感” と、自分の “現実

感” を比べることはできないけど、話を聞いたりしてると、

他の人たちは、「現実」というものを、かなり確信的に「現

実だ」と思っているようだ。


 「現実が現実なのはあたりまえじゃないか!」。そう思わ

れるかもしれないけれど、実際、「現実」を「現実だ」とあ

まり思えない人間が、ここにいる。しかも、最近はその度合

いが強くなっている。そして思う。「そもそも現実って、

何?」。


 こういう、人の認識の根幹に関わる言葉は自己矛盾をはら

んでしまうことが多い。

 「正しい」という言葉を正しく定義できないように、「現

実」という言葉、概念も矛盾をはらむ。「現実」というもの

を定義している、その思考は “現実” か?


 「現実」について、養老孟司先生がこう定義している。

 「その人の行動に影響を与えるものが “現実” だ」と。なる

ほど、よく分かる。


 先日、「銀河の中心にある巨大ブラックホールの影を撮影

できた」というニュースがあったけど、そのニュースに驚い

たりする人にとっては「現実」だ。けれど、「なにそれ?」

と聞き流す人にとっての「現実」には関係ない。「どうでも

いいこと」だ。

 それで分かるのは、「現実」というものは個人的なもので

あって、この世界に普遍的な「現実」というものが有るわけ

ではないということ。


 「いやいや、手に針を刺されれば痛いじゃないか」などと

思われるかもしれない。けれど、それは身体的な「反応」で

あって、いわゆる「現実」というものではないだろう。わた

したちが日常的に「現実」と呼んでいるものは、大なり小な

り、ある “物語” を持っているもののことで、自分が持つ世界

の “物語”(イメージ)の構成要素になっているもののことで

あり、実態を「現実」だと思っているわけじゃない。


 ミサイルが飛んで来てビルを爆破する。

 それを「ミサイルで攻撃された!」と言う。その言葉に

は、「ミサイルが飛んで来てビルを爆破した」という実態

だけではなく、遠い所にいる軍隊やその国の指導者の意思が

おもんばかられ、いつの間にか付け加えられている。実態は

すぐに “物語” へと変えられる。そして、その “物語” が「現

実」として扱われる。


 今回の侵攻が起きて、ウクライナの人が沢山避難したけれ

ど、もしも誰一人避難せず、いつもと変わらぬ暮らしをし続

けたらどうなっただろうかと思う。

 ロシアの戦車が道を通っても、ダンプカーが通ったように

意に介さず、人が撃たれて倒れても、急病で人が倒れたよう

に周りの人が助けたり、建物が砲撃されても、ガス爆発でも

起きたように処理に努め、ロシア兵を見ても自国の警察官を

見るように気に留めず、彼らに連れ去られても、自国のマフ

ィアの横暴のように対処したら?

 ウクライナの人々にとって、そこに「戦争」というものは

存在しないことになる。


 もちろん、そんなことは「現実的」ではない。人類の歴史

上、大小、数えきれないほどの戦争が行われてきたけれど、

上に書いたようなことが行われたことはないだろうし、これ

からもないだろう。

 けれど、暴力というものは、相手が怖れ、脅威に感じてく

れなければ、その力は大きく削がれる。攻撃している側は拍

子抜けしてしまい、自分たちのしていることに虚無感を憶え

るのではないだろうか?「自分たちは何をやってるんだろ

う?」と。


 禅の言葉に「端坐して実相を思え」というのがある。「起

きていること、見ていることに自分の考え(物語)を持ち込

んでウロチョロするな」という。

 「莫妄想」というのもある。「妄想するな」と。やはり

「物語を持ち込むな」というのです。


 ある人の “物語” が別の “物語” を刺激して、それぞれの人

のアタマの中で “物語” が変質し続ける。そういった “物語” 

の総体が、世の中の「現実」というものでしょう。みんな 

“物語” (妄想)の中に生きている。それを「現実」と呼んで

いるけれど、その「現実」はそんなに良いものか?


 窓の外に青空が広がり、街路樹が風に揺れ、スズメが鳴

き、小学生が笑いながら走って行く・・・。そんな日常の風

景を見ていたら、戦争する気になんてなれない・・・。戦争

する気になれるなんて、また、誰かを戦争する気にさせるな

んて、妄想の中に生きている証拠だろう。人間のアタマは

ホントに悪い。


 他人の下品な妄想に付き合いたくはないけど、そういう連

中はそれを「現実」だと思っているので、どうしても付き合

わされてしまったりする。「ああ、ヤダ・・・」と思うけど

仕方がない。それが浮世というものなのだ。


 もし、私の街にどこかが侵攻して来たら、銃を構えた兵隊

がそばに来ても、いつも通り花に水をやっていたいものだ。

それで撃たれて死んだら、それでいい。もう若くもないし。

   これも妄想だな。



 
 


2022年5月4日水曜日

トンガはどうなった?



 ゴールデンウイークに入って暖かいとは思うけど、例年よ

りは肌寒いような気がする。

 「トンガの噴火の影響が出ているのでは?」などと思った

りするが、そんなニュースなどは一切無い。それにしても、

ロシアのウクライナ侵攻のおかげで、トンガの噴火災害の報

道が徹底的に消し飛んでしまったのには呆れる。あれだけの

火山灰が降れば、たぶん現在でも大変な状況だろうに。


 マスコミは、ふたこと目には「人道」だとか「命」だとか

言うけれど、単にセンセーショナルなものに飛びついてゆく

だけだということが今回でもよく分かる。トンガのことなど

もう忘れているのだろう。ならばウクライナが心配かといえ

ば、ウクライナ人が死のうが、ロシア兵が死のうがそんなこ

とはどうでもいいのだろう。所詮は他所事で、センセーショ

ナルならそれに越したことはないのだろうな。彼らは現実感

などというものは持ち合わせていないのだろう。そのくせ、

他所事であっても自分のことと受け止めるように、視聴者に

促す・・・。うわべだけのヤな連中だなぁと、あらためて思

う。


 この地球上では、今この時も、至るところで理不尽なこと

や不幸なことが起きている。

 何かの事情で、ウクライナよりも多くの人がある国や地域

で今日死んでいるかもしれない。だって、世界では一日に

6万人あまりが死ぬのだから、ある地域で集中的に数百人

死ぬことも不思議ではない。けれどそれは取り上げられる

とは限らない。マスコミが求めているのは、自国でアピール

きること、自分たちがアピールしたいことだけだろうか

ら。


 もしも、ロシアがウクライナに侵攻したことをどこの国も

取り上げず、どこの国民も知らなければ、天然ガスや石油や

小麦の価格が上がっただろうか、と考える。

 ニュースというものは恐ろしい。人の意識に与える影響は

重大だ。現代では、一夜にして世界中の多くの人の暮らしに

影響を与えることもある。それを知ってか知らずか、計算ず

くかそうでないかは知らないが、マスコミはその影響力を自

ら確認できることが嬉しいのではないだろうか? それだけで

はないのだろうか?


 老子の言ったように、よその国のことなど取り合わず、自

分の身近なことに誠実であればそれでいいのではなかろう

かと思う。

 わたしたちは、この数十年の間に、あまりにもマスコミの

流すことを重要視し過ぎてしまうようになっているのではな

いか? そして、自分の暮らしや身近な人・事よりも、情報に

気を取られ過ぎているのでは?


 人間が愚かなことなど、もうよく知っている。そんなニュ

ースを地球の反対側に届けてくれなくてもいい。それを知っ

た者が、その愚かさを、違う愚かさで繕おうとするだけだ。

結果的に愚かさが増えるだけのことの方が多い。

 そんなことより、自然の脅威に翻弄されている人たちのこ

とを教えてくれ。彼らの暮らしはどうなっているのか?わず

かばかりかもしれないが、手伝えることはないのか?

 トンガはどうなった?




2022年5月1日日曜日

おなかの中で



 今日は意識のことを考えていてヘレン・ケラーのことを思

い出していた。

 ヘレンがアニー・サリバンと出会い、「言葉」というもの

の存在を知るまで、彼女はどのような意識の世界に居たのか

と。


 目は見えず、耳は聞こえないヘレンの意識の中には、映像

も音も存在していない。さらに言葉を知る以前のヘレンには

思考活動も無かったはずだ。

 匂いと味と触覚(圧力・痛み・熱さ・湿度)の情報がヘレ

ンの脳内に入って来ても、それは感覚的な「快・不快」と、

その記憶を生み出すだけだっただろう。

 空間の概念は無くても、手を伸ばせば物に触れたり触れな

かったりするので、空間の感覚は有っただろう。けれど時間

については概念を持たないだけではなく、時間の感覚も無か

ったのではないだろうか? 時間の感覚を持つには、視覚によ

る、物が動き、変化して行く認識と、聴覚による音の刺激の

変化の認識が大きなウエイトを占めているだろうから。

 言葉を知ってから、時間の概念や論理、自他など意識がヘ

レンの中に育っていったことだろうけれど、それでもヘレン

の世界はわたしたちとは大きく違う。言葉を使い、思考活動

をするようになっても、ヘレンはわたしたちのように夢を

「見ない」し、夢の中で「話したり」「聴いたり」もしなか

ったはずだ。ヘレンの脳にはその機能が無い。ヘレンは夢を

嗅ぎ、夢に触れ、夢を味わっただろう。それがヘレンの夢だ

っただろう。そして言葉を持つまでのヘレンは、夢を経験し

ていなかったのではないだろうか? 

 夢の中で「嗅ぎ」「触れ」「味わった」としても、思考活

動の無いヘレンの脳は、目覚めた時にはそれらの夢を認識し

保持できなかったと思うのだ。小さな空間と時間の無い世界

に生きていたヘレンの意識は、とても小さく閉じていたこと

だろう。


 そんなヘレンの意識を考えていて、さらに臭覚も味覚も触

覚も無ければどうなるか? 想像してみた。たぶん、外部から

の何の入力も無ければ、そこには意識は生まれないだろう。

けれど、空腹など、内部の感覚は生じるはずだ。

 そこで、映画『マトリックス』の生命維持装置のようなも

のに人を繋いで、身体的に何の不具合も無い状態にして、さ

らに五感からの入力は一切遮断したら人の意識はどうなるだ

ろうか?

 ALS の患者が最後にたどり着く「閉じ込め症候群」とは違

、もう一つの「閉じ込め症候群」と言える状態。

 外からも内からも何の変化も無い。

 生きてはいるが、そんな状態では意識は生まれないだろう

し、すでに意識を持っている人間でも、そういう状態に置か

れれば、意識活動を喚起する刺激が全く無いので、ほどなく

して意識が消えて行くのではないだろうかと思う。

 それは、宇宙空間に一人で浮かんでいるような感覚ではな

いだろうか?

 通常、わたしたちが考えるような意識は無い。けれど生き

てはいる。脳も活動はしている。その時、わたしたちはどの

ような「意識」にあるか?


 実は、わたしたちは皆、その「意識」を知っている。母親

のおなかの中にいた時はそうだったはずだから。


 意識が白紙の状態をわたしたちは知っている。そしてその

感覚を覚えているはずだ。

 母親のおなかの中で、わたしたちは何の不安も不満も無

く、宇宙に浮かんでいたのだ。そしてたぶん、宇宙とひとつ

になっていただろう。だって、ほとんどの感覚入力も無い

し、わずかな光と音などの刺激はあったとしても、それを意

識的に処理することはできない状態なのだから、自他を分け

ることなどできない。分けられなければ「ひとつ」だ。


 そして生まれてきたわたしたちは、その “宇宙とひとつ” の

安堵を求め続けるのだろう。けれども、すでに思考に囚われ

てしまっているわたしたちは、思考の世界の中でそれを探し

てしまう。実は自分がすでにそれを経験していて、その感覚

を憶えているし、“白紙の意識” としていまもそれを持ってい

に・・・。


 言葉を持つ前のヘレンはしあわせではなかっただろう。

「しあわせ」という意識さえ持たなかったのだから。

 だけど、言葉を持ったヘレンも、真にしあわせではなかっ

ただろう。思考の世界の中で「自分」に閉じ込められたはず

だから。

 けれど、思考の世界に身を置いてみなければ、“白紙の意

識” に気付くことはできない。

 わたしたちは、一度、思考の世界で「自分」に閉じ込めら

れる必要があるのだ。自分の中にある “白紙の意識” は宇宙と

ひとつであると意識し直し、完全な安堵に気付くために。
 

 仏教的に言えば、わたしたちは母親のおなかの中から、仏

のおなかの中に生み出されたのだろう。けれど、思考が邪魔

をしていて、その安らかさに気付けないまま生きている。



  

2022年4月26日火曜日

命の自転 2



 前回の続きです。しかし、このブログではむやみやたらに

「死」という言葉が出て来る。書いている人はかなり異常な

のかもしれない。ほとんど「死」に憑りつかれているよう

だ。普通じゃない・・・と思われそうだけど、「死」に憑り

つかれているのは私に限ったことではない。普通一般に、人

は「死」に憑りつかれている。「死」の恐怖が、人のさまざ

まな活動の原点になっているのだから。


 人が働くのは、基本的に衣食住を得て生き延びる為だし、

健康に留意するのも生きのびる為。さまざまな宗教や文化が

生まれたのも、「死」の恐怖をごまかす為だ。人というの

は、暇だと自分の来し方行く末を考えてしまうものだ。そし

て、不安になる。その先には避けることのできない、得体の

知れない「死」が待っている・・・。だから、そんなことを

考えずに済むように、宗教や文化を生みだして、暇を潰し、

意識を「死」からそらしてきたのだ。

 だから、人はみんな「死」に憑りつかれていると言ってい

い。憑りつかれているからこそ、「死」の話題を避けるのに

懸命だ。You Tube などでは「死」という言葉を使うとトラ

ブルの元なので「タヒ」などという隠語が使われているけれ

ど、そこまで神経質に「死」という言葉を扱うほど「死」に

こだわっている。私なんぞよりはるかに異常だろう。「死」

と口にしたり書いたりすると誰か死ぬのだろうか?先端テク

ノロジーの中には、大昔からの「呪い」が生きているらし

い・・・。


 私がやたらに「死」と言うのは、その大昔からの「呪い」

にケリをつけたいからだ。「死」を表沙汰にして、陽に当て

て「呪い」を消してやりたい。


 いつとは知れないはるか昔、人は「呪い」にかかった。


 「死」「死」「死」・・・。

 「怖い」「怖い」「怖い」・・・。


 そして、その「呪い」は世代を越えて引き継がれ、「死」

を隠すことによって、かえって「呪い」のパワーは強まって

きた。

 科学と合理性が貴ばれる現代なのに、その得体の知れなさ

ゆえに「死」はかえって昔以上に怖れられ、その「呪い」の

パワーはさら増しているように思う。果たして「死」はそん

なに怖れるべきものなのか? 怖ろしいのは「死」ではなく

「呪い」の方ではないのだろうか?

「死を怖れよ」という「呪い」によって、人は「生」を台無

しにしてしまうのだから。


 朝が来て夜が来るように、わたしたちは生まれて死んでゆ

く。それは何の変哲もない当たり前の事。36億年も前か

ら、生きとし生けるものすべてがそれを繰り返してきた。な

のに人間だけがつまづいている・・・。何が「呪い」をかけ

たのか? 代わりばえのしない答えで恐縮ですが、それはアタ

マですね。わたしたちは自分で自分に「呪い」をかけた。


 自分というものを生みだしたが為に、「死」によって自分

が消え去るものであることを怖れるようになった。

 「死は怖い。死を避けよ」

 その言葉はアタマの中でループし続け、「呪い」の言葉と

なって人を支配することになり、長い長い年月が流れたいま

も、「呪い」は生きている・・・。


 もうそろそろやめにしよう。


 生まれて死ぬ、生まれて死ぬ、生まれて死ぬ・・・・・。

 そんな自転をしているわたしたちの周りには、地球の外に

宇宙が広がっているように、個人の「死」を包み込む広大な

〈死〉が広がっている。「生」を生み出す、命の母体として

の〈死〉が広がっている。そして、いままでにこの世に生ま

れた人たちは、ひとり残らずそこへ帰って行ったけれど、そ

のことで、この世界に何か異常でも起きたことがあるのだろ

うか? 


 「“不殺生” とのみ、心得よ」

 そういう言葉がある。仏教の “不殺生戒” のことです。


 殺すことはできない。死は無い。

 この世界は殺せない。この世界は死なない。

 もちろん個人は死ぬけれど、その個人とはアタマのこと

だ。世界の一部としての個体はその姿を変えて行くだけ。そ

の移り変わりの流れの中で、わたしたちのアタマだけが無意

味にもがいている。「怖い、怖い、怖い・・・」。怖がった

ところで何にもならないのに。


 自分や自分にとって重要な人の「死」を受け入れたとき、

「呪い」は解ける。そして、〈死〉に抱き止められる。

 意識は、命の自転から天空へと離れ(生きたまま!)、

〈死〉の側から世界を見つつ生きることになる。そして、も

う「死」の怖れは無い。だって〈死〉の側にいるんだもの。


 親鸞は「平生業成」と言った。生きているうちに成仏する

のだと。

 ゲーテは「死ぬことによって生きよ」と言った。


 それは無我とか煩悩を無くすとかいうことじゃなく、この

世界で「死ぬのは怖い」と右往左往しているエゴを〈死〉の

側から見る視点を、意識の中に持つこと。


 「ああ、今日もまた忙しそうに回ってるなぁ。自分もみん

なも・・・」


 そしてその自転が終わる時。それを眺めていた意識はその

ままそこに在ることだろう。だってすでにそっち側に来てた

んだから。すでに「自分」の意識ではないけどね。

(たぶん、ですけどね・・・)




 

2022年4月24日日曜日

命の自転



 今日のタイトルを見て「何のこと?」と思われることだろ

う。単に「生と死」を「昼と夜」になぞらえてみただけで

す。ただの思い付きで、特に深い意味はない。なので、別に 

“命の公転” でもいいのです。「夏と冬」に例えてもいい。ど

ちらにせよ、命は生まれてそして死んで行く。そしてまた、

あらたな生が動き始める。

 わたしたちは生まれて死んで行く。つまるところ、それだ

けのことです。身も蓋も無い言い草ですが、結局のところそ

れだけのことです。それだけのことなんだけど、世の中はそ

れでは済ませない。「生まれるのは大歓迎!」「死ぬのは、

あってはならないこと」だと・・・。朝が来れば必ず夜は来

るのにねぇ・・・。


 私のように、「人が死んでも悲しくない」なんていうよう

な異常者の言うことに、耳を貸す人はほとんどいない。いれ

ば、その人も異常者の可能性が強い。ちなみに「異常者」と

いうのは “常識とは異なる者” のことで、決して “アタマのお

かしい者” ということではない(アタマは悪さをするものだ

から、「アタマがおかしいことは良いこと」という可能性も

有る)。


 「死ぬのは、あってはならないこと」。その考えの方が異

常なのは間違いない。

 なぜ「死ぬのは、あってはならないこと」なのか? 生きて

いるものはみんな死ぬではないか? それは「夜が来るなんて

許せない!」と言っているようなものだろう。だったら自転

を止めるのか?そうなったら、 焼け付く昼の中で、人は干か

らびてしまう。人は、夜に逃げ込むことだろう。


 「生」は光で、「死」は闇。そういうイメージが人の世の

常識だ。けれど、そのイメージは、そもそも的を得たものな

のだろうか? 

 逆に「死」は光で、「生」は闇なのかもしれない。なにし

ろ、死んだ人が「死」の実態を語ってくれることは無いの

で、わたしたちは「生」と「死」を比較できない。「生」の

側から勝手に「死」に意味付けをして、「闇」だと思ってい

るというのが実際だ。一度、既成概念から離れて考えてみる

方がいいだろうと思う。本当に「死」は闇なのか? 釈迦は

「生きることは苦」だと言った。だったら「生」の方が闇か

もしれない。


 浄土宗では、死んだら西方浄土から阿弥陀仏が光に包まれ

ながら迎えに来る。悟りを得ることを「光明を得る」ともい

う。死んだら「仏さん」になると呼ばれるのがこの国なのだ

から、「死」は光明ということになる。逆にこの世での迷い

苦しみの日々を「無明長夜」という。「生」は闇だ。だか

ら、宗教や哲学や科学やお金に頼って、それぞれが「生」の

闇を乗り切ろうとしている。「生」が光の側だなんてとても

言えないだろう。


 とはいえ、さっきも書いたように、死んだ人が「死」を語

ってくれることは無い。私も「死」の実態を知らない。生ま

れる前は「死」の世界に居たはずだが、それは憶えていな

い。なので、既成概念から離れて考えてみると言ったところ

で、「死」の側のことが実際に分かるわけでもない。けれ

ど、同じ理由で、既成概念の「死」のイメージにも実際のこ

とは何も無い。「死」を闇とする理由も、本当は無い。

「死」については、何も分からない、誰も知らないというの

が正直な回答だ。

 けれど、わたしたちが「死」から生まれてくることは間違

いないだろう。以前書いたように(『死から生まれてきた』

2019/2)、生物の量に比べて、この世界の無生物の量は圧倒

的に多い。それを考えれば、「生」は物質現象の一つのパタ

ーンに過ぎないと言える。どう考えても、「死」の方が広く

大きい。


 私は何も「死」を礼賛しているのではない。ただ、フェア

に考えたいだけだ。

 殺人も自殺も無い方がいい。事故も無い方がいい。けれど

「死」に対する扱いはフェアじゃないと思う。「死」の側の

証人も弁護士もいないまま、欠席裁判は行われ続け、「死」

は有罪のままこれまで来た。それは、あまりに一方的じゃな

いか。もし冤罪なら、人は途轍もない損失をしているかもし

れないのだ。


 自分の大切な人を亡くすと、わたしたちは苦しむ。なんと

かその苦しみから逃れたいともがく。それが普通だし、誰も

それに異を唱えはしない。けれど、その「死のもたらす苦し

みから逃れたい」という思いは、見方を変えれば「死を受け

入れ、肯定できるようになりたい」ということだ。だけど、

それは難しい。その難しさの大きな理由の一つに、世の中の

識があるだろう。

 子供を亡くした人が、葬式でニコニコしていれば非難され

ることは避けられない。大切な人を亡くしたら、そのことに

打ちのめされなくてはいけないという社会常識が、人を闇に

押し込める。苦しむことを要請されるともいえる。その一方

で、先に書いたように、その苦しみから逃れたいという人の

思いに、異を唱える人はいない。ダブルスタンダードじゃな

いか。


 「まず苦しみなさい。それから妥当な期間を経て、そこか

ら出て来なさい」。世の中はそう言っているらしいし、誰も

がそういうものだと受け入れているらしい。それが数千年以

上も続いている・・・。もういいのではないか?


 「生」は光、「死」は闇。

 それは、アタマが生み出した、生きている側からの身びい

きのお話しだし、そのお話しはいたずらに人を苦しめる。愚

かにさせる。

 そんなお話しにいつまでもつき合う必要はない。

                   (次回へ続く)

 


2022年4月17日日曜日

満月と薄雲と羊文学



 昨夜、「寝よう」と思って枕もとのスタンドを消したら、

窓の外がやけに明るい。

 街灯の光のような感じはないので外を見てみると、ちょう

ど0時頃なので、天頂に満月が煌々と輝いている。さらに薄

雲がかかって、障子に陽がさしているように乱反射し、面発

光のような効果を生みだしていた。


 面発光というのは、光が広い面で乱反射して回り込み、強

い影を消してしまうことで全体的に明るく感じる現象のこと

を言う。

 薄雲のせいで光と影のコントラストが弱まり、 満月の直射

があれば暗くて見えない部分も見える。その分、明るい部分

のディテールはややぼやけるものの、全体的にはよく見える

ようになっていて、とても明るく見える。満月の夜は明るい

ものだが、こういう明るさは記憶に無い。なんだか不思議な

ものを見ている気になった。そして思う。光が強すぎると、

影の部分は見えない。弱い光がまんべんなく広がる方が、物

事の全体像が見える。

 わたしたちの物の見方も同じだろう。ある視点からの見方

が強くなるほど、裏側の部分はより見えなくなり、物の見え

方は一面的になる。そして、全体を見失い、愚かさは度合い

を増す。


 三週間ほど前に、“羊文学” というバンドを知って、結構ハ

マっている。

 まだ二十代前半の女二人、男一人のスリーピースバンドだ

が、いい音楽を演っている。ユニークだけど、キャッチーな

曲作りのツボを心得ていて、聴いていて気分がいいし、ハー

トに来る。で、なぜここで “羊文学” が出てくるのかという

と、彼らの曲に “あいまいでいいよ” という曲があるからだ。


 曲のサビの部分で「あいまいでいいよ・・ 本当のことは 

後回し」と歌われるのだけれど、それは、世の中や人間関係

に本当のことは無いということを彼らが感じているからでは

ないのだろうか?

 昨夜の満月の光のように、あいまいにしていることで、か

えって全体像がなんとなく見えて、穏やかさと落ち着きが訪

れるのだと・・。


 人や世の中に本当のことを求めたところで、それを知りつ

くすことはできないし、それにこだわることでかえってギク

シャクする。仮に本当のことを知ったところで、それが何な

のか? そんなことは後回しで、気分良く、仲良く過ごせばそ

れでいいんじゃないか?

 「あいまいでいいよ」という歌声は、《 正しいことがある

とすれば、仲良くすることだろう 》という私のハートには、

そういう風に響く。


 本当のことなどあるのだろうか?

 無いだろうね。


 何が本当で、何が偽りで、何が正しくて、何が誤り

で・・・、そんなことはわたしたちのアタマが自分の都合で

決めているに過ぎない。

 前に書いたことがあるけれど、「1+1=2」というの

も、“「1+1=2」ということにする” という約束の上での話

だ。その「約束」にがんじがらめになって、押しつぶされそ

うで、苦しんだり傷付け合ったりしているのが人間というも

のなのだから、本当のことや正しいことはあいまいにしてい

る方が賢明だ。


 「本当のことは 後回し」
 

 じゃぁ何を先にするか?

 「本当の “本当のこと”」だろう。

 それは何か?

 わたしたちは「気分のイイことがイイ」ということ。
 

 本当のことも、正しいことも後回し。いや、それは所詮、

お話し。

 しあわせになるのに理由はいらない。

 気分良くなるのに理由はいらない。

 いま気分良くすればいい。

 いましあわせになればいい。


 世の中のこと、アタマのお話しは、後回し。

 もしもみんながそうすれば、後回しどころか、世の中のこ

とは生きることの雑事になる。


 薄雲を透る月明かりのように、あいまいの方がイイ。
  
 「本当のことは後回し・・・」

 この世が終わってからでもイイんじゃないだろうか。

 いや、その時はじめて分かるのでは?



2022年4月10日日曜日

平和でいること



 春だなぁ。どこからともなく春の匂いが漂ってくる。

 今朝も家のそばでイソヒヨドリやカワラヒワがさえずって

いたけれど、穏やかで気持ちがいい。平和だなぁと心底感じ

る。遠くの国では戦争しているけれど、やっぱり他人事だ。

あちらはあちらのさだめ。こちらはこちらのさだめ。それぞ

れに “いま” を受け止めてゆく・・・。それでいいのではない

だろうか。それだけのことではないだろうか。


 東日本大震災が起き、原発が爆発した時、多くの外国人が

日本から逃げ出した。それはそれでいい。そりゃそうだろう

と思うから。良い時も悪い時も、人はそれぞれのさだめを、

それぞれの事情によって生きるだけのことだろう。そこに社

会的な “正解” のようなものが有るかのように振舞うのは、何

かが違うような気がする。物事がおかしな方へ行きそうな気

もする。


 『木を植えた男』というアニメをご存じだろうか? カナダ

のフレデリック・バックという作家による作品で、フランス

のジャン・ジオノという作家の原作によるものだ。

 「忘れえぬ実在の人について書いて欲しい」と頼まれたジ

オノが、プロバンスの広大な荒野に、たった一人で木を植え

続けて森を再生した農夫のことを書いたものだが、それに感

銘を受けたバックがアニメ化した。後に、その農夫は実在し

ていなかったことが分かったのだが、原作もアニメもそれが

事実かどうかを越えて、見た後に「良いものを見たな・・」

としみじみと思わせてくれる作品だ。


 舞台は1910年代から1940年代で、主人公の農夫 エルゼア

ール・ブッフィエ はたったひとりで荒地に住み、毎日一日

100粒のドングリを植え続ける。そして30年以上の歳月をか

け、森をよみがえらせる。

 その間には第一次世界大戦と第二次世界大戦も起き、せっ

かく育った森の一部が、戦争の為に伐採されるということも

起きたが、ブッフィエは戦争にはまったく関心を示さず(あ

るいは知りもせず)ただただ木を植え続けていた。彼はた

だ、誠実に自分のすべきこと、自分の暮らしを続けるだけだ

った。そしてそれは、結果的に多くの人々に喜びをもたらす

ことになった・・・。そんな物語。


 それで思い出すのが、『老子』の中の理想の国について語

ている部分。


 「それはごく小さな国で、人々は単純に穏やかに暮らし、

旅に出たりもせず、隣の国は犬や鶏の鳴き声が聞こえるほど

近いが、往来も無い・・・」


 さらに〈 君子、その想い、その位を出でず 〉という言葉な

ども思い出す。(こっちは孔子の言葉だけど)

 私は、この「位」は広い意味で、「立場」と捉えたほうが

よいと思っている。自分の分際、居場所。


 現代では、無関心であることは「良くないこと」と言われ

ることが多いだろうけれど、他者に関心を持つことが、かえ

って物事を乱す側面を持つことは否定できないだろう。


 随分前に、《 一人一人が平和になって、初めて社会が平和

になる 》と書いたことがあるけれど、『木を植えた男』のブ

ッフィエのように、ただただ、自分の居場所で自分のすべき

ことに誠実に生きている方が、世の中の為にもなるのではな

いか? その、ひとりの場所の、ひとりの平和が、いつか静か

に、ほんの少しは広がって行くのではないだろうか?


 これまで、社会が人に求めるような “正義” が、世の中を平

にしたことはない。

 少なくとも、私は知らない。


 人は、自分で自分を平和にするしかない。

 社会を平和にする義務などないし、それは出来ないことで

もある。


 作為を捨て、ただ、ひとりで平和でいること。


 それが 78億分の1 であるとしても、そこには確かに平和が

ある。

 それは世界への貢献ではなかろうか?