2020年3月18日水曜日
ウイルスと「移民・難民」 コロナ ⑭
またコロナウイルスの話である。いろんな意味でどうして
も引っかかるんだよね。
で、なんの話かというと、ウイルスとナショナリズムの関
係について。
「ウイルスとナショナリズムが関係するのか?」と訝しん
でられることでしょう。私的には関係が見えるので、これか
らその解説をいたします。
ウイルスというのは、生物の細胞の中に入り込んで、その
細胞のシステムを利用して増殖するものですが、そのウイル
スの振る舞い、在り方というのは、さまざまな国で起きてい
る「移民・難民問題」と似ているなと・・・。
それぞれの国のナショナリストにとって、自国に入り込ん
で、その国のシステムを利用して増殖して行く「移民・難
民」はまるでウイルスのように映っているのでしょう。
(私は「移民・難民」をウイルスだと思ってはいませんよ。
ただ、アナロジーとしてその見方は有るなと・・・)
そして、ナショナリストの多い国・ナショナリズムの強い
国ほど、今回の新型コロナウイルス騒動の激しさはリンクし
ているのではないだろうかと、ふと思ったんですよね。
ナショナリズムに限らず、ある宗教や主義や民族意識など
がその国で支配的な力を持つ場合、違う価値観を持ったまま
その国に入り込んできて、その国のシステムの下で増えよう
とする者に対しては、排除しようとする力が強く働くものだ
ろうと思う。その心情が、ウイルスというものに対して、比
喩的に強い不安と恐怖を増幅させているのではないか?もち
ろん無意識的にですが。
そういった「移民・難民」が入り込んできて、国や自分た
ちの暮らしを「乗っ取られる」「食い物にされる」といった
強い恐怖感を持つ人が多い国ほど、今回、ヒステリックな反
応をしているのではないだろうか? それはあくまで「反
応」の仕方のことであって、「感染の拡大」や「死者数」と
必ずしもリンクはしないだろうが、パニックの度合いとは関
係がありそうな気がする。とはいえ、イタリアやスペインや
イランやフランスがそのような国かどうかは、私にはよく分
からない。韓国は・・・、まぁ、ああいう国ですが・・・。
今回の騒動が始まったころ、「安心安全原理主義者」の多
い日本では、かなり面倒で気持ち悪いことになるだろうと予
想していたのだが、今のところは意外と小康状態で、ヨーロ
ッパの国々が「感染者数二位」だった日本を一気に追い抜い
て、かえって他の国から「日本はどうなってるんだ?」とか
思われたりしてるらしい。
やはり、「八百万の神」の国で「神仏習合」で「マリア観
音」で、宮参りしてハッピーバースデーでバレンタインデー
で結婚式は教会でも神社でも人前結婚でもなんでもありで、
シニアが爺さん婆さんになって、ベッドの上で死んだら、葬
式には坊さんが来る国だからだろうか?
「無節操は強いね」。ひとまず、そういうことにしておこ
う。
日本のことはともかく、近年の世界のナショナリズムの台
頭と、新型コロナウイルの狂騒には関連はありそうだ。
ナショナリズムに与する人たちの意識の奥には、「自己嫌
悪」が隠れていて、「こんなことやってたらバチが当たるん
じゃないか・・・」といった不安が溜まっていたところに、
ウイルスがやって来て、その不安を刺激してしまったんじゃ
ないか?
と、そんな妄想をして、うっとうしい現況の憂さ晴らしを
している、今日この頃。
2020年3月15日日曜日
葬儀屋さんに訊いてみたい コロナ ⑬
今日、いつものスーパーに買い物に行ったら、レジで30
分も並ぶはめになった。休みの日にまとめ買いをしようとす
る人間がいっぱい来ていたようだ。
“週に一度、密閉された室内で不特定多数の人の中で30分
過ごす” のと、“二日に一度、密閉された室内で不特定少数
の人と2~3分過ごす” ことのどちらが感染症のリスクを高め
るのか、私には分からないが、前者の方がバカらしいのは確
かだ。
そのスーパーへ行く途中には葬儀屋さんが有るのだが、最
近その前を通るたびにインタビューをしてみたいと思ってし
まう・・・。
「新型コロナウイルのせいで、国内で一か月で20人以上
も亡くなっていますけど、どう思いますか?」
「・・う~ん。うちだけで、このひと月に100人ほどお見
送りしてるんでねぇ・・・」
そんな会話がありそうな気がする。全国の葬儀屋さんは苦
笑しているのではないのだろうか。
普通の人には「死」は非日常だが、葬儀屋さんには「死」
は日常だ。そもそも、誰にとっても「死」は日常の延長には
あるもので、「無いもの」ではない。
葬儀屋さんは「人がどんどん死んでくれても構わない」と
思ってはいないだろう。お見送りする人の中には、年端もい
かない子供が居たりして、自分の仕事が辛くなることだって
あるだろうし、仕事をしながら自分の家族のことを考えたり
してしまうこともあるだろう。けれど、「死」そのものをむ
やみやたらに忌み嫌い、「無いもの」とすることはないだろ
うと思う。それは、当たり前に、「有るもの」だから。
普通の人が「死」を隠して、「死」を「無いもの」にす
る。
一方、そのことが、その分を引き受けなければならない
人々(職業)を生む。
そうやって、見たくないものを排除して、誰かにまかせっ
きりにして、その挙句、それが排除しきれなくなって自分の
前に現れてくると、あからさまに嫌悪感を示し、誰かのせい
にしようと声を荒げる・・・。
ひとりひとりの人にとって、「死」は軽いものではない。
しかし「あってはならない」と忌み嫌い、隠してよいもので
もない。「死」は良くも悪くも、謙虚に、畏敬の念を持ちな
がら、「有ること」として丁寧に受け止めるべき事だろう。
葬儀屋さんに訊いてみたい・・・。
そう、「死ぬのは嫌だ~~」という人には、完璧なアドバ
イスがあるんです。
「生きなきゃいいよ」。
そのスーパーへ行く途中には葬儀屋さんが有るのだが、最
近その前を通るたびにインタビューをしてみたいと思ってし
まう・・・。
「新型コロナウイルのせいで、国内で一か月で20人以上
も亡くなっていますけど、どう思いますか?」
「・・う~ん。うちだけで、このひと月に100人ほどお見
送りしてるんでねぇ・・・」
そんな会話がありそうな気がする。全国の葬儀屋さんは苦
笑しているのではないのだろうか。
普通の人には「死」は非日常だが、葬儀屋さんには「死」
は日常だ。そもそも、誰にとっても「死」は日常の延長には
あるもので、「無いもの」ではない。
葬儀屋さんは「人がどんどん死んでくれても構わない」と
思ってはいないだろう。お見送りする人の中には、年端もい
かない子供が居たりして、自分の仕事が辛くなることだって
あるだろうし、仕事をしながら自分の家族のことを考えたり
してしまうこともあるだろう。けれど、「死」そのものをむ
やみやたらに忌み嫌い、「無いもの」とすることはないだろ
うと思う。それは、当たり前に、「有るもの」だから。
普通の人が「死」を隠して、「死」を「無いもの」にす
る。
一方、そのことが、その分を引き受けなければならない
人々(職業)を生む。
そうやって、見たくないものを排除して、誰かにまかせっ
きりにして、その挙句、それが排除しきれなくなって自分の
前に現れてくると、あからさまに嫌悪感を示し、誰かのせい
にしようと声を荒げる・・・。
ひとりひとりの人にとって、「死」は軽いものではない。
しかし「あってはならない」と忌み嫌い、隠してよいもので
もない。「死」は良くも悪くも、謙虚に、畏敬の念を持ちな
がら、「有ること」として丁寧に受け止めるべき事だろう。
葬儀屋さんに訊いてみたい・・・。
そう、「死ぬのは嫌だ~~」という人には、完璧なアドバ
イスがあるんです。
「生きなきゃいいよ」。
2020年3月12日木曜日
風はやまない
「こんなブログなんか書き続けていて何になるのだろう」
なんて思いが、時おり頭をかすめることがある。あるけれ
ど、すぐにこう思う。「そんなこと知らない。そもそも私が
生きていても何にもならない。自分が何をしていようと、私
の知ったことではない。世界は惰性で動いているのだか
ら・・・」。
どんなに気に食わなくても、起こってしまうことはしょう
がない。そういう風になっているということなので、「そう
いうことか」と、自分なりに受け止めるしかない。
いま、「そういう風(ふう)・・・」と書いて気が付いた
けれど、「ふう」に「風」という字が充ててある。ものごと
は「風(かぜ)」と同じで、どこからか吹いて来るものなの
だな。昔、ことばを作ったり、漢字を充てたりした人たち
は、ホントによく考えてると感心することがよくある。
「風」というものは、どこかで生まれるというものではな
い。この地球で最初に風が吹いたその時から、風は止まるこ
となく吹き続けている。
もし風が止まったら、地球の生態系は崩壊する。
熱循環とさまざまな物質の拡散・循環が止まり、ほとんど
の生物が死に絶えてしまう。
「風」には実体は無い。「風」は大気の流れであり、どこ
かから始まっているわけでもない。始めも終わりも無く、ひ
たすら動き続けている。地球上のすべての場所で、その時そ
の場所に、その時その場所だけの風が吹く。そう考えると、
「風というものは “世界” の在り方を象徴するようなものだ
なぁ」などとも思う。
すべては、始めも終わりもなく、動き続けている。「諸行
無常」などと言ったりもする。
すべては動きづめに動いていて、変わりづめに変わり続け
る。世界も変わるが、自分も変わる。何ひとつそのままにし
ておくことができない。
白色矮星などは、冷たく硬く動きを止めているけれど、そ
れでも宇宙を移動しているし、何十億年か経てば、宇宙の動
きに取り込まれて、新しい星の材料になったりもするだろ
う。
何かを「とどめよう」とすることは、世界の理(ことわ
り)に逆らうことだし、それが実現することはない。もしそ
れが実現したら、世界の理が壊れたということなので、たぶ
ん世界が崩壊する。
気に入ろうが気に入らなかろうが、世界も自分も変わって
行く。その変化を無理して止めようとすると、くたびれて、
その挙句、余計に苦労するのが関の山だと思う。まぁ、人が
それを「止めよう」とするのも、「そういう風になってい
る」ということなのだが・・・。
その時その場所にどんな風が吹いて来るとしても、そうい
う風(ふう)になっているのだから、それを上手に受けるの
が、人としての力量ということでしょう。
それを利用して「上手くやろう」とかいうのではなくて、
「機嫌よく」風を感じるのがね。
風は止められない。
風は止まない。
風が止まった時は、わたしたちが死ぬ時。
変化を拒絶する時、わたしたちは死へと向かう。
「死」を拒絶することさえ、死を引き寄せる。
風は止まない。
2020年3月11日水曜日
どんな風が吹いているのだろう。
今日は3月11日。あれからもう九年が経ったんだ。
何か書こうとしたけれど、どうにも考えがまとまらない。
私は、震災以前も震災後も東北には行ったことが無い。震
災後、あの被災地に一度立ってみなければと思いながら、そ
の縁がなく、今まで来ている。
被災地の多くは今も更地が広がっているようだけど、あそ
こに立った時、自分が何を感じ、何を思うかは八割がた想像
がついている。まず感じるのは風だろうと思う。少し不躾
で、思いやりを欠く風が吹いているだろうと思う。
そう思うのは、阪神大震災での自分の経験による。
震災後、自分が元住んでいた町を訪れた時に感じたのは、
「風の吹き方が違う」ということだった。以前とは違う方向
から、違う巻き方で、なじみのない風が吹いていたのだ。そ
して、そのちがう風に感じる違和感に、心がざらつく・・。
「人間の身体って、こんなことまで感じながら生きている
んだ・・・」と、当時驚いたものだった。
建物が壊れ、新たな建物が立ち、風の流れが変わるのだ
が、どうもそれだけではない。その土地の自然の在り様や、
人の営みの大きな変化は、そこに吹く風の「肌触り」という
ようなものを変質させるように思う。
九年が経ったけれど、被災地の多くの場所では、まだ心を
少しざわつかせるような風が吹いているんだろうと思う。
今年も、もうすぐ春の暖かな風が吹くだろうが、その暖か
さの中にも、どうしても無視できないわずかな「無情」がひ
そんでいるような気がする。
春、あの土地に立つ人が、心から風を暖かく感じられる
時、本当の再生が始まるのだろう。そんな気がしている。
2020年3月10日火曜日
死にたくないにも程がある コロナ ⑫
いきなり無礼な質問です。あなたは、自分が死ぬとき、ど
のような死に方だったら納得できますか?
「“死に方” もなにも、死にたくない」
そういう方はこの先を読んではいけません。こんなブログ
を見るのはすぐに止めて、履歴も消去しましょう。でも、本
当はそういう人にこそ、この先を読ませたいのですがね。
コロナウイルス騒動での、世界のニュースを見ていると
「いったい人類はどうしちゃったんだ?」と思う。死にたく
ないにも程がある。
この地球上では毎日々々人が死んでいる。一年で約6000
万人が死んでいる。一日平均164000人が死ぬ。
日本では一年で約130万人。一日平均3500人が死ぬ。そ
のことをいったいどれだけの人が認識しているのか?
日本でコロナウイルスでの最初の死者が出たのは、2月14
日。それから二十六日が経ち、現在の死者数は14人。その
二十六日の間に、この国では約91000人が死んだはずだ
(その中に、先の14人も含まれている)。
コロナの感染拡大がもっと酷くて、二十六日間に100倍の
死者が出ていたとしても、1400人。91000分の1400とい
うことになる。その数字でも、まだ余裕を感じるのだが、実
際は91000分の14。何が緊急事態なんだ?
日本人は、自分の暮らしている国で、毎日人が死んでいる
ことを知らないのだろうか?
その死者の大半が病気で死ぬことを知らないのだろうか?
人が死ぬことは日常の一部だということを知らないのだろ
うか?
誰も自分の死に方を選べないということを知らないのだろ
うか?(*)
「人はみんな死ぬ」ということを知らないのだろうか?
「死にたくなくてもみんな死ぬ」ということを知らないの
だろうか?
ニュースを見てると、日本人に限ったことではなく、世界
中の人間が、「死」が必然で、日常の一部であることを無視
している。異常だ。死にたくないにも程がある。
最近の私は、ほとんどムカついている。理由は二つある。
一つは、今回の騒動のあらゆる面がずさんだということ。
事態を読み解く為の様々な可能性の多くが見過ごされ、非常
に幼稚なストーリーをベースに物事が進んでいる。
もう一つが、世界規模に拡大しようとしている「異常な不
安感」。
この二つが、相互に作用し合いながら、狂気が増殖してい
る・・・。もはや「気持ち悪い」を通り越して、私はムカつ
いている。人類は、これほどまでにバカなのか?
「アタマが悪い」と言い続けて来たが、ここまで悪いと
は・・・。
いいかげんにしろよと思う。
死にたくないにも程がある・・・。
(*)「自殺」は自分で選んだ死だと思われるでしょう
が、あれは “心理的な事故” です
2020年3月8日日曜日
責任者の「無責任」 コロナ ⑪
今、世界を席巻している “新型コロナウイルス” の騒動
は、私がいままでの人生の中で見て来たことの中で、一番
「気持ち悪い」ことだと感じている。
各国の対応は、私の見方からすれば合理性を欠いているの
だが、どの国も「新型コロナウイルス」という “新しいキャ
ラクター” と、そのストーリーを受け入れて、視野狭窄を起
こしているようだ。
今や、私の関心は「なぜ、世界はこのようなストーリーを
受け入れるのだろうか?」ということに移っている。
ウイルスは目に見えない。電子顕微鏡を使えば、一応「見
える」。
ウイルスの振る舞いもよく分からない。人体実験は出来な
いので(していないはずです。人道的に・・)、実験設備の
中で知りえたウイルスの性質と、感染した人の状態から類推
して「ウイルスが引き起こすこと」を推察しているというの
が実際のはずです。だって、『ミクロの決死圏』という映画
のように、人の体内で直接何が起きているかを観察すること
はできないからね。
現代に生きているわたしたちは、ウイルスという目に見え
ないものを「可視化した」つもりになって、その性質を「分
かった」つもりになっているけれども、結局は妄想を現実視
しているだけなのではないのだろうか?
同じような症状を見せて人が続けて亡くなったりする。そ
の様子に「伝染病」というストーリーを見いだして、「次は
自分かもしれない・・・」と恐れる。
その “「伝染病」というストーリー” が、昔は「疫神」や
「妖怪」や「死神」のしわざだったのが、現代では「ウイル
ス」や「細菌」といった「病原体」という言葉に置き換わっ
て、「感染症」になっただけなのではないのか?
「天然痘」が撲滅されたことを考えれば、「ウイルス」や
「細菌」というものが、「“感染症” を引き起こすこともあ
る」という考えは間違ってはいないだろう。けれど、「感染
症」というストーリーの中には、まだまだ広大な闇が残され
ているのは疑いようが無い。ところが、その「疑い」を無視
して、世界中が不完全なストーリーを受け入れて、硬直化し
た振る舞いを見せている。
「物語(ストーリー)の枠組みが変わっただけで、人は相
変わらず同じことを繰り返すのだな・・・」と、私は思う。
わたしたちは、電磁波だとか、放射能だとか、紫外線だと
か、低周波だとか、温暖化だとか、自分自身の感覚ではハッ
キリとはつかめない「見えないもの」を、「見て」、その存
在を恐れるけれど、それは、思考では自分の生きている世界
を認識しきれない為に、その「認識しきれない」部分に物語
を持ち込まざるを得ないという、悪業ではないのか?
《莫妄想》
「妄想するな」という教えは仏教のものだけれど、それ
は、「勝手なストーリーを組み立てれば苦しむことになる」
ということだ。
実際に起きる出来事を「そのまま」に見れば、それは現実
だが、「そのまま」に見ることが出来なければそれは「妄
想」だ。
世界中の責任のある立場の人間たちが、「妄想」の中でも
のごとを決めて行く・・・。
それは最早、「正しい」か「正しくない」かという問題で
はなく、「当たり」か「外れ」か、という話でしかない。な
のに、その判断で、実際の世の中が動いて行く・・・。これ
が気持ち悪くないほうが不思議だ・・・。
少なくとも、「自分の判断には、確固とした根拠はない」
という認識だけは持たなければならないだろうが、そんなも
の、どこにも無いようだ・・・。
ここまで書いたことに「確固とした根拠」など有りはしな
いが、少なくとも私はそのことを踏まえた上で言っている。
何の責任も無い立場だけれどね。
2020年3月7日土曜日
死にたくないのは当たり前だが・・・ コロナ ⑩
さっきニュースを見ていたら、「コロナウイルスの感染拡
大防止の為に、東京の “こども食堂” の七割が活動を自粛し
ている」とあった。それを見て、ムカムカと腹が立ってき
た。
こんな騒動のせいで、貧困家庭の子供がまともな食事を食
べられない。政府は貧困家庭の子供がちゃんと食事をとれる
ような施策も行っていない。事あるごとに「少子高齢化が問
題だ」と言い、何か事件でもあると「子供を守る!」と政治
家が言う。ホントに「子供が大事」なのか? いったい何な
んだ! 何がしたいんだ!
日本に限らず、世界のコロナウイルスに対するこの狂騒は
いったい何なのだろう?
誰だって死にたくはないが、私の目から見ると、この騒ぎ
は常軌を逸している。
誰だって死にたくはないが、人は皆死なねばならない。そ
して、人が死ぬ理由の8~9割は病気だろう。
日本は世界有数の長生きの国だが、その平均余命は約84
歳。「老衰死」するのは100歳前後だろうから、平均余命
84歳というのは、大多数の人が病気で死ぬということを物
語ってもいる。
「老衰死」のことを「自然死」と表現したりもするが、人
が病気になるのは多くの場合「自然」なことだから、病気に
なって人が死ぬのも「自然死」だと私は考える。その自然の
成り行きをある程度まで受け入れるのが、大人のたしなみで
はないだろうか。
昭和の中頃までは「人生五十年」だった。今は「人生100
年」などと言う。
「人生100年」になって、日本人は昔よりしあわせになっ
たのか?
私は、何かをはき違えていると思う。
昭和の中頃、禅僧の沢木興道老師はこんな言葉を残してい
る。(やたらと「長生き、長生き」などと言う人に対して)
「まるで、“長生きしたい病” じゃな」。
今回の騒動がさらにきつくなれば、仕事を失う人が沢山出
るだろう。そのために自殺する人が多く出て、その数はすぐ
に “新型コロナウイルス肺炎” の死者を上回るだろう(統計
には出ないだろうが)。子供の貧困も増加するだろう。医療
崩壊でも起きれば、コロナ以外の病気やケガで医療を受けな
ければならない人がそれを受けられずに死んだりもするだろ
う。
ウイルスによる肺炎は自然の範疇だが、その狂騒から派生
する不幸は、人為によるものだ。
人は、自然がもたらす不幸は辛くても受け入れざるを得な
いだろうが、人為がもたらす不幸はどうしても受け入れがた
いものではないだろうか?
今回世界中で行われていることは、人間の尊厳を守る行為
ではないだろう。表面上は「人の命と健康を守る」と言いな
がら、その実、守りたいのは「エゴ」だ。
わたしたちは自然の一部であり、わたしたちは「死」から
生まれてきた。それを無視すると、人の困難は増すばかりだ
ろう。アタマが悪いよ・・・。
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