2017年2月21日火曜日

浮いて 待て

  《 浮いて 待て。 》


 誰もが人生にしがみついている。

 誰もが自分にしがみついている。

 その手を放す。

 
 力を抜く。 
 
 力を抜けば浮く。

 
「浮いて 待て」

 小学生がプールの時間に習う。

 無力になる。

 もともと無力なんだから。



 わたしたちは無力でしょ?

 今、こうして生きているけれど、今日までの間に死んでい


たとしても、別に不思議ではない。さまざまの病気、災害、

交通事故、凶悪犯罪、戦争、テロなど、常にコントロール出

来ない危険にさらされているのですから、今もって生き続け

ていることは、たまたまです。自分の力で、全てのリスクを

回避して生きているのではありません。飛行機に乗っても、

電車に乗っても、命を預けているわけですから。

 でも、わたしたちは自分の力で生きて来たと、すぐに考え


ます。「自分には、生きる力がある」と思いたいんですね。

 あると言えば、あるのですが、そんなの状況次第では何の


役にも立たなかったかも知れないんです。 運良く、そんな

状況に出くわさなかっただけなのです。

 頭が良いとか、運動能力が高いとか、忍耐力があるとか、


人によって色々な自信があるでしょうが、そんなの運でし

ょ。 

 障害を持って生まれたらどうなんでしょう? 虐待されて

育ったらどうだったんでしょう? 紛争地帯に生まれたら、

望む教育を受けられるでしょうか? 努力でどうにか出来る

事ではありません。自分に今ある能力は、たまたま手に入れ

たものなのです。そして、その能力は条件が合う時にだけし

か、役には立たないものです。ですが人は、その力を自身で

過大評価したりします。それは、生きて行くうえでの不安を

減らしたいから・・。すべてが運や偶然でしかないというの

は、心もとなさすぎるから、何か確固としたものが欲しい。

だから自分の力が、生きて行く為に有効だと信じたいのでし

ょう。

 そして困難な状況に直面した時も、自分の力でなんとか

しょうと、必死になって頑張る・・・。頑張りますが・・、

んなに上手くもいきませんよね。 なぜでしょう?

 きっと、自分の能力を超えているか、状況に合っていない


のでしょう。つまり、無駄な努力という訳です。

 無駄な努力は、ムダですよね。

 なのに、わたしたちは無駄な努力を続けてしまいがちで


す。動くのを止めると、状況に飲み込まれてしまいそうに感

じてしまうんです。でも、もがけばもがくほど、消耗してし

まいます。

 だから、 「浮いて、待て」 なんです。

 今は小学生が、学校で習います。「水に落ちたら、無理せ


ずに力を抜いて、仰向けに浮いて救助を待て」と。 
 
 実際にそうして助けられた例が出て来ています。
 
 パニックを起こして無駄な動きをするのが、一番ヤバい。


 パニクると、風呂でも溺れてしまいます。

 人生も同じだと思いますね。

 力を抜いて、状況に身をまかせて、状況の力に持ち上げら


れて行く。 無力になる。 

 どうせ無力なんだから。

 それが、本当なんだから。

 

 

世界は惰性で動いている

 

 

 《 世界は惰性で動いている 》


 明日の予定は何ですか?

 仕事? 遊び? 勉強? 結婚式? お葬式? 

 それとも、何の予定も無いですか?

 仮にハワイへ旅行に行くとして、その予定はいつ立

てたものでしょう? 一か月前にしておきましょう

か。 では、あなたは一か月前にハワイへ行くことに

決めました。でも、決めたのは本当にあなたでしょう

か?

 

 なぜ、ハワイなんでしょう? なぜ、明日なんで

しょう? なぜ行く気になったのでしょう? 誰と行

くのか、ひとりなのか? 友達と行くとして、なぜ、

その友達なのでしょう? 

 なぜ、明日ハワイへ行くことになったのか、すべて

の理由を説明できるでしょうか・・・?
 

 実はわたしたちが日々やっている事にハッキリとし

た理由はありません。 ありますか?

 

 わたしは、「コーヒーを飲みたいなぁ」と思って、

さっきコーヒーを淹れて飲んでいますが、コーヒーを

飲みたい理由は『コーヒーを飲みたいと思ったから』

ということです。でも、「コーヒーを飲みたい」と

思った理由は何でしょう? コーヒーが好きだから? 

では、なぜコーヒーが好きなんでしょう? なぜ、今

なんでしょう?

 

 何の話を始めたかというと、「意思」(「意志」も

含めた意味で)の話なんですが、「意思」というのは

自分のものでは無いということなんです。

 

 サラッと書いちゃいましたが、「意思は自分のもの

では無い」なんていうのは、とんでもない事ですよ

ね。「意思」が自分のものでなければ、いったい何が

自分なんだ! というぐらいの大事です。
 

 わたしたちは、瞬間々々、さまざまな選択をしなが

ら生きています。その都度、自分が選択しているし、

自分が決めているという実感しかありませんが、実は

自分が決めているつもりでいるだけだと、私は考えて

います。(こう考えること自体も、私が考えついたわ

けではないということになりますね)

 

 わたしたちの意思は、自分も含めた、この世界のす

べての出来事の関わり合い、せめぎ合いの中に生まれ

る副産物だということです。例えば、真冬になると北

海道に流氷がやってきますがあの流氷のひとつひとつ

が、さまざまな出来事だとします。流氷というのは、

岸に押し寄せると、それぞれがぶつかり合って、「ミ

シミシ」とか「キューキュー」とか音を立てるそうで

すが、わたしたちの「意思」は、そのキシミの音のよ

うなものです。自分と、周りの出来事がぶつかり合っ

てキシむ音が、わたしたちの「意思」というわけで

す。

 

 それは止めようとしても止められないし、どんな音

を出すかも決められません。北へ押されたかと思った

次の瞬間、こんどは西への圧力が来ます。そして自分

自身も西隣へ圧力を掛けることになりますが、自分で

西へ動いたつもりになったりします。

 

 わたしたちの世界は、全てが無限に、複雑に関係し

合って動き続けています。わたしたちの住んでいる銀

河系でさえ、宇宙のほんの小さな一点にすぎず、宇宙

の中を流されています。その中で、わたしたちに自律

的な「意思」など存在しうる訳がないのです。


 138億年前にビッグバンが起きて、わたしたちの宇

宙(世界)が始まったというのが、現在の主流の考え

方だと思いますが、物理的には “ある系の運動は、

外の系から力が加わらない限り、同じ方向に動き続け

る” わけですから、わたしたちの宇宙はビッグバン

以後、素粒子の一粒に至るまで、惰性で動いていると

考えていいでしょう。( 誰かがコントロールしてい

るわけではないでしょうし、もしコントロールしてい

る者がいるなら、それこそ「すべては神の意志」に

なってしまいます。別にそれでもかまいませんが )

 

 わたしたちの身体も、たまたま素粒子が集まって、

一時こんな形に出来ているのですから、わたしたちの

「意思」も、それによる「行動」も惰性なのです。

 

 人の世では、良いとか悪いとか偉いとか汚いとか、

いろいろな人が居ますが、皆それぞれ惰性で動いてる

だけですから、そう在るしかないんですね。

 

 この頃、トランプ大統領が就任して世間はなんだか

んだ騒いでいますが、彼自身も、何であんなことして

いるのか本当はわからないんですよ。自分がやってる

つもりなだけです。 わたしたち、みんなそうなんで

す。

 

 


2017年1月29日日曜日

うるさいのは?



  《 窓の外で、けたたましいクラクションが鳴った。

    「うるさい!」と思ったけど、思った時には

    もうクラクションは鳴っていない。

  
    では、何がうるさいか?

    どうやら自分の頭がうるさいらしい 》



 これはね。昔、ほんとにあった事なんですよ。

自分の家で本を読んでたら、窓の外でトラックがおもいっきりクラ

クションを鳴らしたんです。反射的に「うるさい!」とキレかけた

んですが、その瞬間に、頭のテッペンまで昇りかけてた血がスッ

と下がって、「あれっ。うるさいと思ったけど、うるさいはずのクラ

クションは、もう鳴っていないよなぁ。はは~ん。オレの頭の中が

うるさいのか。」そう思った。

 この出来事は「アタマってバカだね」と、私が思うようになった

キッカケのひとつです。

 精神分析だとか、仏教だとかに興味を持って、いろいろ本を読

んだりして「余計なことを考えるから、人は不幸になるんだ」と頭

では分かってきてたんですが、この時にそれが腑に落ちたんで

す。身体で分ったというか、肚で分ったというか。


 人はすぐに出来事を追っかけたり、引きずったりしちゃうんです

よね。そして、今ある現実からはぐれて、自分の妄想の中をグル

グル グルグル廻り続ける。

 それが、嬉しい出来事の後、ニヤニヤ笑ってるぐらいなら、まぁ

いいんでしょうが、どちらかといえば妄想の中の不愉快なドラマ

に入り込んじゃうことの方が多い。そうなると、美味しいものを食

べても、味が分からない。家族や友達が面白い事を言っても、ろ

くに聞いていない。うっかりすると、周りの人間に不機嫌をまき

散らす。


  《 起こった時には、終わってる 》


 どんな出来事も、起きた時にはもう終わってます。

 自分で勝手に背負い込んで、いつまでもしんどい思いをしてい

るだけです。 「アタマ」が悪いのです。


 十年前に失恋した事を思い出して、友達が泣いていたら「こい

つバカか?」って思うでしょ。だって十年前ですからね。でも、こ

れが昨日フラれたんだったら、泣いてても仕方ないって思います

よね。だけど本当は、十年前でも昨日でも、もう終わってしまって

いて、今はもう無い事だというのは同じです。 それを同じに出

来ないのが、「アタマ」なんです。

 もう存在してない過去が、今という唯一の実在を喰ってしまっ

てるんです。 こういう状態を、私は 「生きていない」 と言いま

す。 ( ただね、失恋したり、受験に失敗したばかりで泣いてる

若い子に「済んだ事でメソメソと・・・、バカじゃねえの」なんて言う

気は無いんですよ。人間って普通そういうもんだから、それはそ

れで人間らしくてよろしい。人間なんだから、情をまったく無くし

てしまうのは行き過ぎでしょう。もっとも、それで三か月も泣いて

たら、「バーカ。もう死んだら?」ぐらいのことは言っちゃうけど )


 ちょっと重い話になりますが、大切なひとを亡くした人が悲嘆

に暮れますよね。 当然です。 人として仕方がないことです。

時間が必要です。 でも、一年も二年も、場合によってはもっと

もっと長く引きずる人が居ますよね。 私も子供の頃に父親を亡

くしているので、それに免じて言わせてもらいたいんですが。や

っぱり、そんなに引きずるべきではないと思うんですよね。 良く

ないですよ。


 そういう人は、悲しまないのは冷たい人間だと、自分で無意識

に思ってるんじゃないでしょうか? 悲しむことが、愛してた証し

なんだと、どこかで思ってる。 

 でも、悲しむことと愛してることは、別だと思いますよ。

 悲しみっていうのは、失望から生まれるのであって、愛情から

は生まれません。 悲しみというのは、エゴの一面です。 あまり

に悲しみ続ける人は、エゴイストです。


  私は、エゴを完全に否定しませんよ。

 エゴは、人間に作り付けになってます。人間にエゴがあるのは

自然です。 ただ、エゴの僕(しもべ)になってはならない。


 私はこんな風に考えるんです。

 もし私が死んで、家族が何か月も泣いていたとしたら、あの世

から見てて、こう思うでしょう。「おい。おれのせいで、いつまでも

泣かないでくれ。いいかげん機嫌よくやってくれないと、オレは

心苦しくてたまらん」と。

 自分が死んだら、家族に何年でも泣き続けて欲しいなんて

思ってる人がいたら、そんなのロクな奴じゃない。 だっ

て、愛する人には笑顔でいて欲しいっていうのが、当たり前

でしょ?

 だから大切な人が亡くなったら、なるべく早く、程々のところで

泣くのは止めるべきなんです。 それが、愛じゃないでしょうか?  

 その方が、亡くなった人も、あの世で喜ぶと思うんですよ。

 きっと。






2017年1月24日火曜日

機嫌の悪い奴はバカである

 《 要するに、機嫌の悪い奴はバカである 》


 
前回、あなたも私も、しあわせになれました。

 「でも、会社に行けば酷い上司が居るんだ」

 「ローンを抱えているのに、収入が減ってしまって大変なんだ」

 「子供をあずける保育園が見つからなくて、困っているのに・・」

 いろんな文句があるでしょう。 当然ですね。

 みんな、それぞれに事情があって、暮らしていくことは、なかな


か大変です。そりゃあそうですね。当たり前です。しかし、暮らし

が大変だとしても、それが現実なら、大変なまま暮らして行くん

ですよ。 だって当たり前なんだから。


 酷い目に逢ったりもしますよ、ラッキーな人もいるのに、なんで

自分はツイてないんだとか思ったり。

 キツイですよね。でも、自分は自分なりに精一杯生きていくだ

けです。自分は自分でしかないんだから。

 自分なりにしかできないでしょ?


 “ビル・ゲイツなりに” とか、“イチローなりに” とか出来ない


でしょ?自分にできる事って、どこまで行っても “自分なりに” 

でしょ? 人と較べたって、たいてい不愉快になるだけです。


 私は、ひとは誰でも精一杯やっていると思いますよ。

 あなたが一生懸命働いている時に、裏口のドアの外でサボっ

てタバコを吸っている同僚がいる。サボっているのは確かです。

でも、彼はそれが精一杯なんです。今の彼は、サボってタバコを

一服せざるを得ないんです。サボらずに仕事を続ける余裕がな

いのです。それが、今の “彼なり” なんです。

 逆にあなたがサボったって、それが “あなたなり” だから、そ

れでいい。誰かに見つかって嫌われたら、またそこから、嫌われ

たなりの自分を生きてゆく。そうやって、揺れ動きながら自分を

生きてゆく。 他に、どうしようがあります?


 サボったりせず、いつも100%の力で生きてゆきたいなら、そ

れでもいいんです。


 出来るだけ手を抜いて、楽して生きてゆきたいなら、それでも

いいんです。

 どちらも、それが、その時、その人の精一杯だと思います。

 「お好きなように」 と言うより、そうしか出来ないんでしょう。

人は皆、その時その時、そうせざるを得ないことをしながら生き

ているだけだと、私は思います。

 そうやって、それぞれの精一杯を生きながら、楽しい事だけじ

ゃなく、嫌な人、嫌な事に出会いながら生きてゆく。文句を言い

ながら・・。


 でも、いくら文句を言ったところで、「嫌な人」も「嫌な事」も死ぬ

まで消えて無くならない。

 文句を言っていいんですが、言うなら機嫌よく言った方が良

い。「嫌な人」や「嫌な事」と、どうやって付き合ってゆくかってい

うのが智慧なんですよ。

 で、機嫌が悪い人は、その智慧が無い人なんです。 だから、

「機嫌が悪い奴はバカ」なんです。



 「バカ」だなんて、ごめんなさいね。

 あなただって、機嫌が悪いことはよくあるでしょうから、自分が

バカにされた様に感じるでしょう。でも「バカ」なのは、
 ”機嫌が

悪い時のその人” なのであって、その人の全人格を「バカ」だと

言っているわけではないんです。「機嫌が悪い時、その人はバカ

になっている」ということなんです。

 だから、私もちょくちょく「バカ」になります。そして、その都度


「あ~ぁ、また損した・・」と思います。大事な自分の時間を不機嫌

に過ごしてしまって、もったいないからです。 二度とない自分の

時間を不機嫌の為に使ってしまうなんて、バカでしょ?

 それに、損するのは自分だけではなく、不機嫌は周りの人にす

ぐ伝わりますから、周りの人も不機嫌になってゆきます。他の人

にも損をさせるんです。本当は犯罪行為と言うべき事なんです。

だから、こんな言葉もあります。


 「不機嫌ほど大きな罪はない」  ゲーテ


ゲーテに出てこられちゃしょうがない。って感じもしますが、一番

大きな罪だと言っているわけですから、人間のする事の中で最

も破壊的だと、ゲーテも思ったんですね。こいつをなんとかしなく

ちゃと。


 なんとかしましょう、わたしたちも。

 どうするか?


 私は、「機嫌が良い」=「しあわせ」 と考えています。


「機嫌が良いけど、不しあわせ」、「しあわせなのに、不機嫌」 と

いうのは、ありえません。

 だったら、前回のやり方でいけます。


 機嫌良くなるのに、理由はいらない。



 機嫌が悪くなるのは、またしても 「アタマ」 のミスリードが原

因で、ホントは不機嫌になる必要はないんです。

 だから、我に返って、こう言いましょう

 
「や~めた。ばからしい」

 それで、おしまい。

 機嫌良くなっちゃいましょう。






2017年1月23日月曜日

しあわせになるのに、理由はいらない


  《 しあわせになるのに理由はいらない 》


 

 人は、結局 「しあわせでいたい」 というのが望みでしょう。

 何が〝しあわせ″かって言うと、まぁ人それぞれですよね。

 お金がたくさん欲しい。恋愛がうまくいって欲しい。結婚した

い。子供が欲しい。健康でいたい。仕事などで成果を出したい。

などなど。いずれにしても、自分の望みが叶うことですけど、そ

れぞれの現実的な望みは違っても、その望みが叶って得られる

のは幸福感であって、それぞれの望みは、幸福を感じさせるス

イッチを入れる鍵ですね。 鍵そのものが幸福ではない。


 だったら、幸福を感じさせる鍵が、手に入れ易ければ、手に入

れ易い程、幸福感も得やすいわけです。


 誰の言葉か忘れましたが、「その快楽に最も金のかからない

人が、最も富んでいる」 というのがあります。

 この場合は、「金」を指標にして語っているわけですが、「金」は

労力に対する対価のひとつですから、「金」ではなく「労力」と言

った方が良いですね。

 「その快楽に最も労力のかからない人が、最も富んでいる」

 (ここで、「富んでいる」というのは、当然「しあわせ」ということ

です)


 「最も労力のかからない」って、どういう状況でしょう?

 明白です。

 「ただ生きている」 ということですね。

 ただし、意識が無ければ、しあわせも感じられませんから、意

識があることが最低条件です。


 「ただ生きている」 それだけでいい。たとえ、あと一時間後に

死ぬという状態にあったとしても、しあわせでいることが出来る。

 その可能性はある。

 いや、無ければ困るのです。


 なぜなら、人は皆死ぬのですから、今まさに死が訪れようとし

ている時に、しあわせの可能性が無く、誰もが皆、死の怖れの

中で人生を終えるのでは困るんです。しあわせに人生を終える

ことが出来るべきです。だから、死が訪れる時も、しあわせでい

る可能性がなくては困ります。


 だって、嫌でしょ? 死を怖れながら、不幸を感じながら人生を

終えるなんて。

 そして、死に臨む時でも、しあわせでいることが出来るのなら、

人生のどんな局面でも、しあわせでいることは出来るはずです

よね。

 しあわせになっちゃいましょう。


 「お金が儲かったので、しあわせ」

 「彼氏が出来たので、しあわせ」

 「健康なので、しあわせ」

 「金メダルを獲ったので、しあわせ」

 普通、わたしたちがしあわせを感じる時は、「~なので」という

理由があります。ありますけど、考えてみて下さい。理由は必要

でしょうか?

 理由もなくしあわせ、というのは可能でしょうか?

 理由もなくしあわせ、というのはダメなんでしょうか?

 理由もなくしあわせは可能です。私はそう思っています。

 「せっかく生まれて来たんだから、しあわせになりたい!」そう

思いますよね?

 だったら、しあわせになっちゃえばいいんですよ!

 今すぐ。今ここで、しあわせになっちゃったらいいんです。




 「そんなこと言ったって、どうやってしあわせになったらいいん

だよ」




 「どうやって」じゃないんです。

 「どうやって」というのは、“やり方・条件”という理由ってこと

ですけど、すでに書いた様に、理由は要りません。

 しあわせになったらいいんです。

 最低条件は意識があるということですから、今、これを読んで

いるのなら、間違いなく意識があるわけです。 だったら OK!

 今すぐ、しあわせになりましょう。


 今、あなたはここに居ます。

 それ以上、何が要りますか? 

 本当に、何か要るのでしょうか?

 今、あなたがここに生きている。それでいいと思いませんか?




 たとえば、あなたは今、とても辛い仕事をしている真っ最中。

辛くて、辛くて、泣き出しそうです。泣いているかもしれない。でも

今は生きている。生きているのなら、OK。


 たとえば、あなたは今、末期のガンで、あと数日も保たないの

は明らかな状態。ベッドに伏したまま、スマホでこれを見ている、

見ている今、あなたは生きている。それでいいとは思えません


か?

 わたしたちは、今 ここに無い想像の未来や、すでに存在し

ない過去と引き較べて、今を台無しにするのが得意です。

 日々、暮らしているのですから、未来の為に準備したり、過去

から学んだりすることは必要です。でも、わたしたちは未来や過

去を想う時は、今を忘れています。忘れているだけならまだしも

すぐに今を否定します。「これじゃダメだ」と。

 今、今を生きているのに、今はたいてい無視されてしまう。

 今が可哀相ですよね。


 一度、今 ここに引き籠ってみませんか?

 一分でも、三十秒でもいい。今 ここに 徹底的に引き籠ってみ

るんです、過去も未来も夢も想い出も、何もかも締め出して、引

き籠ってみるんです。 そこに、何があるか?




 わたしたちは、「アタマ」の条件付けに、骨の髄まで侵されてい

るんです。だから、どんな事にも理由を見つけなければ気が済

まない。条件が揃わなくては、物事を正当化し、承認することが

出来ない。でも、条件が充分に揃うことはなかなか無い。

 理由を探しても、「正しいとは、そういうことにしておけば気が

済む」ということでしかありませんから、心の底から確証を持て

ません。すぐに、正しさを否定する要素が出てきます。わたした

ちは、いつもいつも揺れ動いています。

  でも、「今、生きている」ということだけは、否定しようが無い


事実です(夢でなければ)。こんなに確かなことは他にありませ


ん。 これだけが確かです。

 だったら、その唯一確かなものの上に立って、その確かさを骨

の髄まで確かめてみましょう。

 そして、こう決めましょう。

 


 「わたしは、しあわせである」



 誰が何と言おうと、「アタマ」が何をつぶやこうと、そんなこと放


っておけばいい。


 今まで、勘違いさせられてきたんです。


 今すぐ、しあわせになっちゃえばいいんですよ。


 自分でそう思えないと言うなら、私が言ってあげますよ。



 「あなたは、今 しあわせです。


  これからも、ずっと しあわせです。


  死ぬまで、死んでからも しあわせです」







2017年1月16日月曜日

みんな、わけがわからない


  《 誰も わけがわかって生きているわけじゃない 》


 今、私はパソコンのキーボードに、この文を打ち込んでいる。

でも、なぜ今、私がこんなことをしているのか、私自身まったくそ

の理由は分からない毎日、朝目覚めて一日を過ごし、夜眠り

つく。その一日の間に、幾度か同じ思いがよぎる、「なぜ、今、

分はこんなことをしているのだろう?」 そして、こうも思う「自

分が今ここに居ることは確かなようだが・・・、ほんとに確かなん

だろうか・・・」



 荘子に「胡蝶の夢」という話がある。

 ある日、自分が蝶になる夢を見て目覚めた荘子はこう思う。

「今、こうして自分が荘子だと思っているけれども、もしかしたら、

これは蝶がわたしの夢を見ているのかもしれないぞ」



 自分はなぜ、今、ここに、こうしているのだろう?

 誰もその理由は知らない。気付いた時には生きていて、そのま

ま生き続けている。

 良いことも悪いことも、正しいことも間違ったことも、考えること

はすべて後知恵でしかなく、本当は何の確証もないまま、なにか

を自分の拠り所にして生きている。



 “われわれは何処から来たのか、われわれは何者か、われ

われは何処へ行くのか”



 有名なゴーギャンの作品のタイトルですが、本当に「何処から

来て、何処へ行くのだろう?」 出発地は知らないし、目的地も

からないまま、どこかへ行き、何かをする。

 この世で迷子のまま、その底なしの寄る辺なさから逃れようと

して、親しげな「正しさ」にすがりつく。

 社会の中で、何か意義のあることをしたり、金や物を手に入れ

て、その度に満足を得るのは確かだが、ホントにそれでいいの?

そうやって、ひと時お茶を濁してるだけじゃないの?



 ヤなこと言ってますよね。

 そんなに、メンドウなこと考えなくてもよさそうなもんです。でも

考えてしまう。思ってしまう。心の隅のちょっとした引っ掛かりを

どうしても無視できないんですよ。欲張りなんですね。

 永遠に失うことのない、絶対の幸せが欲しいんでしょう

ね。私は。



 “永遠に失うことのない、絶対の幸せ”って何でしょう?

 わかりません。

 知りません。  

 でも、今はこう思っています。

 わからない。知らない。っていうことを、徹底的に肯定して、わ

からないまま、知らないまま、そのままで居続けることで、言葉

ではなく、***でわかると。

 ( ***の中に入る言葉が無いんです。“心”と言っても

“身体”と言ってもしっくり来ない。“命”という言葉が近い気

もするけど、でも何かちがう・・・。たぶん言葉に出来ないことでし

ょう )

2017年1月13日金曜日

自分を葬る

   《 自殺する人は死にたいのではなくて

     死ぬしか生きる道がないのです 》



 「死にたい」とか、「自分なんか死んだらいいのに」なん

て思ったことは無いですか?結構そういう人は多いと思いま

す。

 私も二十歳前後に、そういう時期がありました。色々な事

があって、精神的にかなり不安定になり、「自分なんか、死

んだらいいのに・・・」と毎日のように思っていました。で

も、私が今こうしていられるのは、私が強かったとか、諦め

なかったとかいうことではなくて、たまたまです。


  本当に自殺してしまう人は、別に弱い人でも、ズルイ人

もありません。いわば、勘違いさせられて来た人です。


 というか、人はみんな勘違いして生きています。その中

で、その勘違いを他の人間と共有してグループを作ることが

出来た者は、安心感を持ち、それを守る為に自分たちとは別

の勘違いをしている人間を、「間違ってる」と排除します。



 生きていく中で、世の中の、自分のとは違う「正しさ」に

り囲まれ、気が付けばいつのまにか、「自分は間違った存

なんだ・・・」と思い詰めさせられ、抜き差しならない所

立たされてしまった人が自殺するのです。



 「この世には、もう自分の居場所はない・・・」そう思っ

て、自ら命を絶つ・・・。(実際に自殺した人に聞くことは

出来ませんから言い切れはしませんが・・、きっとそうだと

思います)


 でも、「居場所が無い」わけではないのです。

 居場所を求める所が間違っているのです。

 本来自分が居る必然性のない所に、居場所を求めて生きて

来てしまったのです。それが ”勘違い” なんです。

 ですが、「そこにしか世界がない」と思い込んでしまって

いるので、自分を  これが自分だと自身で思い込んでいる 

“自分”を  強く否定されてしまうと、もう「自分は間違っ

た存在なんだ」と思ってしまいます。

 「自分は世界に否定された人間だから、この世界には、も

う存在できない。ここでは、生きて行けない・・・」 

 そうなると、「この世界」の外へ出るしかない。

 しかし、彼には他に “世界”が無い。

 でも「ここには居られない。あまりにも苦しい・・」。

 行き場のない彼が、「この世界」から逃れる為には、自分

を消すしかない・・・。
 

 同じ経緯で、精神が崩壊してしまうこともあるでしょう。

 “自分” と「世の中」の関係の持ち方によっては、「消し

たい」想いは「世の中」に向かい、破壊的な行動に出る。

 通り魔、無差別殺人・・・。



 しかしその様な結果を、人間は本来望んでいるはずがな

い。

 「本来の自分」とでもいうべきものが、わたしたちの中に

はある。しかし、わたしたちは「世の中」に取り囲まれ、惑

わされ、「本来の自分」を見失う。

 「本来の自分」を取り囲むように、わたしたちの “アタ

マ” は「もう一つの自分」を作り上げる。その「もう一つの

自分」は「世の中」に合わせるための、仮のものでしかない

のだけれど・・・。


 心の奥のほうから、言葉にならない言葉で「本来の自分」

が呼び掛けていたはず・・・。

 「世の中の正しさ」に幻惑されすぎた(信じ過ぎた)「も

う一つの自分」に対して、少し我に帰って「本来の自分」の

声に耳を傾け、自分に親しみ、自分を慈しんでくれればと、

一度、振り返ってくれればと・・・。

 でも、「もう一つの自分」には、それが出来なかった。

 「自分」の中には「自分」しかいなかったから。

 振り返るべき「自分」の存在など、見えなかったから。


 それは、「愚かなこと」とみなされるかも知れない。「弱

さ」と呼ばれるかも知れない。しかし、その「愚かさ」「弱

さ」は、真っ白で生まれて来る人間に「世の中」が植え付け

たものなのだ。決して、人が持って生まれて来るものではな

い。


 小学生や中学生が、イジメを受けたりして自殺する。過労

自殺や、老々介護に疲れての無理心中・・・。

 そんなニュースを見るたびに、本当にやるせない。


 そうやって自ら命を絶つ人を、「弱い」とか「ズルイ」と

か「自殺される家族の身にもなれ」とか言う人がいる。その

人に言いたい。

 「あなたが、その人に生まれ、その人の人生を生きたら、

まったく同じ時、同じ様に、あなたも自殺するよ」と。

 頭だけすげ替えて「自分ならそうならない」なんて、お気

楽すぎる。「あなたが、その人に生まれたら、それは、あな

たではなく、そのひとなんだ。自殺で終わる人生がどんな

ものだったか、想像してみることが出来ますか?」と・・。

 「仕方ない事」は仕方がないんですよ。


 でも、「世の中」の「正しさ」に取り囲まれて苦しんでい

る人に、私の言葉が届くチャンスがあるのなら、言ってあげ

たいんです。

 「人の数だけ、世界はある」と。

 本当の「自分」は「世の中」のパーツの一つではないと。

 「“正しい”とは、そういうことにしておけば気が済むとい


うことでしかない」と。

 正しいか正しくないかに関係なく「あなたはそこにいる」

と。


 「自分の居場所」とは「自分」だと。

 それは、誰に認めてもらう必要もないことだと・・・。

 人間の約束事の外に、約束事以前に「あなたは居る」と。

 人間の約束事は、出来損ないなんだと・・・。