2024年3月13日水曜日

「反戦」という戦い



 ほとんどの戦争は、(あらゆる意味での)資源とそれが有

る領土を求めて行われるものだけれど、その本質は「否定」

と「対立」ということだろう。一方からの「否定」を受け

て、もう一方からも逆に「否定」が立ち上がり、「対立」が

生まれる。戦争に限らず、すべての争いは「否定」と「対

立」なのだが、人が否定することをやめられれば争いは無く

なる。しかし、人は否定することがやめられない。


 今日のテーマは「反戦」で、それは「戦争の否定」という

ことなので、「反戦」することは違う戦いを生み出すという

可能性を持つ。それは小さな戦いかもしれないが、人間のエ

ゴはそれをねじれさせ、拡大させ、新たな戦争へと進ませる

だけの愚かさを充分備えている。


 そう考えてみて、「解戦」というような言葉が頭に浮かん

だ。そういう日本語はないけど、「戦いを無効化する」とい

うような意味合いです。

 「否定」「対立」「戦い」を無効化するすべはないのか?

 その鍵は「人は否定することがやめられない」というとこ

ろに有りそうだ。


 自分が「否定する」こと。

 自分が「否定される」こと。

 そのどちらをも解消する方法があるような気がする。


 他者を「否定」するのは、自分が「安定」したいから。

 自分が「否定」されて不安になるのは、「安定」がぐらつ

くから。

 ならば、誰もがぐらつくことのない「安定」を手にすれ

ば、他者を否定することはなくなり、自分が否定されて不安

になることもないので、対立は生まれないだろう。しかし、

そんな「安定」があるのだろうか?


 ある。

 ただし、それは社会の中にも自分の中にも無い。

 そもそも、「安定」というものは社会と自分の外にしかな

い。
 

 社会の中から争いをなくそうとしてもムダだ。それは不可

能だ。社会は安定することがない。エゴとエゴとのせめぎあ

いで常に揺れている。ただ、個人がその争いに飲み込まれな

いでいることはできる。たとえ社会的な立場や物理的な意味

で争いの中に居たとしても、そこで「安定」を望まなければ

いいのだ。どうせそこには「安定」はないのだから。

 「安定」を望まなければ、原理的に「不安」は消える。状

況を評価する意識も消える。そして、ただ状況に身を任せ

る・・・。

 その態度は個人の意識を社会(人間関係)の外に立たせ、

本当の「安定」をもたらすことになる。そうなれば争いの只

中に居ながら、争いに巻き込まれていない。


 そのようにして、争いの中に居ながら不安を持っていない

人がそこに居るとき、周りの人は「否定」することの意味を

喪失し始める。

 「否定」し、争うことによって相手が不安定になってくれ

ることで、相対的に自分が「安定している」と錯覚できるは

ずなのに、相手が超然としていたのでは自分が「安定してい

る」と感じられない。むしろ、自分の方の不安定さが露わに

なってきて、争うこと、否定することを続けるのが辛くなっ

てしまう。エゴとエゴのせめぎあいは破綻する。


 戦いに反対したり抵抗しても、戦いは消えない。戦いを本

当に消す可能性があるのは、戦いを傍観し、問題視しないこ

とだけだろう。それは個人レベルでは間違いなく有効だ。け

れど、戦争のように大きな戦いに効果を上げるには、数万

人、数十万人規模の傍観者を必要とする・・・。ほとんど不

可能だろう。けれど「反戦」という戦い(活動)の方には、

その可能性はゼロだ。違うだろうか?




2024年3月6日水曜日

戦争について妄想します



 ウクライナでもガザでもまだ戦争をしている。どちらもア

メリカの関りが大きい。第二次大戦以降、世界の戦争にはほ

とんどアメリカが絡んでる。戦争は、アメリカという国のア

イデンティティを成立させるために、なくてはならないんだ

ろうな。困った国だ。

 アイデンティティのことだけでなく、経済の面でもアメリ

カにとって戦争は欠かせないのだろう。そして、それは他の

国についてもいえるようだ。


 世界の国防費は GDP の2.2%らしいけど、それは世界の経

済活動の少なくとも2.2%は「軍事」という経済活動だという

ことだろう。それは世界の労働人口の少なくとも2.2%は「軍

事」に関わる仕事で生計を立てているということでもあるだ

ろう。


 「武器商人」とか「死の商人」とかいう言葉が有って、

「戦争で肥え太る悪人」のようなイメージがある。実際にそ

ういう人間もいくらかはいるのかもしれないが、「軍事」に

関わる仕事をしている人のほとんどは普通の労働者だ。もし

も世界から戦争がなくなると、世界の労働人口の2.2%が職を

失う可能性がある。なので戦争をなくしたければ、その人た

ちに仕事を用意しておかなければならない。

 世界人口は80億人だから、労働人口は50億人ぐらいだ

ろうか?その2.2%だから、1.1憶人ぐらいの人になんらか

の仕事を用意する必要がある。これはなかなかに大変なこと

なので、「軍事」が経済の中で重要な産業である国では、こ

れまで通り軍事産業を維持したいだろう。なので、どこかで

戦争が起きていてくれるほうが都合が良いのだろうと思う。

そんなことを考えていると、つい陰謀論的な妄想をしてしま

う。


 米・ソの冷戦時代に、世界の緊張感の中で肥大した軍事産

業は、各国の重要な経済活動の一つになってしまったので、

これを衰退させるわけにはいかない。そこで、時々どこかで

戦争をしてもらう必要がある。平和になるとどの国も軍事費

を減らすからだ。

 戦争をしてもらって、それを世界に報道してみんなが不安

になってくれれば軍事産業は安泰だ。


 世界には憎み合っている国や地域が沢山あるので、そうい

うところにいる単純なサディストや金が欲しい連中に、武器

を渡してちょっとお尻を突っついてやれば、すぐに騒ぎを起

こしてくれて、憎しみに火が付き、紛争は起こせる。そうし

てそこそこの紛争・戦争が起きれば、古くなった武器の在庫

処分と新しい武器のプレゼンテーションができるし、それを

広く報道すれば世界が不安がってくれるので、新しい取引き

が生み出せる。一石三鳥だ。

 ベトナム戦争までは、まだ縄張り争いと思想・宗教的な理

由の戦争だったのだろう。それ以降の戦争・紛争にも当然そ

の要素はあるだろうけど、それに加えて、今では軍事産業を

存続させるということのために仕掛けられたものでもあるん

じゃないだろうか?


 先に書いたように、これは妄想です。けれどね、たとえば

ユニセフの宣伝で「紛争で苦しむ子供たちのために支援

を・・」とかいうのがあって、それを見ていていつも思うこ

とがある。

 ユニセフは国連の機関だけど、国連の常任理事国には武器

輸出国の上位の国が顔を並べているわけですよ。ユニセフが

子供たちが紛争で苦しむのをなくしたいのであれば、「ご支

援を・・」という宣伝をする前に、真っ先に各常任理事国に

「武器の輸出をやめろ」と言えばいい。国連の組織なんでし

ょ? なぜしない? まぁ下部組織だから言えないわなぁ。じゃ

ぁユニセフのやっていることは何なんだろう?

 そういう現実を見ていると、「ふざけてるな」と思い、つ

い妄想してしまうわけですよ。


 普通の人の2.2%が戦争に関連した仕事をして暮らしを成り

立たせている・・・、そんなことを考えると、単純に「戦争

をなくせ」なんて言ってみてもね・・・。

 戦争はなくなってほしい。けれど、あまりにもさまざまに

根が深いのでなくなるとは思えない。


 長くなったので、続きは次回に。

 反戦について書こうと思います。


2024年3月4日月曜日

自惚れられない ~信仰の神髄~





  この前、日本人がやたらと「お辞儀」をすることについて

考えていて、日本人にとっての「神」と、キリスト教などの

一神教の「神」の違いに気が付いた。


 日本では、教えも無く、姿も無い、なんだか分からない

「神」に対してとにかく頭を下げる。日本人にとって「神」

は上にいるもの。なんだかわからないけれど、日本人は「自

分より上の存在がある」という意識を根底に持つので、それ

を「神」とし、頭を下げ、へりくだる。そのため「自分が一

番」などという発想は持ちにくい。他宗派・他宗教について

も、同じように「神」より下の存在だと感じるので、同じ立

場の者として折り合いがつけられる。「自分が正しい」とい

う自己主張もしにくい。


 それに対してキリスト教などの「神」は、教えを与え、使

命を与えるもので、信仰者の後ろにいる。彼らは「神」とい

う後ろ盾がいることで、堂々と「自分たちは正しい!」と主

張することができる(もちろん、自分たちに都合がいいよう

に「神の教え」を解釈したうえでですが)。その一方、相手

に譲ろうとして退こうとすれば、後ろには「神」が立ちふさ

がっているので退くに退けない。なので、争うことになる。

なにせ、彼らは “神の代弁者” なのである。お互いが “代弁

者” なのに、意見が違って争ったりするのが不思議なところ

ではあるが・・・。

(余談ながら、欧米の過激な主張をするポリコレやビーガン

やエコロジストなんかは、キリスト教の新しい宗派とでも考

えていいのかもしれない)


 日本の「神」というものは、「思い上がって自惚れちゃい

けないよ。自分の立場をわきまえて、そのうえで “良く生き

よう” としなさい」と伝えているのだろう(と思うが)。

 冷静に考えれば、自分に惚れることなんてできるはずがな

い。こんなに不完全なのになんで自分に惚れられる?


 「自分」という出来損ないに自惚れていては、ロクなこと

にならないと感じるのは自然なことだ。ところが日本人であ

るわたしたちもすぐに自惚れる。エゴは自分が大好きで、自

分が出来損ないであることを酷く恐れるからだが、残念なが

ら、その恐れを払うところまで「神」はサービスしてはくれ

ない。


 一神教の信者は「神」の教えを都合よく歪曲して、自惚れ

るために「神」を後ろ盾にする者が多いように感じる。けれ

ど一神教の信者でも、自分の不完全さをごまかせなくなれ

ば、振り返って「神」の前にひざまずき、本気で赦しと教え

を乞うだろう。その時、本当に「神」と対峙することにな

る。


 「神」に対峙する時は、頭を下げ、頭を空っぽにして、命

乞いさえあきらめて、その身を投げ出す。

 信仰の神髄とはそういうことだろう。


 主は うつろな容器を見いだしたもうとき

 そこに祝福を入れたまう
                    ヒルティ


 ヒルティはスイスの哲学者で敬虔なキリスト教徒でもあ

る。彼は「神」と対峙し、「神」の祝福を受けたのだろう。


 私は「神」というものが存在するのかどうかは知らない。

 ただ、自分が、自らの意志で、自らの力で生まれてきて、

自らの力で生きていると思うことなどできない。それをさせ

ている何らかの力があるとしか思えない。それを「神」と呼

んでもいいし「仏」と言ってもいい。他のどのような言葉で

呼んでもいいけれど、そこにわずかばかりでも自惚れのため

の意識が混ざっているのなら、それは「神」でも「仏」でも

ない。


 ヒルティに異議を唱えるのではないが、自惚れを捨て、う

つろな容器になったとき、そこに「主」が「祝福」を入れる

のではないだろう。「祝福」が「主」そのものであり、「祝

福」は常に私たちの中に満ちている。単に、自惚れが邪魔で

「祝福」に気付けないだけなのだ。






 

2024年3月3日日曜日

「分からない」という分かり方



 橋本治さんの本に『「分からない」という方法』というの

があって昔読んだのだけど、内容を全然憶えていない。たぶ

ん、今回書こうとしている話とは違っていたと思うけど、ど

うだか分からない。かぶってたらゴメンナンサイということ

で・・・。


 わたしたちは「分かろう」とする。いついかなる時も「分

かろう」としている。それは生きて行くためであり、しあわ

せでありたいという希望ゆえでもあるだろう。けれど、「分

かろう」とすることが、多くの悩みを生む。「分かろう」と

することが生きることを台無しにしたりする。


 「分かろう」とすると、そこには必ず「分からない」が立

ち現れてしまう。それは原理的に避けられないので、「分か

ろう」とするわたしたちは、常に「分からない」という壁に

アタマをぶつけることになる。


 わたしたちはこの世界に「分からないこと」が沢山あると

思っているけれど、「分からない」から「分かろう」とする

のではなくて、「分かろう」とすることで「分からない」が

発生するのです。

 例えば私の場合、道端に生えている見慣れない雑草を見て

「これ何かな?」と思ったりするけれど、普通の人は道端の

雑草の名前なんて意識しないので、「(名前が)分からな

い」という事態は発生しない・・・、というようなことです

ね。自分が「分からないこと」を生み出しているのです。


 そこで、「分からない」という壁にアタマをぶつけないた

めに「分からないままにしてみる」というアプローチを提案

したい。

 もちろん、お金の計算をしたりする時に「分からないまま

にしてみる」というアプローチをしてはいけない。そういう

世の中の些事については分かって下さい。私が提案したいの

は、「人生」だとか「この世界」だとか「死」だとかいうよ

うな、「分かりにくい」ものや「分かりそうにない」ものに

対してのことです。


 「分かりにくい」

 「分かりそうにない」

 だったら「分からない」ままにする。

 だったら「分かろうとしない」。

 それでどうなるかというと、〈分かる〉。


 とはいっても、この〈分かる〉は普通の「分かる」ではな

い。物事を理知的に「分けて」一応の安心を得るのではなく

て、「分けない」ことで、そのことをまるごと感覚的・直感

的に「知る」ことです。


 わたしたちが「分かろう」としている時は、自分が分かり

たいように「分かろう」としているのです。無意識に想定内

に収めようとするのです。結果、「分かったつもり」になる

だけです。言葉の組み換えや、思考のお遊びに終わります。

そのために「分からないこと」が意識のどこかに残り続け

て、場合によれば腐臭を放つようなことが起こります。


 なので「分かろうとしない」こと。「分かったつもり」に

しないこと。

 なげやりにではなく、「分かろうとしない」ことに積極的

であり、「分からないまま」で受け入れること。それは、も

っとも謙虚な姿勢でもあります。


 世界が分からなくて当たり前です。わたしたちは世界から

生み出された「世界より低次の存在」ですからね。

 そもそも「分かる」というのは、「自分が納得できるスト

ーリーを採用する」ということでしかありません。本当は何

も分からないままに生きているのです。それは何も分からな

くても生きていられるということでもあります。


 何も分らなくても生きていられるのだから、分かろうとす

る必要は無い。それなのになぜ「分かろう」とするのか?ア

タマの悪癖です。病気です。「分からない・・・」と勝手に

不安がって、悩んで、都合の良い解釈をして、物事を面倒に

します。放っておいたらいいのに・・・。


 わたしたちが分かろうとすべきなのは、具体的に自分の身

に起こった出来事に対してだけでしょう。それ以外は分らな

くても生きている。心臓は勝手に動いている。(遊びとして

「分かろうとする」のは楽しいですけどね)


 〈 下手(へた)の考え休むに似たり 〉


 わたしたちのアタマはそもそも下手(へた)なのです。出

来が悪いということもありますが、身体よりも下手(した

て)の存在でもあります。自然・地球・宇宙に比べれば、さ

らにさらに下手(したて)なのです。なのにアタマは「自分

が世界の中心」のように思ってしまう。思い上がりに気付か

ずに余計なことをする。少しばかりの成功体験でうぬぼれ

て、エキスパートの忠告を聞かずに事故を起こす者のよう

に・・・。


 分からない。

 分らなくていい。

 「分かっておくべきこと」でも、分からないときはしよう

がないのだから、分からないままでいい。そんなこと身体は

気にしていない。(人間の以外の)世界は気にしていない。

気絶したって、さしあたり生きているんだから。


 「分からなくてもいいんだ」

 そう分かっておくことは良いことだと思いますね。


 


2024年2月26日月曜日

異常が普通で、普通が異常?



 近所の家に植えられてる沈丁花が花を開いている。センニ

ソウやアジサイの芽も伸びだし、もう春は始まっている。

 何日か前はかなり気温が上がって4月並みだったとか。今

日は肌寒くて、4日後ぐらいには最低気温が0℃ぐらいにな

る予報。まぁ “三寒四温” というこの時期にありがちなことだ

と思うけど、この程度のことで「異常気象」ということを言

う人が結構いる。小学生ならともかく、結構な歳の人が口に

するので驚く。これまでの人生経験でこの程度のことはあっ

ただろうに・・・、洗脳されてるんだなぁ。


 地質学や考古気象学で、氷河期について研究している人た

ちは、そう遠くない将来に通常通り「氷期」が来ると考えて

いる人がほとんどだろうと思う(確認は取っていないけ

ど)。けれどそういう話はほとんど世に出ない。世の中は通

常の中の小さな「異常」が大好きだ。

 「異常」といっても、「異常と思われること」を取り上げ

て話題にするだけのことで、本当に異常なわけではない。

「雨が地面から空に向かって降る」ようなことはない。


 考古気象学、地質学の常識からすれば、過去100万年ぐ

らいの気象サイクルを考えるといまの間氷期はもう終わりか

けていて、もうすぐ氷期になるはずだが、人々はそれを望ん

でいない。間氷期が終わらないという「異常気象」を望んで

いる。ご都合主義だなぁ。


 その時々に「異常が普通」で「普通が異常」だと、自分の

都合次第で決めるのがわたしたちのアタマの得意技。これは

人類が滅びるまで変わらないだろう。

 人次第で、社会情勢次第で、異常が普通になり普通が異常

になるので、社会のことに公然と意見を言う気になれない。

そんなことに関わると酷い目に遭うのが目に見えている。な

ので、ネットの辺境で憂さ晴らしをしている。


 異常も通常もないだろう。すべては「そういうもんだ」と

いうだけだ。

 人間の為に世界があるわけじゃないし、ましてや一個人の

為に世界があるわけがない。人間の社会というものも個人の

為にあるのではないのだから、社会で起こることが異常だと

思えても、さほど驚くことでもないだろう。そういうもん

だ。

 どれほど自分に都合が悪くても、起こることは起こる。そ

れをいちいち嘆いていてもつまらない。そういうもんだと受

け止めてしまえば気楽なものだし、そうせざるを得ない。


 人間の愚かさのせいで気候変動が起こるとしても、「人間

は愚かだからしょうがない。そういうもんだ」と受け止める

しかない。だって、どう考えても愚かさがなくなるとは思え

ない。

 私の予想外に人が賢明になったとしても、それはそれで結

構なことだから、それならそれで大歓迎。でも「日暮れて道

遠し」という感は否めない。


  この夏が 雨か日照りか知らねども 

  今日のつとめに 田草取るなり


 いい歌だなぁと思う。

 いま風にするとこんな感じになる。


  給料が 上がるか下がるか知らねども 

  今日も朝から 顔洗うなり


 都合が良かろうが悪かろうが、さしあたり生きて行くのな

ら機嫌良く生きる。

 それが普通というものではなかろうか?


                       
     カンサイタンポポです
     神戸ではとても珍しくなった
      
  

2024年2月25日日曜日

選択という不自由



 欧米人は何かといえば「選択」という言葉を使う。なんで

も自分で決めて、自分で選ばなければ気が済まないらしい。

「おかげさま」とか「ご縁」とか「その場の空気」なんてこ

とを口にする日本人からしたら、「なんかキツイなぁ」とい

う感じがする。


 私なんかは、この世界は「縁起」によってできていると思

っているので、自由意志なんか無いという立場だし、《 世界

は惰性で動いている 》なんてことも口走る人間なので、欧米

人がやたらと「選択」と言うのには、いつも鼻白む。「ちょ

っとは深く考えてみろよ」などといつも思いながら、かれこ

れ20年以上にはなるだろう。「個人主義だからなぁ」なん

て思っていたのだけど、最近、彼らが「選択、選択」と口走

る理由に思い当った。彼らには『最後の審判』があるのだ。


 『最後の審判』において、善い行いをして来た者は天国

へ、悪い行いをして来た者は地獄へと振り分けられるそうな

ので、善い行いをするように自分で「選択」をしなければな

らないのだろう。彼らにとっては、何を選びながら生きてい

行くかはとても重要で、毎日々々がテストのようなものなの

だろう。なので「どっちでもいい」なんて無責任なことはで

きないということのようだ。

 私の考えのように、人がどのような生き方をするかは「縁

起」によるもので「自由意志」など無いとなれば、どんな生

き方であれ自分のせいではないことになるので、『最後の審

判』が成り立たなくなるから、彼らはそんなこと考えもしな

い。そんなことを考えてしまうと、彼らの社会の根幹が揺ら

ぐ。なので、なんでもかんでも「選択、選択」・・・。


 『最後の審判』に備え〈「自由意志」によって、「選択」

して、自分の運命を決めて行く 〉という意識が深層心理に深

く刷り込まれているのだろうけど、それは〈 「選択しなけれ

ばならない」という運命によって、「選択しない自由」が許

されない 〉ということで、「なんとも不自由で選択肢の無い

社会だなぁ」と思う。

(ちょっと、イジワル過ぎるかな?こういう宗教的な話を茶

化すと、どこかから脅迫文が来そうで怖いけれど、まぁ、こ

こはネットの辺境だから大丈夫だろう・・・、ということで

先へと進みます)


 日本人の欧米コンプレックスもかなり長いので、今では

「自分で選ぶ」とか「自分で運命を切り開く」みたいなこと

を考えてる日本人がほとんどなのだろうけど、それは「自

由」ということではない。くどいけれど、わたしたちに「自

由意志」は無い。


 「選択する」ことも、「選択しない」ことも、世界の働き

によってそのようにさせられているというのが事実です。そ

こに選択の余地は無い。

 選択の余地など無いのです。人生は1mm の隙間もなく

「さだめ」で埋めつくされているのです。1秒たりとも自分

の時間は無いのです。


 そんなことを言われると「それじゃぁ、生きている意味が

無い」とか人は思う。牢獄に閉じ込められているような思い

になるかもしれません。けれど、人生が「さだめ」に埋め尽

くされているのなら、こんな気楽なことはありません。だっ

て完璧に至れり尽くせりなんだから。


 随分前に〈 自由とは、何もしたいことが無いということだ 

と書いたことが有ります。「何もしたいことが無いという

のは、満たされているからだ」と。それは「何もする必要

無い」ということでもあります。

 人生が「さだめ」に埋め尽くされていれば、何も気に病む

必要は無い。気を揉んでも意味が無い。「気に病む」ことも

「気を揉む」ことも、それも「さだめ」だと心得ていれば、

何の気遣いも要らない。すべて「お任せ」で、心は解放され

ます。自由です。それは〈 自由意思 〉です。「自由にできる

意志」ではなくて、「自由である意思」です。

 あらゆる責任も義務も人生からの要求や圧力も、すべては

「さだめ」の中に有って、「さだめ」に任せておけます。こ

んな清々とすることはない。


 「選択の自由」などありません。あるのは「選択できない

という自由」です。

 アタマの語る物語だけに目を向けていては気付けません

が、わたしたちは決定的に自由です。その自由を意識できる

かどうかも選択できないのですが・・・。




 

2024年2月23日金曜日

「嘘か本当か?」 ?



 Open AI の開発した生成 AI が文章から作ったという動画

がリアル過ぎて話題になっているね( “メディアが話題にし

ている” という方が正しいだろうけど)。「何が本当か分か

らなくなる・・・」と問題視する声があるけれど、そもそも

情報に本当のことが有ると思っていること自体が問題だとも

思える。

 本当とはなんなのか?

 嘘とはなんなのか?

 この機会にそんなことを考えてみるのも良いんじゃない

か?


 たとえば、ウクライナやガザで起きている戦争についてい

ろいろな報道がされ、ネット上に情報が入り乱れるけれど、

そんなことを頼りにして、事の真相を知ろうなんてバカげて

る。たった一つの情報でも、その真偽を知っているのは当事

者だけで、情報としてそれを受け取った側に出来るのは、信

じるか信じないかだけだ。

 時間的・距離的に一番近い人であってもそうなのだから、

メディアやネットを通じて情報を受け取った人間が「信じ

る」「信じない」なんて、もはや信仰レベルだろう。

 「信じる」「信じない」ではなくて、「関係ない」という

のが本当でしょう。情報というものは「関係ない」ものだと

わきまえておくのが健全であるように思う。情報って、ほと

んどすべてはわたしたちの暮らしに関係ないでしょ?


 「この周辺で熊が目撃されました。危険ですので、しばら

く外出は控えるなど注意して下さい」という警察からの情報

みたいなものでもなければ、情報なんて関係ない。

 生活に直接関わるようなものでなければ、情報なんて嘘で

も本当でもどっちでもいいでしょう。


 AI が作った動画でどこかの大統領がしゃべっていようと、

そんなの気にする方がおかしい。ところがわたしたちは骨の

髄まで、情報に関わるように仕込まれているので、いちいち

関係ないことに関係を持とうとする。関係があるかのように

思い込んで、トイレットペーパーを買い溜めしようとホーム

センターに急いだりする。そういうのを “関係妄想” という。


 戦争が起こったり、景気が良くなったり悪くなったりする

のも、元をただせば、ひとりひとりの “関係妄想” から始まっ

ていて、さらにその元は “情報” という刺激です。


 妄想から情報が生まれ、情報から次の妄想が生まれる。

 それが果てしなく広がって世界が実際に変化し、その変化

があらたな妄想と情報を生み、世界は妄想的なものになって

ゆく・・・。

 それを止めることはできないけれど、私はできるだけ巻き

込まれたくない。だから関係ないものは「関係ない」とす

る。世の中なんて、たしなむ程度にする。


 1400年も前に聖徳太子が「世間虚仮」と言っている。

情報を発信している「世間」というもの自体が作り物なんだ

から、情報が嘘か本当かなんて関係ない。


 私は別に聖徳太子を信じているわけではない。単に同意し

ているだけです。「そうですよねぇ」と。

 でも「そうですよねぇ」という私の考えは、これまでに私

が接して来た情報によって出来上がっているものなので、そ

の考えも妄想ではある。人はそれぞれに、それぞれの妄想の

中で生きるしかないけれど、その妄想は人に安らかさをもた

らすものであるべきではないだろうか?

 「世間虚仮」という妄想は私を安らかにしてくれる。


 《 社会は安らぎを嫌う 》と以前書きましたが、社会から発

せられる情報というものは、人を不安にさせ、そわそわと浮

足立たせ、懐疑や憎しみを引き出すものがほとんどですか

ら、「世の中自体が作り物だ」と理解していることは、安ら

ぎに繋がります。


 「そもそもウクライナやガザで戦争なんてやっているの

か?」とも思います。まぁ本当にやっているんでしょうけ

ど、なんで、わざわざ地球の裏側まで心を出張させて気を揉

まなければならないのでしょうか? 当事者が人と仲良くしよ

うとしないせいなんですから、自分たちで何とかすればいい

のです。関係ないですよ。


 こういうもの言いに対しては「人が死んでるんだぞ!殺さ

れてるんだぞ!」と怒る人も普通にいるでしょうけど、たと

えば2021年には、世界で45万8千件もの殺人事件が

きているという情報がある。けれど、そういう話はほとん

メディアが取り上げない。つまり情報として広く報じられ

いないので、わたしたちは知らない。

 それに対して戦争の死者数が逐一報じられたりするのは、

戦争がとても政治的なものであるゆえに、国家間あるいは民

族間などの政争の手段として情報が利用されるからです。そ

のような情報に直接関係のない者が首を突っ込んでも、ロク

なことにはならないでしょう。


 〈ヒューマニズム的思考〉とでも言うような怪しいアプリ

をアタマにインストールされて、妄想のプログラムがすぐに

動き出してしまうようになっているのが、現代人というもの

でしょう。そして関係ないのに関係を持とうとするので、妄

想から生まれた理不尽がさらに増悪してしまう。


 いまわたしたちは、「関係ない」という態度をとることに

ついて、強く規制されている。「関係ある」と何にでも首を

突っ込むことの弊害と不自然さは、不問にされたまま・・。

社会は安らぎを嫌いますからね 💣