2020年10月11日日曜日

「変」な理屈。



 毎日いろんなニュースが流される。ニュースの八割ぐらい

は気分のよろしくない事柄だけれど、それにしても、最近の

ニュースの内容はバカらし過ぎるような気がする。私の歳の

せいだろうか?

 国内でも海外でも、ニュースのほとんどが感じさせるの

は、上っ面の理屈と薄っぺらな欲求、それに「正義」と言う

名の観念の興奮。ニュースというものの内容は昔からそうい

うものだろうけれど、ここ最近はその内容にあまりにも血が

通っていないような気がしている。私がおかしくなったのか

もしれないが。


 「賛成」「反対」。

 「いいね!」「クソ!」。

 「勇気をもらった」「心が痛む」。

 ホントに自分で感じて、考えて言ってる?


 人それぞれに自身の立場を表明し、あるべき理想を示し、

その根拠となる理屈を述べる。

 それを見て私は思う。《理屈と膏薬はどこにでも付く》。


 わたしたちのアタマは、理屈を考え、理屈に沿って動かな

ければ機能不全を起こす。

 正しいことを導き出す為に理屈で考えているのではなく、

自分にとっての正しさを補完するために理屈を考える。

 なので、理屈を考えるのをやめると、自分にとっての正し

さがくずれてしまう。さらに言うと、自分自身が崩壊してし

まいかねない。それ故、人は理屈をこね続ける(いま私がし

ているように)。


 そのように、合理性を保てれば自分は安泰だと感じるのが

わたしたち人間一般だけれども、どのように理屈を重ねてい

っても、最後に「良し!」と感じるのは理屈ではない。最終

判断をするのは「気分」なのだ。


 わたしたちのアタマは、自分の中に生まれてくる “ある

「気分」” に不安を覚え、それを(アタマにとって)安定し

た状態に置こうとして理屈を考える。そうしてさまざまに理

屈をこねて、ようやく落ち着きどころが見えてきたら、「気

分」にお伺いを立てる。「これでいけるんじゃない?」と。

そしてひと時、ホッとした時間を過ごすことができる。

 しかし、「気分」に脅かされ、「気分」に慰められ、「気

分」と「気分」の間で「理屈」は何をしているんだろう? な

んだか落ち着かなくて、自分の座っている座布団をひっく

返したり向きをかえたりしているようなものではないかと

う。何か違和感を感じてごそごそ動くけれど、座るのは元

場所なんだ。自分は自分で、この身体からは逃れられない

らね。いったいそれで何が変わるというのだろう。本質は

も変わらず、ただゴタゴタが続き、広がっているだけなん

ゃないか?


 わたしたちのアタマは、日々小さなパニックを起こしてい

ると言えるのかもしれない。日に何度も小さな不安に駆られ

「何とかしなくちゃ」とああだこうだと伝家の宝刀「理屈」

を振り回す。ところが、その行為自体が、自分自身と他者に

新たな不安を生みだしてしまうという悪循環を作り出す。そ

れが、哀れなわたしたち人間の日常ではあるまいか?


 最近のニュースには「血が通っていない」と書いたけど、

肌感覚というようなものを無視しているのかマヒしているの

か、ニュースに登場する人間にもニュースを伝える人間にも

そういう印象がある。人の生き死を伝えるニュースの多くに

さえそう感じるのだが、マヒしているのは私の方なんだろう

か? その可能性も結構高いのかもしれないが、自分では分か

らない。


 私が変なのか、世の中が変なのか。

 世の中というところは「“多数” が正解」だから、変なのは

私の方だという事になるのだろう。なんとも哀れな私。

 けれど、理屈ばっかりこねていなくちゃならない世の中と

いうものは、心安らぐ所ではないのだから、そこで「変」な

方に分類されるであろう私は、心安らがない所から少し外れ

ていることになる。それは歓迎すべきことなんだろうと考え

ることにする。


 と、ここに至っても理屈をこねるほど、私も理屈から逃れ

られない。人間は「理屈」という病に侵されているんだ。




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