ふと、「『不幸になれない』(2020/3)という話を前に
書いたな~」と思って、あらためて考えてみるに、そもそも
不幸は実在していないのだから、不幸になれないのは当然な
のだな。
不幸は実在しない。
そもそも「不幸」とは何か?
“「そんなのイヤだ!」と感じる状況” のことだと言ってい
いのだろう。 そう定義しよう。
それならば、「そんなのイヤだ!」と思わなければ、どの
ような状況も「不幸」にはならないということになる。「不
幸」は状況が生み出すものではなくて、「そんなのイヤ
だ!」という判断が生み出すものだ。「不幸」を生みだすの
は自分自身のアタマだということだね。
そりゃぁね。「幼い我が子が死んだ」とかいえば不幸にち
がいない。そういう時に「不幸だと思うな」なんて私は言わ
ない。そんなに薄情ではない。薄情ではないが、やっぱりそ
れでも「不幸」は実在しない。「幼い我が子が死んだ」ら、
「幼い我が子が死んだ」という状況があるだけで、それを不
幸な事だとするのはあくまでもアタマの働きであって、「不
幸な事実」というものではない。
繰り返し言うけれど、私は薄情な人間ではない。小さな子
が痛ましい亡くなり方をしたりしたニュースを知って泣いた
りするんだから。けれど、「それはそれ」なのだ。
人間だから人情があって当然だ。それでいい。でも、人情
とは別に、事実は事実として受け入れなければ、人は根本で
間違う。そこから目を背け、拒絶すれば、それこそ「不幸」
としか言えない事が増殖してゆく・・・。「不幸」は “その
こと” だけでいい。一時(いっとき)だけでいい。
「事実」という “そのまま” を、価値判断無しでそのまま受
け入れるのが、その「事実」に対する最善のことであり、そ
の「事実」に対する畏敬の表明だろう。
「幼い我が子が死んだ」という事を「不幸」だと言ってし
まえば、その子は「不幸な子」ということになってしまう。
それはその子に失礼ではないか? それがどれぐらいの長さで
あれ、どのような境遇であれ、それをそのまま受け入れるの
が人に対する敬意だろう。相手が誰であれ自分であれ、それ
は同じことだ。
そもそも、出来事の価値判断をするのは自分のアタマだ
が、自分のアタマというショボくて当てにならないものに価
値判断を任せているから、不幸になったりする。そして、不
幸から逃れ、不幸になりたくないがゆえに自分がイヤなこと
を避けようとするのだが、その行為は自分の都合でしかない
ので、他者との間に問題を生む。そしてその問題自体が当然
イヤな事なので、不幸はさらに増殖することになる。
自分で不幸を作り出し(不幸を認定するという方が適切だ
ろうか)、不幸から逃れようとしてさらなる不幸を生みだ
す・・・。人というものはとってもご苦労さんなのだ。
人として生きている限りイヤな事はなくならない。けれ
ど、「不幸」は生み出すべきではない。だから、イヤな事は
イヤな事のままにとどめておくべきだろう。
「ああ、ヤだなぁ・・・」
そうやって受け入れているうちにイヤな事は過ぎ去って行
く。真夏の酷暑が過ぎて、秋の涼しさが来るように。
イヤな事を無理してポジティブに捉えようとすると、自分
に対してウソをつくことになりかねない。そのウソは後々面
倒を引き起こすだろう。そんなところでがんばる必要はな
い。
「ああ、ヤだなぁ・・・」と感じているということは、意
識の中にその「イヤさ」を意識している冷静な部分が存在し
ているということだ。その部分には「イヤさ」や、ましてや
「不幸」など存在していない。わたしたちの意識の根底、命
そのものにとって、「不幸」は実在しない。
「ああ、ヤだなぁ・・・」
「ああ、苦しいなぁ・・・」
「嗚呼、悲しいなぁ・・・・・」
「ちくしょう・・・、どうしたらいいんだ・・・」
「ぁぁ・・・・。もう・・死のうかな・・・・・・・・」
人だから、生きている限りそういうことがたびたびある。
とてつもない重荷になることもある。
そのまま押しつぶされてしまうことになるかもしれない。
そうなったらそうなったで仕方がない。けれど、どうなっ
てもそれは「不幸」ではない。
「不幸」は実在しない。
誰一人不幸な人はいない。
0 件のコメント:
コメントを投稿