2023年6月22日木曜日

断・捨離



 〈 より少なく所有する者は、より少なく支配される 〉

                       ニーチェ


 断捨離が流行るのは、「支配されている」という感覚を無

意識に感じている人が多いからかもしれない。金に支配さ

れ、仕事に支配され、人間関係に支配され・・・、要するに

社会に支配されていると。


 一つの物を捨てれば、それに付随する社会のしがらみか

ら、一つ分自由になれる。「しがらみ」というのは、その物

に関わる一つの物語。

 自分のアタマの中にあるその物語を、物ともども放棄する

ことで、心のスペースもその分だけ広くなる。

 一つ捨て、二つ捨て、さらにさらに捨てて行けば、心のス

ペースはどんどん広がって行く・・・という風には、残念な

がらならないだろう。


 心の中には、常に思考と感情と衝動が満ちていて、そこか

ら何かを取り除いても、すぐに別の思考や情動がその場所を

埋めてしまう。その心の働きを止めることはできないだろ

う。断捨離をすれば物質的なスペースはもちろん広がるけれ

ど、心のスペースを広げることはできない。けれど、同じ大

きさの風船とボーリングの球では、占める空間は同じでも重

さはまったく違う。その意味で、重たい物語や強硬な物語を

まとった物を捨て、軽い物語や柔らかな物語に関する物に取

り換えるのは、心の健康に良いだろう。


 と、そんなことを書いてはみるが、私は断捨離について詳

しく知らない。その手の本を読んだりしたことがないので、

なんとなく「こういうことだろう」と思っているだけです

が、現代人にとっては良いことだろうと思っている。その断

捨離に対する私の立ち位置を踏まえてもらった上で、今回の

タイトル『断・捨離』の解説を始めましょう。


 『断・捨離』。「捨離」を「断つ」という意味合いです。

「“捨て、離れる” という意識も断ってしまえばどうでしょう

か?」 と・・・。


 断捨離は心の健康に良い。それは間違いないと思う。けれ

ど「断捨離しよう」という意識は、断捨離が進まない場合に

自己嫌悪や焦燥感を生みかねない。断捨離に囚われてしまっ

ては、断捨離自体が重くなってしまう。なので「捨離」を

「断つ」。「捨離」にこだわってしまわないようにする。

「できればいいけど、できなくても、まぁいいじゃん」とい

うスタンスでいること(断捨離関係の本を読んだら、たぶん

そういうことも書いてあるような気がする。知らんけど)。

 人は手段と目的を取り違えることが得意なので、きっと、

世の中には「断捨離信仰」みたいな意識になっている人が結

構いるだろうね。そういう人は、物や、それにまつわる物語

を捨てながら、断捨離という義務を背負いこんでしまってい

るだろう。それじゃぁつまらない。


 捨てても捨てられなくても、それはそういう “なりゆき” が

現われているのであって、自分のせいではない。捨てる自分

を楽しみ、捨てられない自分を愛おしむ。

 執着からも、執着からの解放も意に介さない。そういう場

所が自分の中にあることに気付いていること。


 心のスペースを広げることはできない。けれど、普通意識

している心のスペースの外には、無限の意識の空間が広がっ

ている。それに気付けば、その瞬間、意識の中心はそこにあ

る。そこは何も無いので、なんの重さも圧迫も無い。たとえ

表面上の意識がどこかに閉じ込められ、何かに押しつぶされ

そうになっていても。


 断捨離は良いことだ。けれど、それにこだわって囚われて

しまえば、骨折り損だろう。

 アタマは物事を複雑にするのが大好きだ。おかげで人はい

らぬ苦労をする羽目になる。命というものは単純なものなの

にね。だって、基本的には生きてるだけなんだから。


 〈 より少なく所有する者は、より少なく支配される 〉とい

う言葉をちょっと作り変えてみようと思ってたんだけど、話

が長くなったので、この次に・・・




2023年6月17日土曜日

無完成



 「次回はスズメバチのお話しをしよう」などと前回の最後

に書いてしまったので、今回は行きがかり上、スズメバチの

話を始めよう。さて、どんな話になるのやら・・・。



左の写真が今回取ったスズメバ

チの巣。出て来たハチがオオス

ズメバチに見えたので、オオス

ズメバチの巣だと思ったけれ

ど、考えてみればオオスズメバ

チは地中に巣を作る。あらため

て調べると、形状と営巣場所か

ら、これはコガタスズメバチの

ものらしい。長さは15cm程度。

細い管状のところが入口で、

下向きになっている。雨やゴミが入

らないためにだろう。



こちらは中身を取り出したも

の。ハニカム構造の育房ができ

ていて、数個の卵が産みつけて

あった。「さあこれから」とい

う時に申し訳なかったね。







 スズメバチたちは、こういう見事な造形物を本能的に作り

上げる。このような自然の造形物を見るたびに「不思議だな

ぁ」と思い、畏敬の念さえ覚える。さらに、そのからだ自体

がまたよく出来てる。出来過ぎている。

 以前、家のそばでオオスズメバチの死骸を見つけたので、

持ち帰って虫眼鏡でしげしげと眺めたことがあったけど、一

言で言って「怪物」。強靭な外骨格、ニッパーのようなア

ゴ、デカい複眼に加えて、額のところに明るさを感知するた

めの三つの単眼があって、その面構えを引き立てている。そ

して長い毒針・・・、カッコイイ。見ていると、生物進化の

一つの完成形のように思えた。(オオスズメバチは世界最大

級で最強のハチと言われているけれど、もし体長が30cmも

あったとしたら、人間もエサにされてしまうだろう)


 とはいえ、実のところ生物の進化には完成形は無い。地球

環境は変化し続けるので、それに合わせて生物も変化し続け

る。生物自身が環境を変えてしまい、それによって自らも姿

や生態を変えることもある。生物は常に進化の途上にある。

わたしたち人間も例外じゃない。

 滅亡せずに生き延びられれば、いつの日か、わたしたち人

間も次の形態や生態へと変わる時が来る。その時には現生人

類は淘汰されて滅びるか、生息域を大きく狭めることだろ

う。本当の意味で “新人類” の時代が来る。その新人類が、現

代人の望むようなストーリーを具現化したものになるか? 私

は「違うだろうな」と思う。

 進化するのなら、人間はこの「悪さ」をするアタマを切り

捨てるだろう。こんなものを載っけたままで苦しみ続けるの

なら、それは進化と呼べないだろうと思うから。そして、新

たに身に付けた本能に従って、環境に適応してゆく存在にな

るだろう。スズメバチがそうしているように。

 それができなければ、人間はこのまま消え去るだけだろ

う。アタマが生み出し、動かす世界を、今以上拡張すること

はできないだろうと思うから。


 これまで何度も書いたけど、わたしたちの文化はもう行き

詰まっているというのが、私の見立てです。しかも、本来あ

るべき生き方とはズレた、無用な方向へ発展した末の行き詰

まりだから、いずれ破綻する。そして大きく縮小した文化の

中で、本来あるべき生き方への道を模索することになるだろ

う。ただ、それは「運が良ければ」ということだけど・・。


 いずれにせよ、アタマに惑わされ、右往左往して自ら苦し

んでいる現生人類はいずれはいなくなる。

 この世界に存在できている内に、いまのわたしたちなりの

「完成形」を経験しておきたいものだ。からだは変えられな

いけどね。






2023年6月12日月曜日

理解して



 いまパソコンを使ってる机の横には窓があって、外にはバ

ラが植えてある。一昨日、バラの手入れをしようと思って窓

を開けて外へ出たら、すぐ横の軒下に長さ15cmぐらいの

オオスズメバチの巣ができていた。まだ女王バチが一匹で巣

作りをしている状況らしかった。

 いくら普段スズメバチが目の前を飛んでも気にしない私と

はいえ、ここに巣を作られてはかなわない。アリ用殺虫剤を

取り出して(アリ用はハチにもよく効く)、巣の中にノズル

を差し込み「ブシュー」・・・。即座に大きな女王バチが出

て来て、飛んで行った。すぐに死んだだろう・・・。ゴメン

ヨ🙏


 私は花好きだけど、虫も好きだ。奴らは面白い。けれど、

今の日本では虫嫌いの方が多いだろう。虫嫌いというより、

虫が怖いという人が沢山いて、私の周りにも多い。なぜ彼ら

は虫が怖いのか?


 虫を怖がるのは、それが「理解できない」から。

 虫というものは、人間とは大きく形態が違い、その生き方

のロジック、手法も人間とはかけ離れているので理解しづら

い。その上、都市のような人工環境からは、虫のようなもの

は極力排除してあるので人々は虫になじみがなくなってい

る。なおさら理解のチャンスが無い。

 排除の対象は、排除すれば済む話なので、そんなものをわ

ざわざ理解しようという奇特な人は少ないから、虫を理解し

ていなくて虫が怖い人は、そのまま「虫が怖い、嫌い」であ

り続けている。けど、自分の生活圏に存在しているものは、

理解に努めた方がいいと思うけどね。嫌いなもの、怖いもの

が減った方が暮らしやすいだろうに。


 虫だけに限らず、人が何かを怖がるのはそれが「理解でき

ない」から。

 感染症もガンも有害物質も幽霊も異常な人間も、人がそう

いったものを怖がるのは「理解できない」から。最も怖がら

れてるのは「死」だけど、それは「死」が「最も理解できな

いもの」だから。


 人は「死」を理解していないけれど、「生」も理解してい

るとは言えない。それにも関わらず「生」を怖れる人がいな

いのは、いまその只中にあるので理解する必要を感じていな

いから。「理解なんかしなくても、実際生きているのだから

問題ない」と心のどこかで思っているのだろう・・・。けれ

ど、本当は誰もが「生」を怖れているのではないかと、私は

疑ってみる。なぜなら、人は暇を嫌がるから。


 わたしたちのアタマが常に “お話し” で満たされていて、わ

たしたちの生活が常に何らかの行為で繋がれているのは、“お

話し” と行為が止んで、意識が「生」と直面してしまうのを

避けるためだろう。

 「“生” なんてわけの分からないものは、怖いから無視しよ

う」

 わたしたちの深層心理は、そういう方針で活動するようア

タマに要請しているので、わたしたちは常に “お話し” の中で

ウロチョロし続けることになる。




 「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ

行くのか」


 「生」に直面すると、そんな問いが立ち現れてしまう。そ

してその答えは誰も知らない。理解できる可能性は無い。わ

けが分からなくて怖い・・・。答えがわからないのでゴーギ

ャンは絵を描いてみたのだろう。自身の感覚に答えさせる道

を選んだのだ。


 わたしたちは誰も「生」の只中にある。只中にあるのでわ

ざわざ「生」を理解しようとする必要は無いというのが本当

だろう。けれど、わたしたちは只中にありながら「生」を怖

れるために、「生」を “お話し” で覆い隠してしまい「生」を

見ない。


 「生」は “お話し” ではない。

 “お話し” とは関係ない。

 「答え」という “お話し” も無い。

 “お話し” が止んだとき、「答え」を知ろうとする意識も絶

えたとき、自分が「答え」そのものになっている。それは

「理解」ではない。「理解」すべき対象はもう無い。「怖

れ」も「怖れの克服」も見失われている。「問い」も無い。


 「我々はここにいる 我々はどこにも行かない 我々は命

そのものである」


 ゴーギャンはキャンバスを脇へどけて、タヒチにとけ込む

べきだっただろう。



 話がとんでもない方へ転がってしまった。
 
 スズメバチの話だったのだ。世の中何が起こるか分からな

い。自分が何をするかも分からない・・・。次回は、私がス

ズメバチをどう理解しているかのお話しをしよう。



2023年6月10日土曜日

災難ですか?


 梅雨に入り、明日も大雨になるところがあると天気予報で

言っていたけど、私の住む神戸というところは、南に四国山

地・紀伊山地が有り、北には兵庫県中北部の山地が有って、

北からの湿気も南からの湿気もそこで搾り取られて雨になっ

てしまうので、大雨が降ることは少ない。西から東へ瀬戸内

海を抜けるような線状降水帯でもできれば大雨になることが

あるだろうけど、そういうのは稀ですね。災害の少ないとこ

ろだと思うけれど、阪神淡路大震災でバランスを取られてし

まったという感じもする。誰も一生災難から逃れることはで

きない。


 災難となる出来事から逃れることはできないけれど、出来

事を災難にしてしまわないことはできる。災難はそれぞれの

人が自分で作るものだから。なので良寛さんは言った。

 「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬ時節には

死ぬがよく候、是はこれ災難を逃るる妙法にて候」


 災難というのは、要するに “自分の思惑を狂わされること” 

です。

 それが大きな自然の働きによるものならば災害と呼ばれた

りするけれど、ことの大小によらず、自然か人為かによら

ず、自分の思惑というものが無ければ、どのような出来事で

あれ、災難には成り得ない。どのような出来事も、それ自体

は単にひとつの出来事です。

 大雨が降る。低地に水が溜まる。地震が起きる。それらは

「そういうことが起きている」というだけ。本来のわたした

ちの人生を損なうものではない。


 「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候」というのは、

例えば大雨で被害にあったとしても、「このたびは大雨の被

害に遭うというのが自分の人生なのだな」と受け止めればい

いということですね。自分で描いたシナリオではなく、運命

のシナリオに沿っていれば、自分の思惑(シナリオ)が狂わ

されることはないから。


 「思惑」というのは、文字通り「思いの惑い」ですけど、

私は「思枠」という字を充ててもいいんじゃないかと思う。

人間のすることも含めた、世界という大きなものの中にある

自分の人生に、自分勝手に枠をはめるから、人生の自由度を

損なって融通が利かなくなるし、枠という形があることは、

それが壊れることもあることを意味する。枠を作らなけれ

ば、壊れることも無い。


 「思惑」のせいで自分自身が生み出してしまう「思枠」と

いうものは、惑いから逃れて自分を安定させるために作った

「枠組み」「お話し」ですが、世界の在り方をちゃんと考慮

せず勝手に作ったものなので、すぐに世界と相容れなくなっ

たりする、壊れる。つまり災難です。「思枠」を作ることが

「災難」という意識を生んでしまう。


 「○○歳まで生きる」とか「健康でいなければ」とか決め

つけなければ、病気になろうといつ死のうと災難にはなりま

せん。

 「あ~そうかぁ。そう来るか。まいったなぁ。・・・でも

それならそれでしょうがないなぁ」程度のことになってしま

うでしょう。


 明日もまた大雨が降って、どこかで誰かが被害に遭って、

またテレビなんかが “気の毒な人” というイメージを強調する

のだろう。まぁ、大変なのは間違いないけど、人の運命を他

人が「災難だ」と決めつけるのは、下品なことだと思う。
 

 起こる前からこんなことを言うのは不作法なのだろう

ど、「それは災難ですか?」




2023年5月21日日曜日

さよなら、人間



 アメリカではホワイトカラーのリストラが凄く増えている

らしい。コンピュータでさまざまなことが管理できてしまう

ようになって、そういう職業の人の仕事が無くなってきてい

るようだ。

 これまでも、文明が進んでさまざまな機械や技術が開発さ

れて、いわゆるブルーカラーの仕事が減り、「頭が良くない

と稼げない」という考えが支配的だったけれど、 ここへ来て

「頭の代わりはもうあるから」という状況になってきた。ロ

ボットが料理を作れたりするようになるのはまだまだ先の話

だろうから、手に職が有る方がかえって有利かもしれない

ね。


 自ら生み出した経済に支配され、文明に支配され、さて、

この先、人は “なに” になるのだろうか?


 日本のことわざに〈 一杯は人 酒を呑み、二杯は酒 酒を呑

み、三杯は酒 人を呑む 〉というのがあるけれど、酒に限ら

ず、人というものは、自分が利用しているつもりのものに呑

まれてしまう。愚かで憐れなわたしたち。

 要するに、アタマが悪いせいだけど、今回の話など「それ

も極まれり」という感じもするね。

 便利だ!楽しい!カッコイイ!などと、アタマの欲求を突

き詰めてきた挙句、コンピュータという形でアタマの機能を

外に作って楽をしていたら、自分自身のアタマが用なしにな

り始めた。人間は消えようとしているのだろうか? 
 

 そもそも人間というものは “なに” なのか? “なに” である

べきなのか? 

 大抵の人間がそんなことは考えもせずに、自分たちが作っ

たり利用したりしていることに呑まれて酔っぱらって生き

る。気がついたら道端で寝ていて身ぐるみはがされたり、ブ

タ箱に入れられていたりというような様相を呈する。


 人は、人になる為に生まれてくるのかもしれない。おそら

くそうだろう。

 人とは “なに” か?

 それを知ること(自分なりに、絶対的な結論がでること)

が、人になることだろう。


 何千年も続けて来たアタマの一人相撲の果てに、人は人に

なる可能性さえ失いかけているのかもしれない。


 人は “なに” になるのだろう?





2023年5月14日日曜日

非常識な〈常識〉



 毎回、非常識なことを書いている  なかには「非人間

的」と言われそうなこともあるだろう  けれど、さてそも

そも「常識」とは何か?


 場所と時代が違えば「常識」も違う。人間にとって普遍的

なことを、社会が「常識」として採用していることはとても

少ないように思われる。それぞれ、その時代と場所に生きる

人の多くが気に入ることで、なおかつ多くの人が理解し実践

できるストーリーを「常識」としているだけなので、あまり

後生大事に扱うものでもないはずだ。いや、むしろ「常識」

というものは、人がより良く生きる為にものを考える「叩き

台」程度に扱うものだろう。なぜなら、「常識」というもの

は、せいぜい「そこそこ良く生きる」程度の基準でしかない

から。


 人が十人いれば、当然十人の能力レベルはさまざまな面で

違う。10万人いてもそれぞれに違う。「常識」というもの

は、その社会の大多数の人が理解し、身に付ける  常識に

従って行動できる  必要があるものだけど、それが災いし

て、「常識」というものは程度の低いものにならざるを得な

い。

 大多数の人は、当然標準的な能力レベルの人だけれど、高

度な判断力や、高い倫理性を持った人の能力基準で「常識」

が作られると、標準的な人はその「常識」について行くこと

ができない。その為「常識」というものは、標準的な判断力

や倫理性のレベルを越えると、少数派にとっての “常識” にな

ってしまい、いわゆる「常識」にならないという宿命を持

つ。かといって、標準的な能力レベルに「常識」を置いて

も、標準的な能力レベルより下にある半数近い人間を取りこ

ぼしてしまうことになるので、これもまた「常識」とするに

は数が足りない。かくして「常識」は、半数以上の人間を取

り込んで「常識」となり得るために、人の標準より少し下の

判断力や倫理性のレベルに落ち着かざるを得ない。せいぜ

い、期待を込めて標準レベルが精一杯ということになる。

「常識」とはそういうものなのだ。


 そういうことを踏まえた上で、私はこのブログを書いてい

る・・・というわけでもない。

 そういうことは踏まえているけれど、私が非常識なのは、

生理的に「常識」のおかしさを嗅ぎ取ってしまって、「ブツ

ブツ」言ってしまうだけだ。「それ(常識)は、人として 

“絶対” ではないでしょ?」と感じてしまうので・・・。


 もう一つ付け加えておきたいのは、私は「常識はレベルが

低いから従ってられない」というような傲慢なことを思って

いるわけでもないということ(もしかしたらそう思っている

のかもしれないけど)。私が非常識なのは、「常識」という

ものは先に書いたようなものなので、そういうものはまった

く取っ払った上で人や世界を見た方が、人と世界の本質的な

ことの理解が進んで、「人として普遍的ですべての人の良い

生き方の指針となるような、本当の意味で〈常識〉と呼べる

ような判断力や倫理性にたどり着けるのではないか」と感じ

ているのだということ。


 たとえば「死」はすべての人が等しく必ず経験する唯一の

ことで、人が死ぬのは「常識」です。けれども、ほぼすべて

の人は「死」を恐れ、忌み嫌う。

 「死」の常識性(必ずのことだからね)を思えば、「死を

忌み嫌い恐れることは、おかしいことじゃないのか」と考え

たとしても、変なことではないはず。

 「死」に限らず、そんな風に考え直してみる価値があるこ

とは、この世にいくらでもある。だから私は非常識にならざ

るを得ない。


 「常識」の中の小さなつじつま合わせに取り囲まれて、人

はそれぞれに小さなつじつま合わせの「生」を生きることに

なってしまうけれど、私はそのことを「悪」だとまでは思わ

ない。人間には仕方がない部分だろう。けれど、いわゆる

「常識」を取っ払って、人と世界の広々とした真実を理解し

た上で、あらためて「常識」に寄り添うのなら、人として楽

に、より良く生きることに繋がるだろう。


 この世界の「常識」に苦しめられている人は無数にいる。

いま苦しんでいなくても、いつ苦しむことになるかもしれな

い。でもその「常識」は仮のもので、そんなもの全部払いの

けても残る、真の〈常識〉が有って、そこに意識を置くこと

がができれば、「常識」のもたらす苦しみから離れて息がつ

ける。

 なので、私は非常識になって〈常識〉を見たい。

 私はとっても「非常識」な、〈常識人〉なのだ。


 

2023年5月7日日曜日

ヘンなの🙄  コロナ ㉚



 明日(5月8日)から、新型コロナが〈指定感染症5類相

当〉という扱いになる。それに合わせるように、WHO も6

日に緊急事態宣言を終了した。ようやくこれで、バカバカし

い騒動にも一応の区切りが付くが、この国ではまだまだ引き

ずる人が大勢いるのだろう。

 しかし、始まりもバカバカしかったが、終わらせ方もバカ

バカしい限りで、世の中というもののアホさ加減というもの

が本当によく分かった三年あまりだった。


 騒動の始まった2020年の前半を中心に、このブログで

もかなりの数(最終的に29回)コロナについて書いたけれ

ど、最期にもう一回、総括みたいなものを書いてコロナとは

サヨナラしよう(落とし前を付けておこう)と思う。


 私はコロナについて、基本的に、「どれぐらい人が死ぬ

か」ということに注目してなりゆきを見て来た。そこが肝心

だからだ。

 たとえば、水虫に感染している人はかなりの数だろうけ

ど、水虫でパンデミック騒動が起きることは無い。それは水

虫では人は死なないからだ(例外もあるだろうけど)。つま

り、人があまり死なないような病気なら、騒ぐ必要は無い。

 コロナも当初、武漢市で一か月に300人が死んだという

ことだったが、武漢の人口(約1000万人)から考えれば

「普通の肺炎死者数の一部だな」と思ったので、取り立てて

問題視するようなものではないなと思ったのだが、なぜか大

騒ぎになった。ヘンなの😨


 大騒ぎになり世界中で死者がどんどん報告されだしたが、

“PCR陽性の死者はとにかくなんでも〈コロナ死者〉としてカ

ウントしろ” ということだと知って、「これではちゃんとし

た死亡率も分からないから、深刻な感染症かどうかが確認で

きないなぁ。WHO も各国の保健機関もなにやってるんだろ

う」と思った。ヘンなの😨


 外国ではロックダウン。日本では自粛・・・。マスクをし

て、どこでも手を消毒して、熱を測って、人とは距離をおい

て・・・、「ウイルスなんてそんなことで防げないでしょ

う?」と思っていたが、案の定防げなかった。にもかかわら

ず、皆それを続けた。ヘンなの😨


 半年足らずでワクチンが開発され、普通なら数年かけて行

われるはずの臨床試験を抜きにして、接種が始まった。私な

ど、常識的に考えて臨床試験の行われていない薬など怖くて

使えないし、誰でもそうだと思うのだが、8 割程の日本人が

接種した・・・。普段、農薬だとか添加物だとか、薬品に不

信感を持っている人も大勢いるはずなのに・・・。ヘンなの

😨


 そうこうしているうちにコロナは変異し続け、2年のうち

に〈デルタ〉から〈オミクロン〉へと変わった。WHOも、日

本の厚労省や政府の分科会も「オミクロン株は感染力は強い

が、病原性は低い」という見解を表明していた。ところが、

2020年度、2021年度(日本の最初の死者がでたのは

2月なので、2月からを一年としています)を合わせた死者

が約2万人だったのに、〈オミクロン〉になった2022年

度一年で死者は約5万人。それまでの5倍になった。あれ? 

病原性は低くなったのでは? 重症化しないようにみんなワク

チンを打ったのでは? ヘンなの😨


 死者数が5倍になったりしたのだから、「これまでの経緯

を考えて、これは当然、政府もコロナ対策を強化・・・」と

思いきや、その死者急増のピーク時に、政府は「3月13日

から、マスク着用は個人の判断で」。そして「5月8日に〈新

型コロナ〉を “指定感染症5類相当” にします」と発表した。

ヘ~ンなの~~😨


 事程左様に、コロナ騒動は大きな動きを取り上げただけで

もヘンなことばっかり。私にとっては、ただただ呆れるしか

なかった3年半だった(呆れるだけでなく、ムカムカと腹も

立ったけど)。

 そして、随分前から思っていることは、“果たして「コロナ

で死んだ人はいる」と言っていいのか?” ということだ。


 新型コロナウイルスに曝露しても9割は無症状で、発症者

の一部が重症化し、その一部が亡くなるそうだが、その重症

者や死者は「免疫力が弱っている人」だと、専門家もずっと

言ってきた。それは普通に免疫力が働いている人には問題は

無いということ。ならば、重症化したり死亡したりする理由

は「免疫力の異常な低下」であって、この度起きていたこと

は 「“免疫不良症候群” の状態にある人の、新型コロナに特化

した経過追跡・収集」だろう。

 死んだのは「免疫不良」が主たる要因であって、死なせた

くないのであれば、問題にして対策を検討すべきは、「全般

的に免疫力を高めるにはどうするか?」ということだと考え

る方が合理的だ。コロナやインフルエンザだけに対する免疫

力を高めるために、予防効果の確率の低いワクチンや臨床試

験さえ行われていないワクチンを使うなんて、ヘンな話だ😨


 そして明日からは、新型コロナは普通の感染症のウイルス

ということになるのだが、先に書いたように、まだまだ引き

ずる人は多いだろう。

 政治家もマスコミも大衆も、当人は考えているつもりだろ

うけれど、実際はただ「気分」で動く・・・。そのことが身

に染みて、よ~~~く分かったね。そして、お次は何かは知

らないけれど、またすぐに人々は何かの「気分」で怖がった

り、異常にはしゃいだり、怒り散らしたりするのだろ

う・・・。「気分」に感染することこそ、怖れるべきだね。


 ホント、人間ってヘンなの🙄


 あっ! そう、コロナよさらば!(私はね。)