2020年9月5日土曜日
共に死ねる社会を。コロナ ㉔
このタイトルを見る限り、「なにか、あざといことを考え
てる」と思われるかもしれないけど、・・・まぁ、そうかも
ね。
それはさておき、「共に生きる」という言葉は、公の場で
結構使われる言葉だろう。
弱い立場の人たちや違う宗教の人たちなど、多様な人々が
共に生きられる社会を目指すといったことや、生物の多様性
を守るというような話にからめて、この言葉はよく使われる
ように思う。
それはそれでいい。そういう考えに私も賛成だ。ただし、
条件が有る。「共に生きる」ということの中に、「共に死ね
る」ということを含んでいなければならないのではないかと
思うのだ。ところが、「共に生きる」という言葉には、普
通、「共に死ねる」ということは含まれていない。
「共に死ねる」などと言うと、戦争で、戦友と、お国の為
に「共に死ねる」というようなことや、あるいは心中のよう
なことと思われるかもしれないけれど、そういうことではな
い。
普通に生きている中で、それぞれが、それぞれの死を、
「共に受け入れる」という覚悟なり受容なりを持って生きる
というような意味です。
人と人とが「生かし合う」だけでは、その社会は命の半分
の面を失ってしまう。
人と人とが「死なせ合う」ことが出来てこそ、それぞれの
命は満たされると思うのです。(「殺し合う」んじゃない
よ)
わたしたちのアタマの暴走の根本の原因は、死を忌み嫌い
恐れることにあると考えて差し支えないと思う。
もちろん、すべての生物は死を避けようとする。けれど、
人間以外の生物が死を避けるのは具体的なものであって、そ
こには抽象性はないだろう。
過去の「死」も、未来の「死」も、人間以外の生物を脅か
すことは無い。人間以外の生物が恐れるのは、いまこの時
に、自身に起ころうとしている「死」だけだろうし、その
「死」をもたらすのが、捕食者やなんらかの事故のようなも
のの場合だけであって、病気による「死」を恐れることはな
いだろうと思う。
人のアタマの中で、「抽象的な死」が「具体的な死」を覆
い隠して、人は穏当に死ぬことができなくなっている。
「生きているものは死ぬ」という当たり前の事が、極限ま
で異常な事になってしまったのが、現代というものだろう。
昭和の前半は「人生50年」だったが、この頃は「人生
100年」などと言っている。その差の「50年」はいったい
何か? そして、その差に価値はあるか?
単に、人生の濃さが半分に薄まっただけではないのか?
そもそも 50年だろうが100年だろうが、年数を人生の価
値の目安にするような感覚は妥当なものだろうか?
生きとし生けるものには必ず死が訪れる。
その当たり前のことを「当たり前だ」と言ってはいけない
世の中になってしまった。「当たり前」が当たり前でなくな
った世の中は、当然、異常な世の中だ。もちろん、時代と共
に世の中の「当たり前」は変わる。けれど、“生きとしける
もの” すべてにとっての「当たり前」が、人にとって当たり
前でなくなったのであれば、人はもう “生きとし生けるも
の” から外れてしまったのだろう。日本や他の先進国に暮ら
す大多数の人間は、もう「生きていない」のだろう。
世界中でうごめいている人間たち・・・、それはいったい
何なんだろう?
「死」を完全な「悪」とする価値観に立って生きるなら
ば、「死」をまったく受け入れないのならば、人は「命」か
らはぐれてしまうだろう。たとえ何百年生きることができよ
うと・・・。
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