2019年4月12日金曜日
「生きること」の味わいを・・・
今日、ふと考えた。「このブログは何だろう?」。
そして思った。「生きることの “味わい” なり、“醍醐味”
なりを表現しようとしているのだろうな」と。
人生には意味は無い。
人生には価値は無い。
私は本気でそう思っています。
人間の約束事としての「意味」なり「価値」なりは有りま
すが、それはあくまでも人間の約束事としてのものでしかあ
りません。生きることに「意味」は無い。ましてや社会的な
意味合いでの「価値」などというものは “お約束” でしかな
い。その時その時、その場その場でだけ「意味」や「価値」
を持つものでしかない。便宜的なものです。
こんなことを言っていると、気をつけないとすぐにニヒリ
ズムに落ち込んでしまう。「人生は無意味だ・・・」と思っ
て自殺したりする・・・。
けれども、そのギリギリのところを通らなければ・・、あ
る意味、ニヒリズムを通過しなければ、生きることが「便宜
的なお約束」のままで一生が終ってしまうだろう。それは
「生きそこねる」ことだと、私は思っている。
わたしたちは、この世に生まれて来た時は「意味」など知
らない。何に対しても「価値」など感じない。ただただ母親
のおっぱいを求めるだけ。意味も無く、価値も無く、ただ生
きる衝動に突き動かされている。それがわたしたちの始ま
り・・、本質・・。
生きることに「意味」も「価値」も無く、ただむき出しの
「生」がある。そしてその「生」がわたしたちの “本当” な
のは、その成り立ちから考えて間違いではない。
人は、人生を「意味」や「価値」で形作ろうと生きるので
はなく、「意味」や「価値」などの前から存在している、こ
の “命” を生きる為に生まれて来るのだろうなと思う。
母親のおっぱいを求めるように、「生」を味わうことが、
わたしたちがすべきことなんだろう。
《人生はグリコのオマケのようなもの》(『グリコのおま
け』2017/3)
やっぱりそうだと、改めて思う。
オマケで遊ぶのは構わない。楽しめるのならそれでいい。
けれども、それはやっぱり暇潰しなんだ。やはり「オマケ」
なんだ。子供だましなんだ。
ほとんどの人間が、何も考えない赤ん坊に生まれて、浅知
恵の付いた子供になって、そのまま年を取ってしまう、「オ
マケ」に目を奪われた子供のままで・・・。人は大人になる
べきではないだろうか?
大人のしていることって、単に「オマケ」の手が込んでい
るだけのことでしかない。
「生き甲斐だ!」「ビジネスだ!」「社会貢献だ!」など
と言うけれど、“子供の遊び”を都合の良いようにカモフラー
ジュしているだけでしかない(それが100%とまでは言わな
いけれど)。大人になんかなっていない。
わたしたちは母親のおっぱいの味を忘れてしまい、それと
ともに「生」の味わいも忘れてしまう。けれど「生」を味わ
ってこそ、人は本当に成長して大人になるのだろう。
“大人” とは、「生」の味わいを知っている人間ではない
だろうか。
じゃぁ、“「生」の味わい” とは何か?
言葉で説明できることではありませんね。
それこそ味わってみるしかない。
「意味」だとか「価値」だとかの調味料を足すのをいった
ん止めて、そのものを味わう・・・。一切の「意味」や「価
値」が無くても存在している、この「生」をそのまま味わ
う・・・・。
その “味わうこと” が生きることの醍醐味(価値)だろう
し、その “味わい” こそが生きるしあわせ(意味)だろう。
それは、約束事の「意味」や「価値」ではない。
そんな “醍醐味” や “味わい” を表現しようとしているの
が、このブログらしい・・・。
身の程知らずもいいところだけれど、いつものように《人
間に自由意志は無い》。
ただ私は、止むに止まれず、動かされるままに動いて、こ
のブログを書いているだけ。私の知った事ではない。
でもね、「生」は味わうものですよ。私の実感としてね。
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