2018年7月14日土曜日

キレイごとを言う


 世の中には “キレイごと” を言う人が居る。その一方で

「キレイごとを言うな!」と言う人が居る。私は “キレイご

と” を言いたい方です。



 「キレイごとを言うな!」という人に対しては、「じゃ

あ、あなたは “汚いごと” が好きなのか?」と言いたくな

る。だれだってキレイな方が好きだろうと思うから。



 「キレイごとを言うな!」と言う人は、“キレイごと” に

関わるのが面倒くさいか(“キレイごと” を維持するには、

かなりエネルギーが要るように思えますからね)、自分がい

ままで “キレイごと” に出会えなかったり、自分の発した 

“キレイごと” を踏みにじられたという経験があるのでしょ

う。で、「“キレイごと” は絵空事だ」と思っているんでし

ょうね。

 でもね、“キレイごと” は言うべきだと思うし、出来るだ

け実現すべきだと思います。だってキレイな方がいいでし

ょ?

  “キレイごと” を言いましょう。そして、出来るだけ実

現させましょう。ただし、〈事実〉を踏まえた上でですけ

ど・・・。


 こんな言い方をするということは、「事実を踏まえていな

い “キレイごと” が多い」と、私が思っているということで

すね。

 実のところ「事実を踏まえていない “キレイごと” 」を言

う人間が多いことが、「キレイごとを言うな!」という人間

を生み出す、大きな原因になっているんですね。


 「事実を踏まえていない “キレイごと”」は “絵空事” で

す。そんなものに関わり合ってしまった人が、 “キレイご

と” に嫌悪感を抱くようになったとしてもしょうがない部分

があります。そして世の中には 、“絵空事” でしかない「事

実をふまえていない “キレイごと”」が多すぎるんですね。

 そして、そういった「事実を踏まえていない “キレイご

と”」のほとんどは、〈ヒューマニズム〉の上に発生して来

ます。そして多くの場合、『人の命は地球より重い』という

常套句を免罪符にして発せられ、〈違う意見・考え方〉を封

殺します。「じゃあ、人が死んでもいいのか!」と言われれ

ば、非常に物が言い難いですからね  近年は『地球環境を

守れ!』と、〈エコ〉を立てて来ることも多いですね。

 そうして、〈ヒューマニズム〉に立脚した “キレイごと” 

は、有無を言わせぬ正当性を持って世の中を通って行く事に

なります。その陰でどんな問題を引き起こそうとも・・。


 私は《ヒューマニズムが人類を滅ぼす》と思っているんで

す。

 なぜなら〈ヒューマニズム〉というものは、“個人” とい

うものの価値を極限まで重要視した〈エゴイズム〉だからで

す。『人の命は地球より重い』  個人を極限まで重要視し

ているでしょ?

 そして「地球環境が悪化すれば、人間も死んでしまう」と

か、「ホッキョクグマもクジラも人間の仲間だ!」とかいう

のも、〈ヒューマニズム〉のアレンジなんですね。「人間の

仲間」とみなしたものには、〈ヒューマニズム〉を適用する

んです。

 その一方では、蚊やゴキブリやヒアリなんかは「絶滅して

くれればいい」と思っているのでしょう。同じ生き物なのに

ね。


 結局、人間の都合でものを言っているだけなんですよね。

 「気に入らない奴は消えて無くなればいい」

 「気にいることは大事にしなければならない。そのために

は、そこにどんな問題があろうと関係ない。

 それが、〈ヒューマニズム〉における “キレイごと” の本

質でしょうが、言う方は「人類の為、地球の為」だと思って

る・・・、無意識レベルでは自分のウソに気付いていそうで

すが。


 と、このような事を書くと、「じゃあ、お前は人が死んで

も、ホッキョクグマが滅んでもいいんだな!」と言われるこ

とになるんですが、私はそんなことは言ってませんね。今の

ところは。


 実のところ、私は「人が死んでも、ホッキョクグマが滅ん

でもいい」とは思っています。ただし、「それが人間の〈エ

ゴ〉によるものでなければ」ということが前提です。

 さらに、こうも思っています。「〈エゴ〉の価値を担保す

る為に、“人の命” や “他の生き物の命” や “地球環境” をダ

シにするんじゃない!」と。


 『人の命は地球より重い』と言う人は、当然ながら「わた

しの命も地球より重い」と思っています。それとともに「わ

たしは人の命を何よりも大切にする良い人間だ」という自己

肯定に酔うのです。

 「わたしは『人の命は地球より重い』と知っている良い人

間であり、地球より大事にされてしかるべき、価値のある人

間である」

 それがヒューマニストの本音だろうと私は思っています。

 自分の価値(エゴ)を自分で確認し、社会にも認めさせる

為に、『人の命』や『地球環境』という “黄門様の印籠” の

ようなものを振りかざすのであって、ほんとに大事なのは、

彼ら自身でしかないのです。


 そしてその様な人間の言うことに対して、根拠のある  

検討してみるべき理由の有る  反論をすると、非常に怒り

ます。自分(エゴ)の正当性を担保したいが為の言い分です

から、もともと事実に即していない所があって、そこを突か

れると、考えてみようとはせずただ感情的になります。

 ほんとうに「人の為」や「環境の為」であれば、違う意見

が有れば検討してみるのが筋と言うものなのにね。


 〈ヒューマニスト〉やそれが形を変えた〈エコロジスト〉

は信用しませんね。


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 そもそもこの話のきっかけは、『スターバックスがプラス

ティックストローの使用を辞める』というニュースを知った

ことです。

 「割り箸バッシングみたいだなぁ」と思い。

 「日本でも、同じことを言い出す輩がいるんだろうなぁ」

と思いました。

 しかし、私が不思議なのは、「なぜ、ストローが大量に海

へ出てしまうんだ?」ということです。

 「ストローを規制するより前に、ゴミの始末をちゃんと出

来る社会にすべきじゃないの?」


 使ったストローなんかを何処へでもポイポイ捨てるから、

そんなことが問題になるのだとしか思えません。ですから、

この件は日本では問題にならない事だと思いますが、「プラ

スティックストローを使うのをやめよう!」と言い出す幼稚

で短絡的な〈エコロジスト〉が出て来るんだろうなぁ・・。

その時は、笑っちゃおう。

 「プラスティックストローが与える環境負荷よりも、紙製

ストローを製造・流通させる環境負荷の方が大きいかもしれ

ない」ということを誰も検討しないまま(検討する事を許さ

ないまま)、“プラスティックストローバッシング” は熱を

帯びて行くのでしょう・・・。ああ、気持ち悪い・・・。

 “キレイごと” は事実を踏まえて言いましょう・・・。


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 私の言いたい、私にとっての “キレイごと” は、『キレイ

に生きて、キレイに死のうよ!』ということなんです。言い

かえれば『ワガママを言うな』ということですね。
 

 世界は人間の為にあるんじゃない。

 世界は人間の都合に合わせて動くものではない。


 その事を踏まえた上で、謙虚にものを観て、その上で “キ

レイなこと” を言おうと。


 『人の命は地球より重い』

 地球が聞いたら吹き出して笑うでしょう。

 「おいおい、お前何様のつもりなんだ? お前はわたしの

一部に過ぎないんだよ!」そう言いそうです。


 『人の命は地球より軽い』

 それが事実でしょ?


 カッコイイことを言うのもいいけど、カッコつけることに

のぼせてると、話が浮いてしまって物事の本質がなおざりに

なってしまう。

 なにも、死ぬことだけに限っているのではなくて、『人の

思い通りにならないことはいくらでも有る。それらの事を、

個人としても、社会としても、キレイに受け止めて行こう

よ』ということなんです。


 「キレイに受け止める」とはどういうことか?


 自分(人間)の都合に合わせて世界の方を変えようとする

のではなくて、「自分の方が上手に変わろう」「自分が合わ

せてゆこう」ということですね。

 だから、私の言う “キレイごと” には、力強さはありませ

ん。 「あの~、できればなんですけど・・・」といった文

脈で発せられることになります。

 「できれば、命を助けてあげるようにしたいね」とか、

「できれば、仲良く生きてゆきたいね」といった感じです

ね。

 そして「思い通りにならなくても、そういうもんだから仕

方ないよね」というあきらめをベースにして、「できれば、

自分の事は後回しにして生きよう」という態度になります。


 “キレイごと” というのは、要するに「自分の事は後回

し」ということなんですけど、『命』というような事柄を免

罪符にして強く迫って来るような “キレイごと” は、「自分

の事を後回し」にしているように見えて、実は “偽装された

エゴ” と見て間違いはないでしょうね。ほんとは全然キレイ

じゃない・・。


 本当に実のある “キレイごと” は、前に出て来て何かをし

ようとするものではなくて、何かを生かす為に自らは後ろに

引こうとするもんだろうと思います。

 (アグレッシブな言動というものは、すべてエゴによるも

のです)


 『環境』の為には、何かをするのではなくて、何かを辞め

るだろうし、『命』を活かす為には、「生きてるものは必ず

死ぬ」ということを受け入れる・・・。

 そうしないと、『命』を守れなかったときに〈恨み〉が生

まれてしまう。〈恨み〉が生まれる事は、世界にとって決し

て良いものではありません。

 〈恨み〉とは、「自分の望み通りにならなかった事への怒

り」であり、エゴの作る “毒” です。

 その毒は自分を損ない、世界にも悪影響を与えます。


 人は、やはり他の生き物とは違います。その特質として 

“キレイごと” が言える  自分の事を後回しに出来る  

ということは特筆すべきことです。

 人であるならば、“キレイごと” が言えるべきです。それ

は人としての喜びともなります。けれど、そこにはエゴの罠

が張られています。
 

 “キレイごと” を言いましょう。

 ただし、細心の注意を払って、アタマに悪さをさせないよ

うに・・・、エゴの手口に乗らないように・・・。

 人として生まれた喜びを持つ為に。



 とか、何とか、長々と語りましたが、読み返してみると、

話の筋道がグチャグチャですね。でも、これは論文ではあり

ませんし、居酒屋でのヨタ話のようなものですから、それで

もいいんです。気分が伝わるなら、それで OK !

 気分が伝わらなくても、それはそれで OK !

 「『正論』の “正しさ” も、人の都合次第なんだ」という

疑いを抱かせたら、充分でしょう。








 

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