2019年4月21日日曜日

春宵一刻値千金



 『春宵一刻値千金(しゅんしょういっこくあたいせんき

ん)』という言葉がありますね。誰が言ったのか知らないけ

れど、本当にそうだなぁと思う。春の宵の何とも言えない気

分・・・。目から耳から鼻から肌から伝わってくる感覚が、

すべて美しく心地良い。さらにタラの芽の天ぷらでも食べな

がら純米酒でも飲めれば、五感すべてが「値千金」です。


 こういう感覚って、今の若い子たちはどれだけ感じられる

んだろう?

 若い子に限らず、私と同年代の人間でもどれだけ共感して

もらえるのだろう?

 一日の多くをスマホに向かってる感受性で、「自然と解け

合う喜び」のような気持ちを持てるのだろうか?


 「人間ばっかり相手にしてると、あたまがおかしくなる」

と私は言うのですが、自然との関わりを減らせば減らすほど

人は観念的になる。観念的になればなるほど、現実から乖離

する。

 現実から乖離するということは、「あたまがおかしくな

る」ということです。現実とは違うところに自分の “現実” 

を作ってしまう。


 わたしたちの五感は、自然の状況を捉える為に備わってい

るものです。人も自然から生まれた自然の一部としては当然

です。けれど今は、その五感の一部だけを使って、人間の世

界の状況だけを捉えて「それで良し」としている。

 自然に目を向ける人であっても、五感から入って来る感覚

に観念のフィルターをかけてから受け止める人が多いのでは

ないのだろうかと思う。見事な桜を見ても、まずスマホで撮

影してから、自分の目で見て味わうのはほんの数秒といった

様に・・・。


 これまでに何度となく書いていますが、人間の世界は “お

話” です。それが現実だとしても、その現実は、わたしたち

が “お話” を具体化したことによって存在している “作り物”

です。わたしたち人間は “作り物” の中に住んでいます。そ

してその “作り物” 加減は、今や極限に達しようとしている

気がします。

 昔は、たとえ “お話” の中であっても、その中で主役は人

間であったのです(あたまがおかしいとはいえ・・・)。と

ころが、今や、経済がテーマであり、主人公は AI になろう

としています。人間は、AI が「経済」という “お話” を 進

るのを支える黒子に成り下がろうとしています。


 人間は “手段を目的にしてしまう” のが得意ですが、それ

が行き行くところまで行き着こうとしているのが現代ではな

いだろうか? ついに、自らが “手段の手段” になろうとして

いる・・・。「軒を貸して母屋を取られる」とでも言うの

でしょうか・・・。


 「万物の霊長」などと思い上がって、アタマの “作り物” 

に入れあげている内に、人間は引き返せない所まで来てしま

ってるようです。


 「春宵一刻値千金」という “肌感覚” は、自身がこの自然

の世界の一部であることを感じさせます。

 色・形・光・音・匂い・温度・感触・味・・・。

 自然から与えられた感覚で、自然から伝えられるものを受

け取る・・・。

 たとえどんなにテクノロジーが進んでも、人間が自然の一

部であることは変わらない。


 もしも将来、機械のからだに AI の脳を搭載して、そこに

感情を入れ込んで今と同じように感じて考えられる様になっ

たとしても、その機械のからだや脳も、「劣化」という自然

の働きからは逃れられないだろう。結局、わたしたちは自然

の一部でしかなく、自然の理(ことわり)の中にある。

 それならば、人間が誕生した時と同じように自然の中で生

かされていればそれで良いんではないだろうか? 人間がし

ていることのほとんどは、余計なことなんだろう。それが必

然ではあるのだろうが・・・。


 この、美しく・香しく・おだやかで・あたたかな “春の

宵” を、からだ全体で感じる喜びは、人に与えられた最高の

贈り物の一つじゃないかと思う。そこにアタマを出しゃばら

せるとぶち壊しになる。


 この「一刻」を受け止め、味わい、自然の一部として、自

然を生きる。


 人間の幸福とはそういうことだと思うんだけどね・・・。


 「春宵一刻値千金」!


 今を大切に。


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