2022年8月15日月曜日

「無別主義者」



 今回のタイトルを見て、「え、何?」と思われたかもしれ

ない。

 これは、You Tube で、日本に住む黒人さんのエピソード

を見てコメントを書いた時に、ふと出て来た言葉です。


 最近は、人と人、あるいは文化の違いなど、「違い」を口

にしたりすると、なんでもかんでも「差別はいけない!」と

言って批判する人間が増えたようで、本当に迷惑だと思って

いる。

 ああいうのは、逆に、攻撃し「迫害」を加えているわけ

で、そういう言動・考えをする人間を「無別主義者」と呼ん

でみたわけです。


 ほとんどの生き物は、感覚器を使って「違い」を認識し

て、それに対応しながら生きようとしている。人間も同じだ

から、「違い」を意識するのは当たり前で、それを言葉にし

たりするだけで批判したりするのは、アタマが悪いと言うし

かない。

 人はみんな、いろいろに「違う」のだから、「違うね」と

言うことまでが問題になっては、人と人とがそれぞれの自分

らしさを見せて付き合うことが出来なくなってしまう。恐ろ

しい管理主義です。


 「違い」を問題にすることと、「違い」を話題や議題にす

ることは全然違う。

 「差別」と「区別」の違いさえ分からないような人間を、

私は区別する。


 黒人街へ出かけて、「おまえらは俺とは違う!」と声高に

あざ笑う白人は存在しないように、自分が他の国などへ行っ

たら、自分の方が少数派で、「区別」されてしまうことは必

至だが、「無別主義者」はそれを受け入れないのか? それ

に、すべての人間は「自分と違う」のだから、「違い」を受

け入れなければ、その人はすべての人から孤立することにな

り、完全に孤独な人となってしまうが、それは了承済なのだ

ろうか?

 そんなわけがない。そういうことを考えたことも無い、ア

タマの悪さが際立つ人間だと言って差し支えがないだろう。


 「違い」を見ることは、生物として問題ない。単に「区

別」だ。けれど、そこにアタマが「評価」を持ち込んだとた

ん、それは「差別」へと変貌し、エゴのエネルギーを取り込

みながら、人の行動を醜悪で愚かなものに変えてゆき、時に

は残虐と言うしかないことまでしでかす。なぜそんなことが

起こるのか?

 多くの人間が孤独だからだろう。孤独だからこそマジョリ

ティの側に入りたい。マイノリティを「自分とは違う奴ら」

とすることで、自分はマジョリティの側だと思えるから。


 個人が、一人で大勢を「差別」することはできない。それ

は単なる「批判」「クレーム」になってしまう。「差別」

は、必ず「多数」から「少数」へと向かう。その「多数」

は、 “人数の多さ” か、“社会的力の多さ” だけれど、本質的

には “人数の多さ” による。“社会的力の多さ” だと、一対一

の関係になって、単に「ケンカ」になるかもしれないから。

 「自分と違う」という理由だけで人を受け入れない人間

は、既得権益を利用して、自分が優位に立とうとしているだ

け。



 「差別」の本質は「違い」を口にすることではなく、「評

価」を下すことにある。

 「無別主義者」は、“「区別」する人間” を区別して「評

価」を下す。アンタは「✕」。

 自分が「区別」し、さらに「評価」していることに気付か

い。


 誰もが生まれてきた子供をあれこれと「評価」し、物心

付いたら、自分と他の子を比較して「評価」することを教

え、すべての人間に「評価」という種が撒かれる。そして

「評価」から「差別」が芽を吹く・・・。


 差別が無くなることは無い。






2022年8月14日日曜日

自分をデザイン



 昨日、この夏初めてツクツクボウシの声を聞き、「お盆だ

な」と思った。

 一昨年とは違い、新しいものに取り換えたので、今年のお

盆は誰もいないのにインターホンが鳴ったりはしていない。

(一昨年の怪現象は、アリのいたずらだった・・・、たぶん

ね・・・。『お盆です』2020/8 参照


 今回はインターホンではなく、ただ音が鳴るだけのチャイ

ムを付けた。そもそも内の奥さんも私もインターホンで会話

をしない。「ピンポン」と鳴れば、直接玄関に出てゆく。小

さな家なのでその方が早い。ということで、今回はインター

ホンをやめてしまった。

 あらためて考えれば、インターホンなどというものは、玄

関まで行くのに時間がかかるような広い家や、治安が悪い地

域に必要なものであって、そもそも我が家には必要なかった

のだ。
 

 実は、今回インターホンをやめてみると、なにやら少しホ

ッとした。

 どうやら、インターホンがあるのに受話器を取って話をし

ないことに対して、心のどこかで「自分は正しい手順を無視

してる」という、小さな罪悪感のようなものを持っていたら

しい。HSP は難儀なものだ。そんなことまでストレスの元に

してしまう。アタマが悪い。


 習慣になっていたり、当たり前だと思ってやっていること

が、実はストレスの元になっているということは、当人が気

付かないだけで結構あるのだろう。

 「自分には、これが当然」と思って生きているけれど、そ

れはアタマがそう自己暗示をかけているだけで、身体のほう

は悲鳴を上げているのに、それは無い事にして生きている。

そういう人は気付かぬうちに病んでゆき、気付いた時には抜

き差しならない状態になっていたりするだろう。


 情報があふれかえり、「推奨される生き方の “手本” 」のよ

うなものを目の前に並べられ、それを選んで、それを「自

分」として生きたりしていると、場合によっては自分の性質

との間に大きな齟齬を生んでしまう。そして、病む。

 身体の病気になる。心の病気になる。外に向かえば、誰か

を傷付ける。犯罪者になる。

 自分自身に敬意を払わないことのツケは大きい。


 わたしたちは、自分のことをよく知らない。知ることはと

ても難しい。自分なのにつかみどころが無い。そこへ加え

て、さまざまな生き方を情報として見せられるので、目が外

へ向く。つかみどころのない曖昧な自分を、外から囲ってか

くしてしまい。それで安心する。それが現代なのではない

か?


 このごろ、筋トレで身体を作る芸能人がやたらと目に付

く。ジム通いをする人も多い。それと、タトゥーを入れる者

も増えている。そういった、外から自分を形作ろうとする行

為は、自分というものの曖昧さが不安だから、形を与えたい

のではないだろうか?
 

 自分の望む形に自分をデザインする。

 そうする前に、身体の声、心の深い所の声にも、耳を傾け

ているのだろうか?いないだろうな。



 ツクツクボウシは、今も昔も「ツクツクボウシ」と鳴い

て、ツクツクボウシであり続けている。

 「ヒグラシのようになりたい・・」

 そんなツクツクボウシはいないだろうと思う







2022年8月11日木曜日

一期一会



 鹿児島の小学校で、イチョウの老木の大きな枝が折れて落

ちて来て、草刈りをしていた校長先生が下敷きになり亡くな

るという事故があった。

 十数年前にも淡路島で、学校行事でそこに来ていた中学生

の上に、崖の上の松の木が折れて落ちて来て、やはり亡くな

ったという事があったと記憶している。

 どちらも大変不運なことで、家族は「なぜ・・」と思うば

かりだろう。


 次の瞬間、わたしたちの身の上に何が起こるか、誰も知ら

ない。


 二十年ほど前、仕事中に200Vに感電したことがある。両

手を電気が通り抜け、耳の中で「ブーン」と音がしていた。

機械の漏電が原因で、まったく予想外の事だった。

 あの時死んでいてもまったく不思議はなかったが、縁あっ

て今もこうして生きている。(たまたま、その翌日に電気保

安協会の人が来たので事情を話したら、「死ぬで!」と言わ

れた)

 そんな経験をした私が生きていて、今回の校長先生や淡路

島の中学生が無くなったことには、それぞれ個人の、生き方

だとか、徳だとかは何の関係も無い。さらに言えば、死んで

まったことが「悪いこと」で、死ななかったことが「良い

と」だとも、私には言えない。


 まったく予期しないことで命を失うことは不運だと思う。

気の毒に思う。無い方がいいと思う。けれど、起こってしま

ったことは戻せない。起こってしまうことを防げない。この

数時間以内に私が死ぬかもしれない。それがさだめなら、し

ようがない。わたしたちは自分の死に方を選べない。


 以前にNHKの番組で消防やレスキューの隊員にインタビュ

ーするものがあって、その中の一人が、「いつもは玄関で見

送ってくれる奥さんが、夫婦喧嘩をした翌日、送りに出て来

なかったことがあって、その時に “もしかしたら、出かけた

ら二度と返ってこないかもしれないような仕事なんだから、

腹が立っても見送りだけはしてくれ” と頼んだ」と言ってい

たのを憶えている。

 もしも、喧嘩して見送らず、本当に帰ってこなかったら、

奥さんは生涯自分を責めることになるのではないだろうか?


 一期一会である。

 人と人とだけではない、この世界と、瞬間ごとに一期一会

だ。


 いつ終わる人生なのか、誰も知らない。

 その時その時、すべての瞬間に誠心誠意だとか、ベストを

尽くすとかいう必要はないし、そんなことはできはしないけ

ど、その時その時、いまある世界を少し大切にするのなら

ば、次の瞬間命を終えても悔いは無いだろう。大切な人を無

くして、深い悲しみに打ちひしがれたとしても、そこには救

いがあるだろう。


 校長先生は一心に草刈りをしていたことだろう。

 淡路島の中学生は、友達と楽しんでいただろう。

 そうであったことを祈るが、そうでなかったとしても、一

つ一つの人生に価値の違いは無い。

 悔やんでも惜しんでも命は戻らない。そのような終わり方

をするさだめにあった、その人の人生を受け入れる。そうな

った時の自分の人生を受け入れる。

 一期一会。


 南無。




2022年8月8日月曜日

「物語」を終わらせて



 人は物語を求め続ける。

 これまでより良い物語。今よりも良い物語。満足できなか

った過去を埋め合わせ、さらなる満足を提供してくれる物

語。

 映画やドラマだけの話ではなく、実際の暮らしと人生のよ

り良い物語を求める。人はそういう生き物ですが、その性質

に合わせるべく登場するのが、政治家と商売人です。


 政治家は、次の映画の構想を語って資金を集めようとする

映画監督のようなものだし、商売人は、映画の予告編を見せ

て、できるだけ観客を取り込もうとするプロモーターみたい

なものですね。どちらにせよ、物語の断片を見せて、観衆が

「良さそうだ」と思うように仕向ける。

 映画と違い、実際の物語の出来がどうであろうが大して問

題ではない。公開後は、すぐ次の予告編が流されるので、観

衆はそれを見る。


 映画やドラマの場合なら、実際に本編を観終えることがで

きるけれど、政治や商売の場合、本編が気に入らなくて、多

くの観衆が文句を言いそうになる前に、次の予告が入って来

るので、観衆は、ずるずると次の予告を観て、希望のかけら

を求めてしまう・・・。本編が完結した試しが無い。もう

「サル痘」の話が出ているように・・・(こちらは不安を煽

って観衆を動かすタイプだけど)。

 陰謀論のようなことではなくて、政治や商売が、そもそも

そういう仕組みになっているということ。


 映画やドラマはフィクションだし、お楽しみだから別にい

いけれど、実社会を予告編のノリだけでつなげて、イイよう

にしようとする政治家や商売人に対しては、ブーイングが必

要ではないだろうか?

 「おい。一まず、完結させてから次に行けよ」と。

 そうしないと、評価がいい加減なまま先へ進んでしまうよ

ね。


 とはいうものの、そのような政治家や商売人のズルさが野

放しになっているのは、観衆の方に見る目が無いせいでもあ

るので、世の中は両者の共同作業で成り立っているのだろ

う。

 世の中がどのようであるかは、その世の中を構成する全員

の、総和ないし平均値、あるいは最大公約数の具体化した姿

だろうからね。


 世の中のことであれ、個人の人間関係や目的であれ、そこ

で進められる物語には終わりが書かれていない。だって、物

語が終わるとしたら「死」か「滅亡」に決まっているからね

(ハッピーエンドは、「ハッピーな場面で終える」ってこと

だからね)。なので、人々は予告編なりパイロット版だけを

見続け、その中途半端な物語の継ぎはぎを「世界」だと思っ

てる。何やってんの?


 映画やドラマや小説で物語が完結するのは、作者がそこで

終わらせるからであって、実際の世界では、何も完結するこ

とは無い。すべては継ぎ目なく繋がっている〈完璧な未完の

何か〉です。そこにアタマが物語を持ち込むから、何もかも

が中途半端で悩ましいものになってしまう。


 それが悩ましいものであるとしても、人間には物語が必要

です。けれど、大袈裟でバカバカしい物語はもうたくさん。

 世の中は、インストルメンタルのBGMが流れるぐらいで十

分。

 小賢しい詞や映像は、もうOFFにした方が良さそうだと思

う。


 「物語」は、もう終わらせよう。


 そんなこと、私だけが考えている物語なんだろうけれ

ど・・・。





2022年8月7日日曜日

占いと量子力学


 注  占い好きの方には、お勧めできない内容です



 昨日ブログを書いた後、種田山頭火のことをあらためてウ

ィキペディアで調べてたら、〈山頭火〉という号 は「納音

(なっちん)」だと書いてあった。


 「納音」というのが何か知らなかったので調べると、中国

やベトナムの占星術の一種で使われる、干支をもとに人のタ

イプを表すもので、30のタイプがあり、〈山頭火〉はその

一つだということらしい。


 「へぇ、そんなのがあるんだ」と思って自分の事を調べる

と、私は〈壁上土〉というものらしくて、思わず笑ってしま

った。

 というのも、以前『「スクルット」たちへ・・・』

(2018/2)という回などで、「私は社会に上手くなじめな

くて、社会の周縁の壁の上にいる」というようなことを書い

ていたので、「当たってるやん!」と思ってしまったから。


 詳しく見てみると、〈壁上土〉の「上」は、「壁の上」で

はなくて、「壁の表面」のことを指していて、要するに「壁

土」のことらしい。それなら〈壁土〉でよさそうなものだけ

ど、三文字で表すといった決まりでもあるのだろう。なにに

せよ、私は壁土のようなタイプということらしくて、やはり 

“ある場所” の端っこに居る存在のようだ。


 「面白いな」と思ったけども、私は占いに興味はない。占

いは役立たず、あるいは無意味だと思っているので、私は自

分の人生の指針として占いを取り入れるようなことはしな

い。占いを見たり、人とそういう話をしたとしても、暇つぶ

しや雑談のお付き合いというにとどまる。


 この「納音」のように、占いで自分の性格や運勢が言い当

てられてると感じることは、誰しも経験があるだろう。けれ

ども、それはアタマが自分から占いの内容に寄せて行ってし

まうから起こるとも考えられるので、当たっているのかどう

かは定かではない。


 人は誰しも雑多な性格が寄せ集まったもので、その中でと

くに目立つ部分を捉えて、「あの人はこういう性格」「わた

しはこんな性格」などというだけで、本当はそんな単純なも

のではない。

 例えば、ある人が〈 人間関係には神経質できっちりしてい

るが、物の扱いはルーズだ 〉という場合。「あなたは神経質

なタイプです」と言われれば、自分の人間関係の処し方を思

い浮かべて「当たってる」と思い。「あなたはルーズな人で

す」と言われれば、自分の物の扱いを振り返って「確かにル

ーズだ」と思う。そのように、自分から回答に寄せて行って

しまう。

 〈 家族に対しては頑固で我が強いけれど、会社や学校では

気が弱くて人に譲ってばかりいる 〉という、いわゆる “内弁

慶” なら、「あなたは気が強い」と言われれば家族との関係

を思い、「あなたは気が弱い」と言われれば会社の中の自分

を思って、どちらにせよ心当たりが有ることになる。

 そのような自己誘導は自分に起こる “出来事” の吟味の場合

でもかなりあり得るので、占いがどれだけ当たるのかは判然

としない。


 けれど、世の中には占いを人生の指針にする人もかなりい

る。占いを活用することで、望まない運命や良くない運命を

変えることができると考えるのですね。

 でも、それは私から見れば、「占いを活用することで運命

を変えようとする “運命” 」なんですね。その “運命” のこと

はどう思うのでしょう?

 「自分の人生に占いを取り入れる生き方」というさだめに

あって、そのさだめが進んでいるだけ。「占いで運命を変え

よう」としても、まだ起こっていないことが変えられたかど

うかは後になっても分からない。占わなかった場合と比べる

ことができないから。


 占いは当たらないとは言えない。私もそんなことは言わな

い。言う根拠が無い。占いが当たることもあるのでしょう。

でも、仮に占いが当たっていて人生が変えられたとしても、

「占いを活用することで運命が変えられたと思える “運命” 」

が展開しているだけだし、占わなかった方が満足できる運命

になっていた可能性もある。役に立っているのでしょうか?


 量子力学かなんかで、「観測者が観測するという行為で、

結果が変わってしまうので、純粋に観測することができな

い」なんて言いますね(言っていたと思う)。占いと同じで

す。



 未来を変えようとか作ろうとかしてもムダです。そもそ

も、未来は無いからです。


 無限に積み重なった過去の延長として、今が確定して行

く。そして、その確定した今が、次の今を確定して行

く・・・。

 わたしたちそれぞれは、確定した今を受け入れるのか? 受

け入れないのか? 

 悲しいかな嬉しいかな、それも確定している。

 確定している今に敬意を払い、尊ぶことができるなら、そ

れは嬉しく、しあわせな運命だと思いますが。


 やはり「どのようでも、良い」のでしょう。



 しかし、量子力学は占いだったんだなぁ・・・。


 (誰かに怒られそうだな)






2022年8月6日土曜日

どうしようもない



 種田山頭火の句に〈 どうしようもない わたしが歩いてい

る 〉というのがあるそうです。

 「わたしが歩いている(生きている)ことを、どうしよう

もない」という感慨を吐露したもののようですね。(そのま

まだね 笑)


 普通の感覚で受け取ると、「自己嫌悪」「あきらめ」「絶

望」といった感じですね。山頭火 自身にもそういう思いがあ

っただろうと思いますけど、それ以上に、自分というものが

「どうしようもなく生きている!」という「驚き」「感激」

「畏怖」が有ったのだろうと感じます。
 

 苦しい、悲しい、嬉しい・・、そういったものがないまぜ

になりながら、なぜだか自分というものがここに生きて歩い

ている・・・、その不可思議な深い感慨・・・。


 〈 どうしようもない わたしが歩いている 〉


 みんな、「どうしようもなく歩いている」というのが本当

のところでしょう。


 「いや、自分は目的を持って、自分を律して、自分の意志

で歩いている」なんて言う人もいるのでしょうが、そんなこ

と私は信用しませんね。みんな「どうしようもない」に決ま

っています。みんな、「気が付いた時には、どうしようもな

く生まれて、生きていた」はずですから、そこからどんな目

的を持とうが、自分をコントロールしようが、スタート時の

「どうしようもなく・・」は払拭できません。どんな意味付

けも後付けです。


 「どうしようもなく」生まれて、「どうしようもなく」生

きて、「どうしようもなく」死んで行くのがわたしたちの真

実です。

 「どうしようもない」というのは、言い換えれば「コント

ロールできない」ということですが、わたしたちは人生をコ

ントロールしようと必死です。“コントロールしようとするこ

と” 自体が、「どうしようもなく、コントロールしようとし

てしまう」結果だとは思いもせず、「自分がコントロールし

ている」つもりになります。

 本当に自分でコントロールできていれば、もう少し落ち着

いて暮らせそうなものですが、世の中を見渡してみて、そう

は思えませんね。「どうにかしよう」というのは、一時的、

表層的には意味もあるでしょうが、人生の本質においては骨

折り損でしょうね。

 「どうしようもない」のだから、どうにもしなくてよいの

ではないでしょうか?
 

 この頃思っています。「わたしたちが、しあわせの為にで

きることは何もない」と。


 しあわせは自然発生する。

 あるいは、放っておいたら表れて来る。

 「どうにかしよう」とすることが、かえってそれを妨げ

る。

 どうせ「どうしようもない」のだから、「どうもしな

い」。

 ただ、動かされ、生きさせられて行く。そして自分と世界

を観る。味わう。

 その時、その自分、その世界は「どうでもいい」ものにな

る。


 「どうでもいい」


 それは、なげやりでも自暴自棄でもニヒリズムでもなく、

「どのようでも、良い」ものに成り得るし、成るはずです。



 アタマが「どうにかしよう」とするのは、分別の中で「良

い悪い」をより分けるからですが、分別するから「良い悪

い」が生まれることをアタマはなかなか気付けない。分別を

やめれば、アタマは存在意義を無くしてしまいますから、そ

んなこと気付いてしまったら、自滅するようなものですから

ね。

 けれど、わたしたちはアタマの為に生きているのではあり

ません。アタマが気付く前からわたしたちは生きています。

それは誰でもご存じのことです。ですから「どうにかしよ

う」と出しゃばって骨を折るアタマには、「ちょっと、どい

てろ」と後ろに下がらせて、「どうしようもない」この自分

と、この世界を観てみる必要があります。

 そこには “「どのようでも、良い」自分と世界” 、が見て

れるはずだからです。そして、それが、しあわせだからで

す。だって「どのようでも、良い」のですからね。





2022年7月29日金曜日

死刑が生み出すもの・・



 十数年前に秋葉原で無差別殺傷事件を起こした男の死刑が

執行されたというニュースがあった。

 私は条件付きの死刑反対派(容認派だろうか?)だ。その

条件や、死刑に関する私の考えは、以前『なぜ人を殺しては

いけないか』(2017/3)という回で述べているので、気が向

けば見てもらえればなと思う。死刑に反対する人で、私のよ

うな理由を述べる人はまずいないだろうから、興味深いだろ

うと思うし、きっと「そう言われればそうだよなぁ」と感じ

てもらえると思うのでおすすめしておきます。で、この度の

ニュースをきっかけに、私の中から出て来る話を綴っていく

ことにしましょう。


 無差別殺傷事件や妄想に囚われての理解しがたい殺人事件

というのは、私の生きて来た間に起きたものでも、かなりの

件数になることだろうと思う。しばしば、そういう「異常」

が起きることは、少なくともこの半世紀程の日本では「通

常」だと言える。


 アメリカだとか、ましてや中南米だとかの殺人件数と比べ

れば、日本の「通常」は平和過ぎると言ってもよいぐらい

だ。ただ、それは出来事としてわたしたちが意識できる部分

の話であって、内面的な状況はまた別だろう。


 殺人がよく起こる国に住んでいれば、それなりの精神的な

負担があり、穏やかな気持ちを持つことは難しくなるだろ

う。一方で、殺人があまり起こらない国に住む人に精神的負

担が少ないかと言えば一概にそうとも言えないと思う。「殺

人があまり起こらない社会を維持するための負担」というも

のが有るだろうから、そこでもやはり、穏やかさを保つのは

難しいだろう。日本で、自殺や過労死や引きこもりなどが多

いのはそれを物語っているように思う。


 「殺人がよく起こることの精神的負担」と「殺人があまり

起こらないようにする精神的負担」が、同じだけの重さを持

つかどうかは分からないけれど、どちらにせよその負担は、

個人からその社会へ、社会からまた個人へと還流して行くは

ずだ。人の意識のエネルギーにも、熱力学の法則は適用でき

るだろうと私は考える。どのようなものであれ、エネルギー

の総量は変わらず、この世界を巡り続けて行くのだ。


 どのような社会でも、そこを循環するエネルギーには「解

放的エネルギー」と「抑圧的エネルギー」が有るだろう。

 社会の表層で、人のポジティブで発散的なエネルギーを受

け取って行く流れと、社会の暗部で人のネガティブに停滞し

たエネルギーを受け取って行く流れとがあるだろう。

 社会の表層の流れは、スポーツやエンターテインメントや

ビジネスの場に流れ込み、それぞれの場所でヒーローやアイ

ドルを生みだしたりする。一方で、暗部の流れは、今回死刑

に処されたような人間や、自殺者を生んで行く・・・。

 それは程度の違いはあるとしても、どんな社会でも避けら

れないことだろうと思う。わたしたちのアタマの総和である 

“社会” というものは、当然ながら、アタマの性質を反映して

しまうから。


 どんな人でも、自分を誇らしく頼もしく感じることが有る

だろうし、逆に自分を情けなく頼りなく感じたり、「死にた

い」とか「あいつを殺してやりたい」と思ってしまうことが

有るだろう。

 そのようなポジティブな思考・感情やネガティブな衝動

を、社会のエネルギーの流れが受け取りながら濃縮してゆ

き、それが閾値を迎えた時、そのタイミングでそこに居た人

間を通して、そのエネルギーは社会に溢れ出す。ヒーローが

誕生したり、むごたらしい事件を起こすものが現われた

り・・・。


 今回の死刑執行に具体的に関わった人たち、特に、執行し

た刑務官の精神的負担はどれほどだろう。その人たちにもた

らされた「抑圧的エネルギー」は、社会へ還流して行き、あ

らたな無差別殺人を生み出す “負のエネルギー” の一部になる

かもしれない・・・。
 

 物理的なものであれ、精神的なものであれ、わたしたち人

間は、この世界のエネルギーの循環を止めることはできな

い。流れを変えることはできるかもしれないが、そのエネル

ギーが行き着く先で、何が起こるかを知ることは出来はしな

いし、かえって大きな災いを生むかもしれない。


 遠くない将来に、不可解で痛ましい事件のニュースがまた

流れることだろう。自ら命を絶った人のニュースを目にする

ことだろう。が、“それ” を引き起こす力の一部が、“それ” 

を忌み嫌うことで生まれているのだとしたら?


 裁くこと、評価することの先に何が生まれるのか?

 残念ながら、そこに目を向ける人は多くはない。


 今回の死刑執行にあたった刑務官の嘆き苦しみを聞いてく

れる人はいるのだろうか?

 ご縁があるのなら、私は聞いてあげたいと思う。本気

で・・・。