「九州北部豪雨」から一年。今度は西日本一帯に記録的な大
雨が降っている。
あちこちで川の氾濫や土砂崩れが起きているみたいだけ
ど、これが日本でもある。そういう国(土地)です。
テレビでは「重大な災害が差し迫っている」と何度となく
言う。何が「迫っている」かと言えば、ただ雨が降っている
のだ。空から・・。
火山の大噴火で巨大な噴石がじゃんじゃん飛んでくるので
もないし、隕石が降り注いでいるのでもない。地球の磁場が
おかしくなって、宇宙線が地表を直撃しているわけでもな
い。ただ、雨が降っている。
普段の雨に比べると、多めに、長く、降っているだけなの
だが、それが日常のレベルを超えると災害になる。
わたしたちが「日常」と考えている変化の幅が、とても小
さく、その小さな幅を前提として考えて生活の基盤を築いて
いるので、ただ雨が降り続けるだけで災害となる。
山国であるこの日本では、雨が降り続ければ川は溢れるも
のだし、山も崩れるものだ。だからその様な土地には生活の
基盤を築いてはならない。けれど、そうしなければ仕方ない
程、人が増えすぎ、経済活動の要請も増えすぎた・・・。
ただ雨が降る。無情に雨が降る。
人間からすれば「異常」でも、自然からすれば「お約束通
り」の事。人間の目にはコンスタントに見えなくても、自然
の振り幅からすればコンスタントの内だろう。
「異常気象」という言葉を、マスコミなんぞは好んで使う
けれど、「異常気象」など起った試しがない。何が起きよう
と法則通りでしょ?
「今日午後二時ごろ、東京都心部で猛烈な雨が地面から降
り、車や電車の内部の電気系統が故障し、大規模な交通マヒ
が発生しました・・・」そんなニュース聞いた事ないでし
ょ?
気温三十度なのに大雪が降ったとか、起きていないでし
ょ? 「異常気象」なんて起きた試しがない。あれは「不都
合気象」とでも呼ぶべき事です。
人の言い分は、相手が人間でも自然でも同じ。自分に都合
が悪いことは「おかしい」と言うのです。
自分に都合の悪いことは「間違ってる」と言うのです。
自分に都合がよければ「正しい」と言うのです。
確かに「都合の悪い事」は、都合が悪いですよ。それは当
然です。でも世界は自分の為に出来てるんじゃぁない。
都合が悪いからっていって「おかしい」とか「間違って
る」とか言うのは、お門違いです。自分の基準(都合)を世
界や人に当てはめて、まわりの方が「おかしい」なんて自分
勝手でしよ?
「そういうもんだけど・・。困ったな・・・」
そんな風に受け止めるべきではないんだろうか? いや、
そんな風に受け止められた方がいいんじゃないだろうか。
「異常」なのは、何でもかんでも自分中心 人間中
心 で考える、わたしたちのアタマの方です。
「わたしたちの日常は維持されてしかるべきだ」と信じて
疑わない。いやいや、“諸行無常” ではないですか。
「日常」なんて、そう思ってるだけのことで、ほんとは
“日々無常” です。その中には、自分の都合からすれば変化
が大き過ぎる気がする事も起る。でもそれは「異常」ではな
くて、 “無常” です。それに加えて、自然の振る舞いは「無
情」です。こちらの都合は関係ない。こちらの都合は考えて
くれませんからね。こちらの方が合わせるしかない。
自分たちの都合で自然を無視したり、強引に押さえ込もう
としても、ただ「雨が降り続く」だけで大事になってしま
う。「災害が起きた」と言うよりも、「自然に合わそうとし
なかった事が露呈した」というのが妥当かもしれません。
この時代の現状を考えれば、「災害が無くて当たり前」と
いう意識を持たざるを得ないのも仕方のない事ですが、ほん
とは「日常は無常で無情だ」という認識を持っておくことは
大切だと思いますけどね。
今回も、幾人もの人が亡くなってるようですが、日本の死
者は年間百万人以上。一日に三千人以上が亡くなっていま
す。それぞれに事情はさまざまですが、その中には今回の様
な災害の死者も毎年含まれています。
親しい人にとっては、「かけがえのない」一人ですが、知
らない人にとっては、日々の「三千分の一」の数字でしかあ
りません。「無常で無情」ですね・・。でも、そういうもの
でしょ? 誰かが死んだニュースを見て、いちいち泣かない
でしょ? 「可哀相になぁ」と言った後、面白いコマーシャ
ルが流れるともう笑ってるでしょ? わたしたち自身も他人
に対しては「無情」なんですよ。
悲しい事ですが、「いちいち構ってられない」。だって自
分が生きることが結構大変でしょ?
世界は「無常」だし、わたしたちは「無情」で「非情」で
す。
なのに、わたしたちは「日常」を信じて、自分達は「情が
有る」つもりで生きている。でも、本当はそうじゃないとい
うことを、わたしたちは常に意識しておいた方がいい。
「常」や「情」は、自分たちの都合に合う時だけの “思
い” でしかない。
「無常で無情」という意識を常に持つ。そのことをこそ
「日常」にする。
それが、自分や自分を取り巻く状況をより良くするとは限
らないけれど、その意識が「異常」を「常」に、「無情」の
中に「情」を生む土壌になるんじゃないかなと思うんです。
自分に都合の悪いことは「間違ってる」と言うのです。
自分に都合がよければ「正しい」と言うのです。
確かに「都合の悪い事」は、都合が悪いですよ。それは当
然です。でも世界は自分の為に出来てるんじゃぁない。
都合が悪いからっていって「おかしい」とか「間違って
る」とか言うのは、お門違いです。自分の基準(都合)を世
界や人に当てはめて、まわりの方が「おかしい」なんて自分
勝手でしよ?
「そういうもんだけど・・。困ったな・・・」
そんな風に受け止めるべきではないんだろうか? いや、
そんな風に受け止められた方がいいんじゃないだろうか。
「異常」なのは、何でもかんでも自分中心
心
「わたしたちの日常は維持されてしかるべきだ」と信じて
疑わない。いやいや、“諸行無常” ではないですか。
「日常」なんて、そう思ってるだけのことで、ほんとは
“日々無常” です。その中には、自分の都合からすれば変化
が大き過ぎる気がする事も起る。でもそれは「異常」ではな
くて、 “無常” です。それに加えて、自然の振る舞いは「無
情」です。こちらの都合は関係ない。こちらの都合は考えて
くれませんからね。こちらの方が合わせるしかない。
自分たちの都合で自然を無視したり、強引に押さえ込もう
としても、ただ「雨が降り続く」だけで大事になってしま
う。「災害が起きた」と言うよりも、「自然に合わそうとし
なかった事が露呈した」というのが妥当かもしれません。
この時代の現状を考えれば、「災害が無くて当たり前」と
いう意識を持たざるを得ないのも仕方のない事ですが、ほん
とは「日常は無常で無情だ」という認識を持っておくことは
大切だと思いますけどね。
今回も、幾人もの人が亡くなってるようですが、日本の死
者は年間百万人以上。一日に三千人以上が亡くなっていま
す。それぞれに事情はさまざまですが、その中には今回の様
な災害の死者も毎年含まれています。
親しい人にとっては、「かけがえのない」一人ですが、知
らない人にとっては、日々の「三千分の一」の数字でしかあ
りません。「無常で無情」ですね・・。でも、そういうもの
でしょ? 誰かが死んだニュースを見て、いちいち泣かない
でしょ? 「可哀相になぁ」と言った後、面白いコマーシャ
ルが流れるともう笑ってるでしょ? わたしたち自身も他人
に対しては「無情」なんですよ。
悲しい事ですが、「いちいち構ってられない」。だって自
分が生きることが結構大変でしょ?
世界は「無常」だし、わたしたちは「無情」で「非情」で
す。
なのに、わたしたちは「日常」を信じて、自分達は「情が
有る」つもりで生きている。でも、本当はそうじゃないとい
うことを、わたしたちは常に意識しておいた方がいい。
「常」や「情」は、自分たちの都合に合う時だけの “思
い” でしかない。
「無常で無情」という意識を常に持つ。そのことをこそ
「日常」にする。
それが、自分や自分を取り巻く状況をより良くするとは限
らないけれど、その意識が「異常」を「常」に、「無情」の
中に「情」を生む土壌になるんじゃないかなと思うんです。
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