シヴァ神はヒンドゥー教における、破壊と再生(創造)を
司る神である。
「いきなり、何だ」という感じですが、べつにヒンドゥー
教の話をしようというわけではありません。「破壊と再生」
について書こうとしたら、自動的にシヴァ神の名前が浮かん
だだけの事です。
シヴァ神のことは詳しく知りませんが、今から3~4000
年前にはその原型となる考え方が出来ていたらしいですね。
その事は、その頃すでに、人が生きる上で「破壊と再生」
についてどう捉えるかということが重要だったことを示して
います。そしてそれは、今もって人が避けては通れない、決
着をつけるべき問題であり続けていますが、みんな避けます
ね。
「再生・創造」はともかく、「破壊・死」については考え
たくないということで、避けるどころか無い事にしたりして
います。ことに日本では、事件や事故・災害などで死者やケ
ガ人を運ぶ時には、消防や警察がブルーシートで隠しながら
運びますね。死者はまだしも、ケガ人については「隠してる
ヒマと人手があるのなら、そんなことより早く運べ!」と思
いますが、そんなの少数意見なのでしょう。
「死や(死を想わせる)破壊は見せてはいけない」という
ことですが、有るものは有るんですがね・・・。有るものを
無い事にしていると、あとでロクなことにならないんです
が、「無い事にする!だから、無い!」。そういうことで
す。
そりゃぁね、「破壊」も見せますよ、見ますよ。この間の
豪雨災害の現場だって、ニュースで何度となく見せられる。
でもそれは、そこにヒューマニスティックなストーリーを
観ようとしたり、たんにカタルシスを感じているのであっ
て、自分自身や自分の大切にしているものが、破壊されるこ
とをダイレクトに思わせるものであれば、大抵の人は避けま
す。
「恐い」「気持ちが悪い」「残酷だ」「気の毒で見ていられ
ない」・・・。自分の身にも起こり得ることなのにね。違う
形であったとしても、必ず起こることなのにね。
見たくないから、見ない。
見てない事は、存在していない。
そして、それは「無い事」として生きてゆく。
自分と自分の世界が破壊されるのなんて、考えたくない。
実のところ、わたしたちが「破壊」と呼ぶものは、たんに
「変化」であって、それを見る者の都合で「破壊」とみなす
だけですね。立場が違えば、それは「再生」や「創造」であ
るかもしれない。
自然環境を大切に考える者にとって、山の中に道路を作る
ことは「破壊」ですが、利便性を考える地元の人間と土建屋
にとっては「創造」です。
この世には「破壊」も「再生(創造)」も無い。
ただ、変化して行くだけだし、その都度今までに存在しな
かった姿になって行くのですから、むしろ「創造」とみなし
た方が良いかもしれない。
世界は創造され続けている。
ただし、その「創造」は人の都合とは関係が無い。
世界の都合で「創造」されて行く。
人は、世界の都合に合わせて「創造」されるものを受け止
めて行かざるを得ないのだけれど・・・、いやなんだね。
〈アタマ〉は自分の都合こそが、優先されるべきだと思って
いるから。
自分の都合の妨げになるものや、自分の都合が妨げられる
可能性を想起させるものは「破壊」と見て、無視したり排除
しようとする。無い事とする。
でも、そうしたところで、世界が変化して行くことを止め
ることは出来ないし、自分の都合の良いように変化してくれ
るわけでもない。
そりゃぁね、誰だって自分の都合の良いように行って欲し
いですよ。そりゃぁそうです。でも、そうはいかない事は誰
だって知っている。幼いうちはともかく、十代にもなれば分
かっている。なのに、分かっているのに、受け入れたくない
んですね。〈アタマ〉はあきらめが悪い。
「自分の都合」は一旦棚上げにして、世界の都合を受け入
れる。「主導権は世界の方にあるんだ」と認める。
「破壊と再生」・・・。
シヴァ神が動かして行くままに従って行く・・・。
実のところ、「動く」ということは「変化すること」と同
義ですから、「変化」の無い世界、つまり「破壊と再生」の
無い世界は「死んでいる世界」なわけです。
わたしたちは、どんなに気に入らなくても、どんなに理不
尽でも、起きてしまった変化は受け入れざるを得ません。
受け入れることが出来なければ、「死んでいる世界」に生
きることになります。つまり、亡霊になってしまいます。
ここまで書いて来て、今回のブログを書いている理由が分
かりました。昨日、“キャプテン ストライダム” の『帰れや
しないぜ』を聴いたからのようです。
歌詞の中に《足りない皿を数え続ける 真夜中二時のバカ
ヤロウ》というフレーズがあって(もちろん『番町皿屋敷』
の亡霊 “お菊” のことですが)、「皿を割っただけで殺され
る」というのは理不尽この上ないのは確かだけれど、だから
といって “亡霊” になって「足りない皿を数え続ける」のは
〈アタマが悪い〉。
逆に言えば、〈アタマが悪い〉から “亡霊” になってしま
ったのですね。(幽霊が出ると坊さんが呼ばれるのは、
「〈アタマの悪さ〉には仏教が効く!」ということです
ね・・。この件は次回にふれることにしましょう)
起きてしまった「破壊」に対して、あきらめる(受け入れ
る)ことが出来ず、執着し続けると、人は亡霊になってしま
う・・・。
「変化」を止めることは何者にも出来ない・・・。
それを止めようとすると・・、それを受け入れない
と・・、自分自身が壊れてしまう。それと共に「破壊」され
たものが、「再生」することを妨げることになる。
世界を動かして行く
べてを任せる・・・。任せるしかない。だって、相手は
〈神〉ですよ・・・。
自分の都合が良ければ、大喜びで「変化」を受け入れ、都
合が悪ければ、泣いて怒って悔やんで恨み続ける・・・。
わたしたちは、何が正しいかも知らないのに・・・。
シヴァ神に任せましょう。
「おまかせします。ごちゃごちゃ言いません。ナムアミダ
ブツ、ナムアミダブツ・・・・」・・・・?
ヒンドゥー教も仏教も関係ありません。
わたしたちが、この世の “亡霊” になって闇に囚われるこ
とを逃れるには、「『破壊』など無いのだ」と気付いて、
「変化」を受け入れて行くしかないのです。
シヴァ神の力は《絶対》です。そもそも逆らえないので
す。〈アタマが悪い〉から逆らおうとするのです。
「起ってしまったこと」
「今まさに、起きていること」
それを受け入れて、それに合わせて自分も変化して行く。
せざるを得ない・・・。
「拒むことによって起る変化」と「受け入れることによっ
て起る変化」には、大きな違いがあります。
どうせ、自分の世界は変わってしまったのです。
もう、元には戻らないのです。
自分も変わってしまうのです。
“お菊” はダダをこねてるだけなのです(そりゃぁ、気持
ちはわかるけど・・・)。
シヴァ神は、世界は、何も破壊しない。
すべては動いて行くだけ。
だって、世界は生きているのだから。
動かない世界は、死の世界だから。
「死」を止めれば、「破壊」を止めれば、「創造」も止ま
る・・・。世界は死んでしまう。
「死」は、「破壊」は、「生」の全体像のある一点に対す
る執着の名前でしかない。
そして「創造」とは、この世界の動きそのもの。
世界は連綿たる「創造」の営みでできている・・・。
「じゃぁ、テロリストの破壊や残虐行為も、金儲けの為の
環境破壊も、“そういうもんだから放っておけ” と言うの
か」
放っておきたくはないけれど、そういう行為を起こすの
は、自分の世界(自分の理想とする世界)が変化することを
拒む〈アタマの悪さ〉のせいだから、本当にそういうことを
無くすのであれば、人間が皆、自身の〈アタマの悪さ〉に気
付いて、それを意識し続けるしかないでしょう。
ほとんど望みはないけれどね・・・。
それも、シヴァ神が司ることだろうからね。
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