浅原彰晃たちの死刑が執行され、浅原の遺骨を誰に引き渡
すのかなどということが取り沙汰されているけれど、誰の手
に渡ろうがあまり違いは無いように思う。どうするのが最善
かなんて、誰にも分からないし。
今までにも〈オウム〉については何度か書いたのだけれ
ど、〈オウム〉や〈アレフ〉が存在することが社会の脅威と
なるのではなくて、社会の中に “オウム的なもの” があるこ
とを見ないことが、問題を生み出すのです。
〈アレフ〉の信者が増えないように、さまざまな手段を講
じて管理し切れたとしても、行き場を失った “オウム的” な
人間が、全然違うところに集まって反社会的な活動を始める
ことは十分有り得ます。
どのような社会であっても、社会の中には、ある割合で
“オウム的なもの” が生まれます。〈すべての人にとって完
璧な社会〉は存在しないからです。
この世界は、自然の秩序によって成り立っていますが、人
間の作る社会は、その社会の多数派か、大きな権力を持つ少
数の人間によって秩序がつくられます。
その秩序は、自然の秩序とは違うものなので、必ずその社
会の中に秩序から外れる者を生みます。例え秩序から外れる
者をすべて社会から排除しても、社会自体が変わって行くの
で、その過程でまた秩序から外れる者が出て来ます。
社会というものは、 “オウム的なもの” に代表されるよう
な、秩序に取り込めないものをどうしても内包するのです。
「そういう存在を社会から失くそう」とする考え自体が、
秩序をさらに強固にし、狭める結果となり、却って秩序に取
り込めないものを増やしかねません。
やぶへびになる可能性が大きい。
完璧な社会は無い。
完璧な社会は作り得ない。
当たり前です。人間はそれぞれ違う。多様ですし、一人の
人間さえ変わって行きます。
その上、人間は満足する事が下手です。“完璧” など求め
出したが最期、理想から外れるものを次々と排除して、「役
に立たないもの」「危険なもの」「理解しにくいもの」な
ど、要するに「気に入らないもの」を社会の隅や社会の外に
追いやります。
それらの “もの” がある限界を超え、寄り集まることで力
を得ると、「自分たちを排除したもの」に対して反撃に出ま
す。“反社会的行動” ですね。
それが、〈オウム〉の様なカルト教団のテロになることも
あれば、イスラム過激派の活動だったりもするし、革命や戦
争になる場合もある。ヤクザの抗争だってそうでしょうし、
企業や政治の組織の中の派閥争いだってそうです。
人が(その人間たちにとっての)理想を掲げ、秩序を作ろ
うとすると、必ず排除する働きが生まれて、“オウム的なも
の” に象徴される 〈反社会的な人間〉を作り出してしまうの
です。
その「程度」は社会によって違いますが、避けることは不
可能に思われます。
私が言った、「完璧な社会」とは、「完璧に秩序立って安
定している社会」という意味ですが、もしもその様な社会が
出来たとしたら、その社会は「変化することの無い〈死んだ
社会〉」でしょう。何も新しいものを生み出せず、人が活き
活きとすることの無い世界。
日本の刑務所の中は、たいへん秩序立った所だと思います
が、「完璧な社会」は、刑務所の中より冷たく秩序立ってい
る事になるでしょうね。
“オウム的なもの” の暴走を怖れるのならば、社会の本流
とは違う考えや感じ方を持って生きている人を、肯定まで出
来なくとも、許容することが必要です。
人間は多様である事、人間は変わって行くということ、そ
して社会さえも変わって行くということ、何もかもが気にい
る様には行かない
い
そうすれば “オウム的なもの” の暴走を防ぎ、戦争さえ無
くすことも出来るでしょう。ただし、さまざまな「小さな気
に入らない事」を上手に受け止める〈智慧〉が要ります。
それは、《 “完璧ではないように見えるもの” が存在した
ままで、社会(世界)は完璧なんだ》というものですけど。
普通、人々が求める「完璧な社会」は、気に入らないもの
が存在しない社会だと思いますが、ほんとうに『完璧な社
会』は、気に入らないものも受け入れることが出来る社会で
しょう・・・。有り得ませんね・・・。残念ながら。
やはり、「完璧な社会は無い」。
でも、少人数なら作れると思います。それでお互いを認め
合って、気分よく過ごせばいい・・・・。
ただし、その外を取り囲んでる “社会” が放っとかないで
しょうね。
「あいつら、怪しいぞ・・・」
・・・・どうしようもないね。
社会というものは、「アタマが悪い」のです。
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