2023年3月18日土曜日

大人たちよ、おめでとう!



 何年か前から、男子高校生の元気が無いように見える。特

に、電車の中の男子高校生を見ていると、まるでサラリーマ

ンのように見える。制服がほとんどブレザーになったことも

あるかもしれないが、とにかく元気が無い。肌にツヤが無

い。女子高生はまだ元気があるけどねぇ。

 そんなことを思いながら日々を過ごしていたら、電車の中

でこういう広告を見た。




 これは中学校・高校向けの「校務支援システム」の広告と

いうことで、中に書いてあるように、写真はその概略イメー

ジだそうだ。既に多くの学校で採用されているそうだが、こ

れを見て、「そりゃ、男の子たちの元気がないはずだ」と私

は苦笑いをした。

 「管理」という文字がいくつあるか数えてみてもらいた

い。こんなに管理されてちゃ、元気の出しようがない。


 「いや、生徒を管理しているんじゃなくて、生徒の情報を

管理するんだ」と、この会社と学校側は言うだろう。けれ

ど、それはワンクッション置いてるだけで、同じことだろ

う。


 このイメージ図は良くできていて、「個人カルテ」と書い

てあるところから伸びた赤枠が「生徒」を囲ってあって、あ

る “枠” の中に収まる人間になるようにしたいというのがと

もビジュアルに示してある。そして「カルテ」という言

も、生徒の「社会性から外れた部分」や、「求められる社

的能力が足りない」といった “症状” を改善する為という理

念が現われているのがよく分かる。「子供らしい」とか「若

者らしい」というのは、病気なのだろう。病人扱いなんだか

ら、元気にしてられないわなぁ・・・。


 男の子というのは女の子に比べて、やはりある程度の暴力

性を持っている(エネルギーが余ってしまい、その発露を求

める)のが普通なので、管理が厳しいと、女の子以上に鬱屈

してしまうのだろう。もちろん暴力的でいいというわけでは

ないし、教育というものはそれぞれの社会に適応できるよう

な人間にすることがそもそもの目的なので、管理するのは当

然でもある。ただ、今は、やり過ぎなんだろう。ようするに 

遊びが無い。ぎちぎちに囲われてしまっている。


 遊びが無いといえば、いまの若い子の “遊び” を見ている

と、果たしてそれを「遊び」と言えるのかとも思う。

 用意された遊び。教えられた遊び。容認された遊び。推奨

された遊び・・・。スポーツ・ダンス・バンド・ゲーム・マ

ンガ・・・。昔はバンドやダンスに興じている奴は「不良」

と言われた。マンガやゲームに夢中な子供は「バカで怠け

者」のように扱われた。それがいまやダンスは授業に組み込

まれ、部活に軽音やマンガ部が有り、スノーボードもスケボ

ーもオリンピック種目で、さらには e - ゲームがオリンピッ

ク種目に入れられようとしている。あらゆる “遊び” が社会の

管理下に組み込まれ、ルールや運営方針が定められていて、

そこには自由が無い。


 自転車の二人乗りもできず、道にチョークで絵を描いたら

近所から苦情を言われ、キャッチボールをしていたら「公園

でやれ!」と言われ、小学生が塀の上を歩いたら注意され、

冒険心をそそられる場所はフェンスに囲われて「立入禁

止」・・・、遊べないね。

 そして、学校では管理されまくるし、教師も親も他に何を

言えばいいのか知らないので、ふたこと目には「勉強しろ」

とか「夢や目的を持て」などと言う。

 子供たちは目的志向を植え付けられ、その為に管理され

る。「遊び」はどこへ消えた?


 先日見たニュースでは、生命保険会社のアンケートで、小

中高校生の “なりたい職業” の 1 位は「会社員」だったそう

だ。

 見事に「子供らしさ」という “子供の病” と、「遊び」とい

症状は克服された。これで安心安全だろう。

 大人たちよ、めでとう!




2023年3月9日木曜日

「アタマは世界の部品」に過ぎない



 アタマが悪い。アタマは悪さをする。なぜアタマが悪さを

するかというと、勝手に「自分(アタマ)が、この身体や暮

らしの主人である」と思っているせいだ。


 「こうしなければならない」「ああしなければいけない」

「こうあるべきだ」などと、常に自分のからだや暮らしを評

価してコントロールしようとする(もちろん、他人をコント

ロールしようとするのは言うまでもない)。「こんなことを

考えてはいけない」などと、自分のアタマの活動まで、自分

のアタマ自身が批判して変えようとするけれど、いったい、

その評価、批判、改善の根拠はどこにあるのか?自分のアタ

マの中ではないのか? まず、自分のアタマを疑ってみた方が

良さそうだけど、そのアタマを疑うのもアタマなのでどうに

もならない。

 そのように確たる根拠も無いままに「主人」であろうとす

るのだから、しょっちゅうトラブルを起こすのは当然だ。ま

ったく困ったものである。アタマは「主人」ではない。


 「中枢は末梢の奴隷」

 これは養老孟司先生が『唯脳論』などの著書の中で度々言

っておられる言葉だけど、養老先生のオリジナルなのか、他

の人の引用なのかは知らない。それはともかく、簡単に言え

ば「頭は身体の奴隷」ということだ。さらに言えば、「頭は

世界の奴隷」だと言える。


 現代人は、過剰にアタマ優先で生きているので、世界も自

分も、アタマの都合に合わなければ気に入らない。要するに

「異常(おか)しい」と言う。自分が「主人」だと思ってい

るのだ。脳が身体をコントロールしていると思っていたりす

るし、意識が世界をコントロールしようとするけれど、もち

ろんそれはアタマの驕りだ。優しく言うなら勘違い。


 脳のやっていることは、五感で捉えた外界からの刺激に対

処することと、身体の中から送られてくる要求に対応するこ

とであって、脳の側から身体に命令したりできるのは、「手

を上げろ」みたいなことぐらいしかない。その命令さえ、な

んらかの要求に応える為に出されるというのが実情だ。そし

て、アタマという思考のシステムも、からだと世界の状況に

よって動かされているに過ぎない。「主人」どころの話では

ない。

 アタマのやっていることを考えたら、まるで入社したての

事務員が会社の経営に口を出すようなもので、「お前、何が

分かってんの?」という感じだね。


 「アタマは世界の部品」に過ぎないのだ。世界どころか、

自分をコントロールする能力も器量も無い。動き続け、変化

し続ける世界の中で、他のすべてのものと同様に動かされて

いるに過ぎないのに、何を勘違いするのか「自分がコントロ

ールする」と考える。そして「コントロールが効かない!」

と苦悩する。バカである。なので「アタマが悪い」というこ

とになる。


 そういうアタマのバカさ加減を諫める為に、仏教では「縁

起」ということを説く。「世界のすべてのことは、どれもこ

れも関係性の一つの現われでしかない」と。それ独自で存在

するものも、他の何かを統御する存在も無いのだと。


 タオ(老荘)では「無為自然」と言う。「(人に)為せる

ことは無い。おのずからそうなる(自然)」と。


 イエスも言っている。「野のユリがどうして育つのか、よ

くわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。(中略)

だから『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着よう

か』と言って、思い悩むな」と。


 アタマはいらないことを考えるばかり。そして先に書いた

ように、コントロールできないのにコントロールしようとし

て「コントロールできない!」と泣く・・・。

 それは人間の業なので仕方がないことではあるけれど、

「思い通りにしようとして、思い通りにできずに、思い通り

にならないと泣くことも、それが〈自分〉という部品として

の在り方なら、それでいいのだな(笑)、と思ったら?」

と、2000年以上前から賢者たちが教えてくれているのだ

が、残念ながらアタマがしでかす「悪さ」はエスカレートす

るばかり・・・。

 自分の分をわきまえれば、楽になれるのに・・・。






 
  

2023年2月25日土曜日

平和のために



 ロシアがウクライナに攻め込んでから一年になるそうだ。

「核戦争の懸念」みたいなことを報道して、人を不安がらせ

ようとしている人間もいて、それで不安になってる人もいる

んだろうね。

 もし本当に核戦争になって、世界中が巻き込まれて自分が

死ぬことになっても、人類が滅ぶことになったとしても、人

はみんな死ぬんだし、いつかは知れないけど人類も滅ぶ時は

必ず来るんだから、「ああそうですか」と思っていてもいい

わけです。


 戦争に巻き込まれて自分が死ぬかも・・・とか、核戦争で

人類が滅びるかも・・・とか考えて不安になるのは、心のど

こかで「自分」というものが永遠に続くような意識を持って

いるからですね。

 「100歳まで生きられたとしたら上等だし」とか、「人

類はあと10万年ぐらいは存続できるかなぁ・・」とか考え

るような人なら、近いうちに自分が死んでも、近い将来に人

類が滅びるとしても、「自分の想定より早いけど、そうなの

かぁ・・・。ちょっと残念😢」ぐらいの受け止め方をするん

じゃないでしょうか?


 自意識や人類意識(人類という大きなイメージ)というも

のを強く持っていて、それがいずれは自然の摂理によって消

えるものだと理解していない人は、世の中が不安を煽ってく

ると、必要以上に恐れる。この戦争もコロナにしても、物価

の上昇にしてもエネルギー不足にしても・・・。エゴが強い

んですよ。そういう人は。

 「どうせ誰でも死ぬんだよ。ちょっと早いか遅いかだけの

話」。そんな風に思っている人はけっこう気楽なもんです。

そして、みんながそうなら世の中は平和でしょう。人が争っ

たり、いらない事をする根本の理由は「不安」と「恐れ」な

だから。


 ロシアが侵攻してからもう一年。私のような年齢の人間に

したら、一年なんて本当に「あっ」という間です。戦争が拡

大して巻き込まれなくても、「あっ」という間に月日は流れ

て、気がついたら私は死んでるでしょう。まぁ、戦争が拡大

して本当に日本が巻き込まれたら、若い人は気の毒だけど、

なぁに、すぐに歳を取るんですよ。それは歳を取ればわかる

ことだけど、人生は「あっ」という間ですよ。

 何かをして、何かがあって、そのたび大事にして、良いこ

とはうぬぼれたり、悪いことは大変だとうろたえたりするけ

れど、過ぎてしまえば「さほどの事も無かったな・・」と思

うんですよ。そう思えないのなら、その人はかなりのエゴイ

ストなんですよ。

 結局のところ生きて死ぬだけで、その間のことは「お話

し」に過ぎないんだから、気楽にしてるに越したことはな

い。深刻に受け取るから、物事が却って本当に深刻になって

しまうのがこの世の中です。


 前に《 社会は安らぎを嫌う 》と書いたことがありますが

(2022/6)社会は常に、わたしたちを不安にさせるような

「お話し」を語るのです。人々に動いてもらう為にね。そし

て、人がそれで動かされてしまうのは、さっき書いたように

「自分」の永遠性の意識を漠然と持っているからなんです

ね。そして、やはりさっき書いたようにそういう人ほどエゴ

が強いので、そういう人たちが動くのだからエゴとエゴが衝

突する・・・。世の中の平和が乱れるわけです。そして、世

の中に本当に「深刻」と言えるような事が起きてしまう。今

回の戦争もそうです。


 常識的には「不謹慎だ!」と誹られることでしょうけど、

「どうせみんないずれは死ぬんだよね😅」と、できるだけ多

くの人が、気楽に思うことが平和への道です。それも唯一

の。


 《 社会は安らぎを嫌う 》


 それは、言葉を代えれば《 社会は平和を嫌う 》ということ

です。歴史を振り返れば歴然としていますよ。社会の語る

「お話し」を真に受けていては、平和など人類が滅びるまで

生まれません。

 みんな生きて死ぬだけです。気楽にしているのが理にかな

っていると思います。人間以外の生き物はみんなそうしてい

るようですよ。





2023年2月24日金曜日

無意味の意味



 「無意味の意味」。なにやら意味深な感じのするタイトル

だと思いますけど、ハッキリ言って、あざとい。いやらしい

ねらいがありそうですが、まぁそうです。何をねらっている

のかはおいおいあきらかになるでしょう。


 このブログでは、矛盾した言葉の使い方をよくします。

「有るけど無い。無いけど有る」とか「一にして全。全にし

て一」とかいうような感じのことですね。

 また、以前書いたことと逆のことを書いている場合もある

でしょう。「どっちなんだ。話が違う」と思われかねないの

ですが、そんなこと私はどっちでもいいと思っているので、

その時々の目的が果たせれば整合性が無くてもいいのです。

言葉にできないことを伝えようとしているので、それが伝わ

る可能性を探っていると、言葉という道具はその場しのぎの

用が足りればそれでいい。矛盾しようが、その時々に言うこ

とが変わろうが、その時の話の流れに適切ならば OK だと思

っています。


 言葉というものは道具です。普通「考え」を組み立て、

「考え」を伝える道具として使われます。けれど、言葉を使

う究極の目的は、「考えられないこと」を考え、「伝えられ

ないこと」を伝えることだと思います。言い換えると「意味

を使って無意味を感じ取り」、「意味を使って無意味を感じ

取ってもらう」ことです。たとえば、こういう詩がありま

す。


  rose is a rose is a rose is a rose

    ~ バラは バラは バラは バラ ~


 ガートルード・スタインが書いた、世界で最も有名な詩の

一節ともいわれる言葉ですが、この言葉はそれ自体なにも意

味していません。無意味です。ですが、ある程度、感性的な

部分を大事にする人なら、この言葉にふれると何かしら引き

込まれるような想いを持つのではないでしょうか。意味付け

できない “何か” へと。


 形容していない、評価していない、説明もない。いや、読

む人、聞く人に、形容させまい、評価させまい、説明させま

いとしている。そして、ただ「バラ」が目の前に差し出され

ている。意味付けしなくても、意味付けできなくても「

」は存在していることを示している。意味に納まらない価

値とでもいうようなものを伝えようとしている。(こういう

説明というか意味付け自体が無粋ではありますが)


 人間の世界の中の「無意味」は、それこそただの「ナンセ

ンス」だけれど、人間の理解の枠組みに入れられない「無意

味」は「⁉」とでも表すべきでしょうか。それは「ナンセン

ス」ではない。


 意味の外にあるもの、意味が作られる前からあるもの。そ

ういうものが在ることを、わたしたちのアタマはすぐに忘れ

てしまう。いや、無視しようとする。そして、意味の世界に

引きこもって安心を得ようとするけれど、その目的は永遠に

果たせない。どんなに自分の前に繋ぎ合わせた意味を並べて

も、意味付けできない世界が視界の端に見えてしまう。


 「現にそれ(意味付けできない世界)は在るし、隠しきれ

ないんだから、しっかりと目を向けたらどう?」スタインは

そう言っている。そして、それが言葉にならないほど豊かで

美しい世界であることを言うために、「バラ」を差し出して

いる。


 意味付けできない世界は、意味を使わずに受け取るしかな

いけれど、意味(言葉)を使うことで、逆に意味の外へ目を

向けることができる。意味の外の世界に足を踏み入れること

ができる。その為に言葉を使わないのならば、言葉を手に入

れた値打ちが無いだろうと思う。


 言葉に囚われ、言葉に振り回されることから卒業すること

は、人として生まれた甲斐のあることではないでしょうか?




 

2023年2月14日火曜日

正体不明



 小松原織香さんの話をきっかけに、私のあたまに浮かんで

来た言葉から始めるブログは、今回で終わり。

 「試練」「たまたまそうだった」「できることはない」と

続けて、最後は「正体不明」。何が「正体不明」なのかとい

うと、わたしたちひとりひとりのことです。

  「正体不明」とは、本当の姿が分からないということだと

しておいていいでしょう。ということで、わたしたちひとり

ひとりの本当の姿は分からないということを、これから私は

書こうとしています。


 そもそも「正体」とはなんでしょうか?

 「正体」というものは普段隠されているものですから、普

段わたしたちがお互いに見せている姿は「世を忍ぶ仮の姿」

ということになります。

 「いやいや、そんな怪盗やヒーローみたいに世を忍んでい

る人間なんてそんなにいないよ」、と思われるかもしれませ

んが、人は多かれ少なかれ世を忍んでいます。

 他人には言えないことを誰でも抱えていることでしょう

し、まわりに合わせてそのときどきに、自分のさまざまな面

を出さないようにもしているでしょう。世を忍んでいるわけ

です。

 そのようにしながら世の中に見せているのは、社会的な

「仮の姿」と言えるでしょう。そして、世の中に見せていな

い部分が「正体」ということですね。ということで、世の中

からはその人の「正体」は見えないので「正体不明」という

ことになる・・・・、このひねくれたブログが、そんな簡単

な話に落ち着くわけがありませんね。話はここからです。そ

の「正体」が当の本人にさえ「不明」だということを言いた

いのです。


 「正体」にしろ社会的な「仮の姿」にしろ、それは世の中

に対応した「お話し」であって、実体はありません。どちら

も「役割の姿」とでもいうようなものです。

 ○○家の一員。Aさんの友達。B 君の彼女。✕✕社の社員。

△△校の生徒・・・などなど、さまざまな役割の中で持たれ

ているイメージ(その人についての「お話し」)が、世の中

に見せている “その人” の「仮の姿」で、“その人” が自分自

身について持っているイメージ(自分についての「お話

し」)が「正体」ということになるのですが、どちらにせよ

「お話し」なのです。


 例えば、○○家の長男というようなことは確固としたこと

のように思えますけど、もし事故や病気で記憶を失ったりす

れば、身体はそのままでも、自分がそれであることなど消え

てしまいますね。そのことは、自分のセルフイメージは「お

話し」だということを如実に表しています。そして、「仮の

姿」の方の役割などはどんどん変わってしまうものですか

ら、もとより確固としたものであるはずがない。有名人が不

祥事を起こすと、一夜にして人の見る目が変わってしまうの

はお馴染みのことです。

 そのように「正体」も「仮の姿」も実体は無い。「正体不

明」なのがわたしたちの真実です。わたしたちは自分や他人

の「正体不明さ」が不安なので、アタマで自分や他人の「お

話し」を組み立てて、一応の安心をするのです。



 なので、自分が「正体不明」だということは、一見、寄る

辺の無い、不安なことのようにも思えます。けれど、実はと

ても自由なことです。自分の本質は何にも規定されず、何に

も縛られていないということだからです。


 小松原織香さんは、性暴力の被害を受けて傷つき、苦し

み、今はそのことからの直接的な痛みは無いとしても、その

出来事が現在も小松原さんの人生を方向付けている。

 けれど、小松原さんの身体的には、もうその出来事は残っ

ていない。仮に何かケガの痕があったとしても、自転車で転

んで出来た傷と変わらない(あくまでも、身体的な面につい

ての話ですよ。「たいしたことじゃないだろう」なんて言っ

ているわけではない)。出来事が小松原さんに影響を与える

力を持っているのは、小松原さんのアタマの中に食い込んで

いる、その出来事の「お話し」です。

 わたしたちの、「お話し」を作り、それを持ち続けようと

する在り方が、痛い出来事がもたらした苦しみを抱え込み続

けるように働いてしまい、人は苦しみ続けなければならなく

なる。


 「だから、そんなお話し忘れてしまえばいい」などと言い

たいのではないのです。そんなこと忘れられるはずがありま

せん。

 他人から勝手なイメージを張り付けられてしまうことから

も逃れられないし、自分の持つセルフイメージに自分自身が

縛られてしまうことも防げません。それで困ったり苦しんだ

りすることからも逃げられない。けれど、自分は「正体不

明」だという認識があれば、それは救いになるはずなので

す。自分が背負わされている「お話し」から一歩退いて、自

由になれるはずなのです。「正体不明」という “自分の正体" 

に意識を置けば、たとえわずかでも、ほんのひと時であると

しても、「本当は、自分は自由で安らいでいるんだ」という

ことに気付けるのです。


 痛い出来事は誰の身にも起こる。みんな、そんなことは避

けたい。出会いたくない。けれど、避けることはできない。

 その痛さや重さは人それぞれその時々に違うけれど、それ

は他の人と比べられるものではない。他の人が意に介さない

事が自分には酷く苦しかったり、その逆もあって、それぞれ

痛い出来事に苦しめられる。けれど、その痛い出来事が人

生を決定付ける大きな要素でもある。

 痛い出来事に悪戦苦闘するのが生きるということで、その

姿が人生だと言ってもいいのかもしれない。イヤでもそれを

生きるしかない。けれど、それはやっぱり「お話し」なんだ

と気付いていたい。


 痛い出来事の暴力性も、自分が「正体不明」だったらその

力は届いてこない。

 世の中からも、世の中と関わる自分からも気付かれない

「正体不明」の自分が自分の中に在る。悪戦苦闘にほとほと

疲れた時、その中に正体を暗ましてしまおう。世の中と自分

を煙に巻いて・・・。


 最後に、考えるヒントをいくつも引き出してくれた小松原

さんに感謝を・・・。
 


 

2023年2月13日月曜日

できることは無い



 前回の終わりの方で「自分にできることは何も無い」と書

いたけれど、本当に何もできないのだろうか?・・・・・・

考えてみたけど、やっぱり何もできないだろう。 


 わたしたちの意識は出来事の後追いでしか機能できないの

で、何をしても、何かをしたつもりでいても、その意志は後

付けにならざるを得ないし、その意志自体も意識の中で起こ

る出来事であって、自分が意志を起こしているのではない。

ということで、やっぱりわたしたちに「自分でできるこ

とは何も無い」。


 “自分” というものには、意識の表面にある〈自分〉と、意

識の奥の方にある〔自分〕がある。それは別の “自分” かもし

れないし、エゴが二層に分かれているだけかもしれない。あ

るいは、一つのエゴが、意識の瞬間ごとに〈自分〉と〔自

分〕を入れ替えながら、別の “自分” として振る舞っているだ

けかもしれない。そのあたりは、どうも判然としない。私の

感覚的には答えがでないのです。

 私の希望としては、意識の奥にある〔自分〕が、エゴの目

くらましのようなものではなく、この世界と〈自分〉を観て

いる “何か” であって欲しいところです。もしそうなら、私の

物語に決着が付くからです。「ああ、〔自分〕は世界を懐に

抱いている “それ” なんだ」と。


 けれど、そんな決着は付きません。多分、そう思ってしま

った瞬間に、そこにはエゴが滑り込んで、意識の表面で自意

を満足させることでしょう。


 自分が自分をしているかぎり、この世界の本質を捉えるこ

とはできません。それを捉えようとすることもエゴの働きな

ので、エゴがコントロールしようとするし、捉えようとする

こと自体が間違ってもいる。それは掴めば逃すものであり、

放せばそこにあるものだからです。だから「放てば手に満て

り」(正法眼蔵・弁道話)という言葉がある。

 なぜこういうことを確信があるような言い方ができるかと

いうと、確信が有るからです。一度、知ってしまったからで

す。それ以来、この “自分” から解放されて “それ” に戻りた

いと願い続けてきたのが私の人生のように思います。

 このブログを書き始めたのもそのプロセスの一部でしょう

けど、結果としては有意義なものになったようです。このよ

うに「自分にできることは何も無い」というような思いを、

ハッキリと持つことができるようになったということは、か

なり “自分” から解放されてきたということですから。


 こんな話を読んでいれば、「そんなに自分を嫌がって何に

なるの?」と思う人もいることでしょうけど、そういう人に

は、こう尋ねてみたい。

 「いままで、“自分” があなたに何をしてくれましたか?」

と。

 あなたにとって、“自分” というものは決してイイ奴ではな

かったのではないですか?

 “自分(アタマ)” は悪さをするのです。

 何もできないのに、何かができると粋がって、余計なこと

ばかりをしてあなたの世界を引っ掻き回す・・・。


 「自分にできることは何も無い」

 そうつぶやく時、私の世界は、その分だけ静かになるんで

す。私にはそれが大事なんです。その静かさが “それ” だか

ら。
 

 


2023年2月12日日曜日

たまたまそうだった



 前回からの続きです。(シリーズかな?)

 これまでも何度か書いたことがあるけれど、私は必然論者

です。この世界のすべては必然的に「そうなるようになって

いる」「なるべくしてなっている」と思っているわけです。

そう思わざるを得ないので、そう思っているわけですね。

 運命論とは少しニュアンスが違って、「すべては決まって

いる」というような、シナリオがあるというような感覚では

ない。運命論にはなにか大仰なものを感じるし、運命論を語

る人は物語的なこだわりを持っているように思うので違和感

がある。なので、必然論者という方が私はしっくりくるので

す。


 不運だと思うことも、幸運だと思うことも、たまたまそう

なるだけで、そこに意味もシナリオも無い。それをわたした

ちがどう受け取るかということも、そのときどきにたまたま

そうなるだけで、そうなるべくしてなっている。身も蓋も無

いけれど、私はそう思っている。いや、そう思わされてい

る。


 「そんな考え方をして虚しくないのか」とか言われたとし

ても、そう思ってしまうのだから仕方がない。そうなってい

る。私が何を考えようと、何をしようと、私のせいじゃな

い。

 無責任な話ですよね。でも、それと同時に、他の誰が何を

考えようと、何をしようと、それはその人のせいじゃないと

も思っている。それも、たまたまそうなるだけだと・・・。


 誰かが私を酷い目に合わせたら、当然ハラが立ったりす

る。けれど、それはたまたまそうなったので、その人のせい

じゃないと思う。それでひと時私が不愉快になっても、それ

もたまたまそうなるだけで、私のせいでもない。

 さまざまな事が私の身に起こる。さまざまな事を私が起こ

す。同様に、すべての人もさまざまな事を経験し、さまざま

な事をする。それらはすべてわたしたちのせいじゃない。風

で木が揺れるようなものだと思う。

 地球上のエネルギーが大気を動かし、その動きで木が揺れ

るように、この世界のエネルギーの動きが、内から外から、

物理的にも精神的にもわたしたちを動かしている。


 起こる事は起こる。起こらない事は起こらない。

 当たり前のことを言っているはずだと思うけど、普通、人

はなかなかそうは思わない。

 「なんでこんなことになった?」

 「なんで思うようにいかない?」

 人はすぐにそういう風に思うものですが、それは要する

に、自分のアタマの都合に合わないと言っているだけです

ね。アタマが自分の都合を持ち出さなければ、「すべてはな

ようになっているだけだ」と受け取れるはずです。


 困る事が起きれば、そりゃぁ確かに困る。誰も困る事は望

まない。けれど、そんな自分の都合は世界には関係ない。起

こる事はしようがない。困る時は困ればいい。困るしかしよ

うがない。そのとき困る事が、そのときの自分の命の在り方

なので・・・。


 苦しむことも、楽しむことも、どんなことも、たまたまそ

うなるだけです。そもそも自分がいま存在しているのもたま

たまだし、この宇宙が存在しているのも、たまたまでしょう

し・・・。
 

 自分の身に起きる事や自分がすることに対して、自分の価

値とか自分の能力がどうだとか、徳を積んだかどうかという

ようなことを考えがちですけど、自分の価値や能力や徳のよ

うなものも、自分の身に起きていることに過ぎません。わた

したちが思っているような意味での「自分にできること」は

何も無い。そう感じられるのならば、無責任で気楽なもので

す。

 苦しみながら、喜びながら、右往左往七転八倒しながら、

心の中心では気楽なものです。

 自分も世界もなにもかも、「たまたまそうなっているだけ

のお話しなんだ」と。