平成ももうすぐ終わりということで、この頃テレビで平成
の出来事を振り返る番組がよくある。
先日その手の番組を見てたら、オウム真理教の村井氏が刺
殺された時の映像の中で、オウム真理教の支部のガラスに
『絶対幸福』と書いた紙が貼ってあった。
「あら、まあ・・・参ったね・・・」と思った。だって『絶
対幸福』という言葉を、このブログの中で何度か使っている
んだもの。
だから一応断っておこう。私はオウムと関係ありません。
オウム真理教の中で使われていた『絶対幸福』という言葉
と、私が使う『絶対幸福』という言葉が、違う意味なのかど
うかは分からない。だって、私はオウム真理教の中で麻原が
どんなことを教えていたのか知らないから。
けれど、オウムの中で使われていた『絶対幸福』と、私の
言う『絶対幸福』が同じ意味だという可能性はけっこう高い
だろう。なぜなら、オウム真理教は “まじめな団体” だった
だろうから。「人として本当に幸福を得る為にはどうすべき
か」と本気で考え、努力していただろうから。決して、人を
不幸にしようとか、世の中に地獄を具現化しようなどとは思
っていなかったはずだから。“まじめ” にやった結果があれ
だったのだろうから・・・。
“まじめ” は方向性をまちがうと怖い。なぜなら “まじめ”
は視野が狭い。
「真面目」という漢字を見れば、その視野の狭さが分かる
はず(分かるでしょ?)。
もしも、オウムの掲げた『絶対幸福』と、私の言う『絶対
幸福』が同じ意味ならば、うっかりすると私もオウム信者の
ような視野狭窄に陥りかねない。ああ怖い・・・。
怖いけれども、実のところそのような “怖さ” を生理的に
感じているので、このブログは当初から、常にある程度の
「ゆるさ」をベースにして書かれている。「ゆるさ」が無け
れば怖い・・・。
人は、「ゆるさ」を失った瞬間に “観念的” になる。
“観念的” になった瞬間に「ゆるさ」を失う。
それは同時に起こる。
“まじめ” は怖い。
“まじめ” は「観念のかたまり」で、それは条件が揃えば
あっという間に「原理主義」に成長し、自分の観念に都合の
良いものだけを見て、不都合なものは見ないという “視野狭
窄” を起こす。歴史上のあらゆる暴力
経済的・文化的を問わないあらゆるかたちの
て起った。
人がどんな考えを持っているかということも重要だけれ
ど、どれだけ “まじめ” かということも大きな問題だ。
「大真面目」というのは「× 無限大」というようなこと
で、その考えが人や世界の本質を見誤ったものであれば、そ
の “誤り” も無限大になってしまう。要するに「狂気」とな
る。
オウムの起こした事件はもちろん。ナチスのやったこと
や、大平洋戦争中の日本人の思考や、原爆を投下したり一般
市民の上に焼夷弾を雨のように降らせたアメリカの考えや、
昭和の大学紛争や赤軍派などの過激派の活動。政治・経済・
ヒューマニズムの名の下に行われる人間疎外と環境破壊。
「安心安全」の為に “管理” され、安らかさを失う
人々・・。
そのようなことに関わる人たちはみんな「大真面目」な人
たちだ。いわば「善人」だ。「正義の人」だ。「正しい人」
だ・・・。
ああ、怖い。“まじめ” は怖い・・・・・・。
浅原彰晃は “まじめ” だったのだろう。
オウム信者は “まじめ” だったのだろう。
ヒトラーも “まじめ” だっただろう。
ネオナチも “まじめ” だろう。白人至上主義者も “まじ
め” だろうし、 シー・シェパードも(たぶん) “まじめ” な
のだろう。みんな「自分は正しい」と信じているのだろ
う・・。
なぜだか知らないが、世の中には「まじめ=良いこと」と
いうというイメージがある。それはなぜだろうと考えてみる
に、“まじめ” だと物事が予定通りに進みやすいからだろう
ね。「でたらめ」「ちゃらんぽらん」だと物事が進まな
い。“まじめ” は物事を予定通り思い通りに進めたいエゴに
とっては都合がいいので、受けがイイのだろう。けれど、予
定通りに進めたい事だけに “まじめ” になると、他の事はど
うでもいい事になってしまうのではなはだ危ないことにな
る・・・。“まじめ” は危ない。
なにも私は、「でたらめ」「ちゃらんぽらん」にしたほう
がイイというのではありません。そればっかりでは人間は生
きて行けないでしょう(「でたらめ」「ちゃらんぽらん」も
大事ですが)。ただ、“まじめ” には注意が必要です。
物事をちゃんと進めて行くためには “まじめさ” のような
ものが必要ですが、私は “まじめさ” より、“真摯さ” という
ものを採用したい。
“まじめ” というものは、【ある集団の約束事に忠実であ
ること】だと私は考えます。“まじめさ” が重んじているの
は「約束事」であって、人や環境ではありません。【約束事
に忠実】ならばロボットと同じです。感情は排除されるの
で、 “まじめ” はさまざまな問題を生むのです。
一方、“真摯さ” というものは、【人や出来事に誠実に関
わる】ことだと思います。人や出来事は「約束事」ではあり
ませんから、どんどん変化して行きます。どんどん変化して
行くものに関わる為には、そのものの在り方をしっかりと見
据えて対応する柔軟性が必要です。「柔軟性」とは、「自分
も変わる」ということです。自分が変わる為には自己主張な
どしていられません。相手に合わせてゆかなければならない
のですからね。“真摯さ” はおのずと謙虚さを伴います。
それに対して「約束事」というのは、決まった事で変わり
ませんから、それに忠実な “まじめさ” も変わる必要があり
ません。自分は変わらなくていい。変わるのは「約束事」と
自分の外にあるものの方です。何も考えなくていい。
人間や世界という複雑なものを、あるひとつの「約束事」
で括ってそれで “良し” としてしまう・・・。以外に
も、“まじめ” は「手抜き」なのです。ズボラなのです。
真面目な人を見てるといつも言いたくなる。
「人やら世の中やら世界の事を、もうちょっとマジメに考
えろよな!」って。
私はイヤミを言うのが好きなんです。
そう、オウム真理教の中での『絶対幸福』と、私の『絶対
幸福』が同じものであったとしても別にかまいません。《悪
魔でも、その目的の為に聖書を引用することができる》ので
すからね。薬も使い方を間違えれば毒だし・・。
その言葉なり考えなりをどう捉えてどう活かすかというこ
とが問題ですからね。
「猫に小判」だったり「キチガイに刃物」だったりするの
でしょう。「棚からぼたもち」だったり「青天の霹靂」だっ
たりね。(“言葉狩り” は不毛です)
このブログの中に、誰かの役に立つ言葉があればと思う。
「寝た子をおこす」だけかもしれないけど・・・。
(『絶対幸福』については、『絶対幸福』2019/1 『お
天道様が観てござる』2018/12 を見てね)
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