2019年4月14日日曜日

がんばらなくても生きられる社会を


 ネットのニュースを見ていると、先日行われた東大の入学

式で、上野千鶴子氏が述べた祝辞(?)の全文が載ってい

た。

 私が印象に残ったのは、


 「あなたたちはがんばれば報われると思ってここまで来た

はずです。ですが、がんばってもそれが公正に報われない社

会があなたたちを待っています」


 「あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだ

けに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力と

を、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういう

ひとびとを助けるために使ってください」


 という言葉ですが、確かにそうですね。世の中は不公正な

ことでいっぱいだし、人々は自分の能力を人を出し抜いた

り、自分の優位性を確認する為にばかり使っているというの

がほとんどです。上野氏がそう言いたくなるのはよく分か

る。そして私は考える、「がんばれば報われる社会」という

ものは良い社会なのか? 「がんばること」が価値あること

だという考え自体、良いことなのか?

 「がんばることが求められる社会」、「がんばらなければ

生きられない社会」は良い社会か?

 「がんばらなくてもいい社会」、「がんばらなくても生き

られる社会」が良い社会ではないだろうか?


 こういうことを言うと、「がんばらなくてどうする!」と

いう声がすぐ上がるでしょうが、それはただ単に、そう言い

聞かされてきたからそう思うだけではないだろうか? 「生

きる為にがんばる」以外のやりかたを考えてみたことが無い

だけなんじゃなかろうか? 

 「がんばらなくても生きられる」世の中なら素晴らしいと

思うんだけどね。


 社会の中で「がんばる」というのは、比較し、競争すると

いうことですよ。

 「勝ち組・負け組」「成功」「自己実現」「夢を叶える」

 そんなことを言いながら、人間は、人より上に立つ、人よ

先んじる、人より力を持つといったことばかり続けて来

た。そればかりではないけれど、それがほとんどだというの

が現実です。それで何が起きて来たかといえば、差別、貧富

差、環境破壊、戦争、さまざまな心と身体の病い、自殺・

・・・。


 「がんばっても報われない社会」はもってのほかですが、

「がんばったら報われる社会」では “がんばれない人” が苦

しむ、ならば「がんばらなくても生きられる社会」が一番良

い社会ではないだろうか?


 「そんな社会なら、みんな怠け者になってしまう」

 そう思われるかも知れませんが、怠けたい人は怠けていい

と思うんです。怠けない人たちの方に余裕があれば、怠ける

人も生かしてあげればいい。余裕が無ければ怠ける人のこと

は放っておけばいい。怠ける人も死にたくなければ動きだす

ことでしょうから。それでも動かないのなら、そのまま死ん

でもらえばいいのです。だって、怠けない人の方に余裕がな

ければしょうがない。


 「それじゃぁ、“怠けない善良な人” だけががんばるの

か!」と思われるかも知れませんが、そうじゃないんです。

怠けない人は別に「がんばる」わけではない。ただ

“怠けない” という自分の性分や、その時の状況に合わせて

自分のすべきことをするだけのことです。それが、社会や他

人の為になることだったりするだけです。


 「正直者がバカを見る」という慣用句がありますが、正直

者はバカを見たりしませんよ。

 正直者は「自分が正直であること」がそのまま〈報い〉な

ので、その見返りなど必要としません。自分が正直でいられ

れば、それでもう満足なのです。「正直者がバカを見る」な

どと言って、自分の善意が裏切られたなんて思う人間は、正

直者ではありません。そこには見返りを期待する打算があり

ます。きつい言い方をすれば「腹黒い」。


 そのように、怠けない人は「怠けないこと」がその性分な

ので「怠けないこと」自体が喜びですから、他の人が怠けよ

うがどうしようが構いません。

 「怠けないこと」「自分に何かが出来ること」そのものが

喜びですから、そこに「がんばる」などという意識はありま

せん。あったとしても、その人の内面の個人的なことです。

「自分はそうしていたいからそうするだけ」ですね。

 怠けたい人はそのようにあればいいし、怠けたくない人は

そのようにあればいい。それぞれ自分らしくあればそれでい

い。それぞれに自分のすべきことを自然にやればいい。


 人間にはごく自然な「向上心」というものがあります。

 他人と比べてどうこうではなく、自分の能力が高まること

自体が嬉しいという性質がありますが、そこに「競争社会」

がつけ込んできます。自然な向上心を「他者との比較」に向

け、「競争社会」を動かすエネルギーとして利用するので

す。その時に言われる言葉が「がんばれ!」です。その言葉

で、エゴの持つ「不安」や「欲求」に点火するのです。そし

て人は競争の為に走り出します。それが自身に何をもたら

し、社会にどんな影響を与えるかなど深く考えもせず

に・・・・。


 「がんばること」は、良いことでしょうか?

 「がんばらなくちゃ・・・」と思って苦しんでいません

か?


 誰も彼もが「がんばっている」この世の中は、「良い世の

中」ですか?

 問題だらけじゃないですか?


 「がんばる」以外の “前向きさ” というものは無いのでし

ょうか?

 本当に「がんばらなければ生きられない」のでしょうか?


 「がんばれ!」なんてけしかけられて思い込まされなけれ

ば、人はもっと自然に “善良さ” と “前向きさ” を表わして、

仲良くやれるんじゃないかと思うんですけどね。

 仮に、欲の強い悪意のある人間がいても、誰かの「がんば

り」を利用できなければ、自分一人分の力しかないのですか

ら、大したことは出来ないはずなんですよ。


 エゴとエゴがせめぎ合い、利用し合い、生身の人間は放っ

たらかしでエゴばかりが肥大して行く・・・。それが「がん

ばる社会」の正体ですよ。

 先日も日本の「長者番付」が出てましたが、あれは人の

「がんばり」を還元せずに、上手に搾取した人たちの名前で

すよ。それでその本人たちがしあわせならばまだしも、当人

達も「競争社会」に思い込まされ、エゴを突き動かされてや

みくもに「がんばって」興奮しているだけのことです。それ

が生み出したものは、先に書いたように、差別、貧富の差、

環境破壊、戦争、さまざまな心と身体の病い、自殺・・・・

す。


 以前にも書きましたが、私は阪神大震災以降「がんばる」

という言葉が嫌いです(『がんばれ』?・・「ちょっと黙

ってくれないか」 2017/10)。「がんばる」に代わる、自

な “前向きな言葉” がないものだろうかと思っています。


 「がんばる」は「我を張る」ことだというのは結構知られ

ていることでしょうが、「がんばる」は人を競争に誘い込む

言葉です。「比較」という地獄に引き込む言葉です。

 みんなが「がんばらない」のなら、「がんばらなくても生

きられる社会」になるはずです。人間の自然な「向上心」と

「生きたい」という思いによってね。

 けれど実際にそんな社会が生まれることなどないまま、人

は滅んで行くのでしょう。エゴにそそのかされ、我を張り続

けてね。




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