さっき、一週間ほど前に録画していたNHKの『ヒューマ
ニエンス』という番組を観ていた。テーマは「腸」について
で、腸には大きな神経ネットワークが有り、それ独自でいわ
ば「ものを考え」ていて、人間の行動のかなりの部分を決定
付けているという話だった。
そして、「脳」は、生物のからだが複雑化して行く過程
で、「腸」とは違う役割を担うために出来てきた二次的な神
経ネットワークの中枢で、人間にあってはその二次的な
「脳」が「腸」の生命維持の為の働きを無視して、かえって
人の生存を危うくしているというところまで話が及んだ。
番組中では、「脳」を、「腸」という親から生まれた “ド
ラ息子” と表現していたのだが、「アタマが悪さをする」と
言っているこのブログの書き手には、「我が意を得たり」と
いう番組だった。
番組のMCは織田裕二なのだが、このテーマを扱うには適
任だろう。なぜなら、彼は『踊る大走査線 ザ・ムービー』の
中で、この名台詞を吐く、「事件は会議室で起きてんじゃな
い!現場で起きてんだ!」。
「脳」(アタマ)という会議室が、「腸」(身体・現実世
界)という現場の実情を無視して引っ掻き回す。これほどみ
ごとなアナロジーもない。というより、人間の進化の当然の
帰結と言うべきだろうか。
進化が、人間に大脳新皮質という、生物の本能からはみ出
してしまうものを与えてしまった結果、人間は自身の身体か
らも現実世界からも浮いてしまって、なんとも面倒で不毛な
世界を彷徨うことになってしまった。その世界を日本語では
「浮世」という 「憂き世」とも言ったりする。“備えあれ
ば憂い無し” などと言うが、私に言わせれば “アタマ無ければ
憂いなし” というところだ。
「アタマが悪さをすることを、〈アタマが悪い〉という」
という私の主張が、生物学的にも生理学的にも根拠を得て、
まことに嬉しい限りだね。
ホントにね。もっともっと身体(自然)の言うことに耳を
傾けなければいけないと思うよ。
この社会が今後どうなるかは知らないけれど、少なくとも
個人々々のレベルでしあわせでいたいのなら、身体の一部で
はなく “社会の端末” に堕してしまったアタマの言う事はあま
り真に受けない方がいい。
とはいえ、わたしたちは「腸」の言う事が分からない。
「腸」は言葉を使わないからね。でも、「腸」の感じさせる
ことは分かる。それと共に、わたしたちを取り巻く「自然」
の感じさせることもかなり分かるはずなんだ。分かっている
はずなんだ。ただ、アタマがそれを邪魔してるんだね。
生物というものは、その誕生から、栄養を取り込み、生存
し、繁殖するということを目的 さだめと言うべきか
にして来た。その為に最初に必要とされるのは、当然、消化
器官であり、それが独自の制御システムを持ったのも当然
で、「脳」なんぞは、後発の器官を制御する為に、「腸」の
制御システムを流用してずっと後に作られたものだというの
は、まったく筋の通った話だと思う。
アタマは悪い。本当にアタマが悪い・・・。けれど、アタ
マは悪いだけなのだろうか?
それでは救いが無い。なので、アタマの良いところについ
て考えてみようと思うけど、長くなるので、次回へ続く。
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