2024年8月23日金曜日

独裁国家アメリカ



 アメリカという国が「民主主義」を錦の御旗のように掲げ

ている国なのは誰でも知っている。民主主義を守るという理

由でしょっちゅう戦争をやっているぐらいだから、当然、ア

メリカは民主主義国家だ・・・とつい思ってしまうが、実は

アメリカは独裁国家だと見なしたほうがよさそうだ。


 今回の大統領選挙もそうだけど、「実は独裁国家だ」とい

うことを国民に気付かせないために、共和党と民主党が常に

国民の為に闘っているという小芝居をしているのだろう。

 アメリカの下位 50%の世帯は、国全体の富の2%しか持っ

ておらず、上位 1%が富の三分の一をを持っているそうだけ

れど、当然ながら富を多く持つものが権力を持つ。あるいは

権力を持つ者に富を融通することで、権力の側に身を置くこ

とができる。


 上位 1%が国の富の三分の一を持つ・・・。それはどう考

えても少数の政治的・経済的有力者による独裁構造を生まざ

るを得ないと思うが、そう思いません?


 中国は共産党一党独裁だけど、アメリカも同じようなもの

だろう。「ディープステート」が存在するかどうかは知らな

いけど、有力者グループで独裁していると見るのが自然だろ

うね。独りの独裁者を置いたり、一つの政党がずっと政府を

動かしていると独裁があからさまで、国民の不満がそこに集

中して反乱が起きてしまいがちなので、そこをボカして独裁

していることが分かりにくくしているのだろう。上手くやっ

てるね。


 共和党と民主党の争いが小芝居ではなくて本気だとして

も、それは支配権の争いであって、国民の為に闘っているの

ではないだろう。にもかかわらず、集会に集まる人々は大統

領候補の演説に熱狂してる。「熱く狂ってる」わけだから冷

静な判断ができるわけがない。選挙費用を寄付した上に、後

でさらに搾取もするであろう人間を崇める・・。カルトです

か?

 集会を映した報道を見てると、大抵は政治も信仰だという

ことがよく分かる。人は信仰が大好きだ。


 人は信仰を持つものです。それがアニミズムのようなもの

であるのなら問題はないと思う。自然を畏れ敬うことは、自

然の一部である人間にとって当然だろうから。けれど、それ

が一神教のようなものになると話は違う。

 その宗教が教義を持つものであるのなら、その教義は預言

者や始祖や継承者のアタマからでてきたものなので、自然

(現実)に則していない可能性が高い。理屈や感情によって

不完全に世界を理解して、その理解を行動規範にしてしまう

ので多くの問題を生む。


 欧米でポリコレだとかいろいろと極端な政治的主張が激し

くなっているのは、キリスト教への信仰心が保てなくなって

来たからではないだろうか? 最近のいろいろな思想・信条

は、心の拠り所を見失ったキリスト教徒の不安から生まれた

新興宗教なのだろうと思う。


 合理性も、人間に持ち前の自然な判断力も振り払って、お

に入りのアイコン(政治家・活動家・インフルエンサーな

ど)に熱を上げる人たちの集団・・・。やっぱりカルトでし

ょ?


 搾取者は盲信する者が大好きです。盲信してくれれば富と

権力が得られる。搾取者に都合の良いお話を聞かされて、盲

信者たちは意図せず独裁者を育ててゆく・・・。


 独裁国家アメリカはどうなってゆくのか?大統領が誰にな

ろうが、さらに搾取がエスカレートするだけだろうと思う。

歴史上、独裁政権が壊れるのは革命による。血の革命もあれ

ば、比較的平和な革命もあるけれど、アメリカの独裁政治は

今世紀中ごろまでになんらかの革命によって一旦壊れるんじ

ゃないだろうか。なんにしろ、アメリカ人は少し落ち着いて

ものを考えた方がいいだろうね。人としての根本に目を向け

てね。・・・無理だろうなぁ😥


 人を崇めたりするもんじゃないよ。



 

2024年8月18日日曜日

ミルクをこぼした・・・



 このブログを書き始めてまだ一年も経たない頃に、むかし

通っていた「ライカ」という喫茶店のことを書いた(『新長

田 喫茶「ライカ」で』2017/12)。ある日そこで読んだ雑誌

の中で印象に残った言葉がある。


 「ミルクをこぼしたことがない人はいない・・・」


 読み切りのコラムのようなものの中にあった言葉だった。

 内容も書き手も覚えていない。ただ、書いていたのが女性

で、自分や誰かの失敗をどう受け止めるかという話だったの

だと思う。


 誰でも失敗するのだからという表現として、「ミルクをこ

ぼしたことがない人はいない」という言葉が使われていた。

「水をこぼした・・」ではなくて「ミルクをこぼした・・」

という表現が、優しく、女性的で、「イイ表現だな」と思っ

て印象に残った。そしていまでも時々この言葉が頭に浮かぶ

ことがある。


 「ミルクをこぼしたことがない人はいない・・・」


 失敗したことがない人はいない。誰でも失敗する。お互い

様なんだけど、わたしたちは他人の失敗は嘲笑ったり、怒っ

たりする。そうすることで自分の心の安定感を増そうとす

る。失敗した者と、そのときは失敗していない自分を、無意

識に天秤に掛けて「自分は優位だ」と・・・。けれど、その

天秤に「失敗した者」として自分が載る時がすぐに来る。そ

して自己嫌悪することになり、自分に言い訳をするという、

情けないはめになる。


 他人の失敗も、自分の失敗も、意に介さないのならば、わ

たしたちはどれほど穏やかだろう。けれど、わたしたちはそ

れがとても苦手だ。

 わたしたちは、自分の失敗も他人の失敗もとても恐れてい

る。失敗は未来を重たくする。自分にとって望ましい未来

を・・・。

 けれども、誰でもミルクをこぼす。誰でも。


 誰でもミルクをこぼす

 誰でもミルクをこぼんすんだ

 誰でも・・・


 前に ボブ・ロス さんの言葉を書いたこともあった。

 「失敗なんかありません。すべては楽しいハプニング!」
 

 失敗などあるのだろうか?

 どのような深刻なことであれ、どのような受け止め難いこ

とであれ、それは「そのようなことが起きた」ということ

で、それをどう受け止めるかは自分にゆだねられている。そ

の出来事に「失敗」というラベルを貼らなければ、失敗は無

い。

 自分のしたことに対して、誰かが「失敗」という評価をし

たりするだろう。その状況ではその評価を受け止めなければ

しようがなこともあるだろう。けれど本当は失敗などはな

い。

 この世界は失敗したことがない。当然、世界の一部である

人も失敗したことがない。


 「ミルクをこぼした・・・」。それは失敗ではない。

 「ミルクをこぼした」ということが起きただけだ。
 

 しかし、人間のしてきたことを振り返ると、人間はとんで

もない失敗ばかりをしてきたように見える。「すべては楽し

いハプニング!」などとは、とてもじゃないけど言えない。

「すべては楽しいハプニング!」ではない。すべては「楽し

くもない」し「ハプニング」でもない。けれども失敗でもな

い。すべては、ただ「起きたこと」、だ。


 「起きたこと」をわたしたちが評価の天秤に載せるせい

で、世界は傾く。一度その天秤を動かせば、わたしたちの心

は揺れ続けることになる。

 その揺れがある程度までなら、人はあえてそれを楽しむけ

れど、そうしている内に平衡感覚を失う。やがてはまったく

揺れを制御できなくなり、抜き差しならないことになる。薬

物やギャンブルの依存症のように、思想を振りかざす原理主

義者のように。


 こぼしたミルクを天秤に移すようなことはしない方がい

い。ミルクをこばしたら、ただ拭けばいい。それだけのこと

だ。


 世界は何も評価していない。わたしたちのアタマだけが評

価ということをする。そして、まるで世界が常に揺れている

かのように錯覚する。自分たちが揺らしていることに気付か

ずに。


 そもそも、「ミルクをこぼす」のはバランスを崩すからだ

けれど、バランスを崩させたのはわたしたちの評価ではない

のか?

 「早く運ぼう」とか「できるだけたくさん入れておこう」

とか、あるいは他のことに気をとられてとか。そこには評価

する習癖が潜んでいないか?


 わたしたちは、あらゆることで少しでも評価の高いものを

手に入れようとするけれど、「評価すること」自体で、わた

したちはいったい何を得られるのか? そこのところの評価は

放ったらかしのままなのだ。

 ミルクは、コップの中でただ飲まれるのを待っている。



2024年8月15日木曜日

狭くなった世界



 You Tube のおすすめに、20年以上前の立川談志と上岡

龍太郎がトークするテレビ番組があって観ていた。そのなか

にいくつも面白い話があって、上岡龍太郎が「昔はたかが漫

才でも教養があった」と言っているのを聞いて。「まったく

そうだ」と思った。

 漫才だけではなく、昔はテレビも音楽もスポーツにも教養

があった。今はもう無い。だからどれもが衰退している(と

私には見えている)。

 なぜ教養が無いことが衰退なのか?

 教養とは何なのか?


 教養とは「遊び心」だろう。言葉を代えれば「ゆとり」だ

ろう。いまの娯楽にはそれが無い。いまの娯楽は息がつけな

い。


 教養が「遊び心」「ゆとり」だというのは変に思われるか

もしれないけれど、私はそう感じる。一般的には、教養とい

うのは「有用なもの」のようなイメージがあるだろうけど、

本当は「有用さ」の飾りのようなものだろう。


 祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり

 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす

 ・・・・・・・・


 そんなことをそらんじても生きてることに役に立たない。

 縄文人が火焔型土器をデザインしたのは役に立てるためじ

ゃない。実用上あんなのムダです。でも、人はそのムダを求

める。それは古来から人間の豊かさだった。そこに楽しみが

あった。けれど、いまその楽しみはとても薄っぺらいものに

なった。ムダがなくなった。

 いまも人はさまざまな娯楽を楽しむけれど、それを他人に

見せたり、共有することを重要視している。自分の中でしみ

じみと味わって楽しんではいないように見える。娯楽さえ人

間関係の中の道具になっているんじゃないのか?自分の価値

を担保するためのパーツにしていないか?


 以前に「遊びが “遊び” でなくなった」というようなことを

書いたことがあるけれど、現代人の多くは豊かさを見失って

しまっているだろう。

 それはいまの人たちの罪でも愚かさでもないだろう。そう

いう時代になってしまったから仕方のないことだろう。けれ

ど、個人のレベルなら、豊かさを見いだすことはできる。

 誰の承認も理解も要らない。ただ自分の内面に親しんで、

そのフィーリングを携えながら世界と関わる・・・。そうし

て関わることが以前と同じであったとしても、なにかが変わ

っていることだろう。


 「教養」は社会に見せる飾りじゃなくて、自分の楽しみを

豊かにする「遊びの場」を拡げるものだ。


 交通機関の発達・インターネット・・・。ポジティブな意

味で「世界は狭くなった」と言われて久しい。それは個人の

活動の場が広がったという意味でもあるが、個人の内面の方

は狭くなったようだ。

 世の中は上手にたしなもう。



2024年8月11日日曜日

根拠のない話



 いつもいろんなことについて口から出まかせを書いてい

て、「妄想だ」とか言われたとしても反論のしようがない

(反論する気もないけれど)。「そう言われても仕方がない

よね」と思っています。

 世間一般では、現実(世の中の常識)に即していないこと

や、根拠を示せないことを言うと「妄想」だとか「たわご

と」だとか言われてしまうけれど、果たして世の中に確たる

「根拠」を示せる考えがあるでしょうか?


 〈100℃ のお湯を手にかければヤケドする〉

 そういうことは “考え” ではないので「根拠」がどうのこう

のという話ではなくて、単なる当たり前です。

 そういうことではなくて、例えば「差別はいけない」とい

うような “考え” は、多くの人が「そうだ」と思うだろうけ

ど、確たる「根拠」が示せるわけではありません。現に平気

で差別する人間は沢山いて、「差別はいけない」と言って

も、「なぜいけないんだ?」などと平然としている人間を納

得させるのはほとんど不可能です。なぜなら「差別はいけな

い」ということの「根拠」は人類普遍ではないですからね。

しかし、一方で差別をする側の方にも、差別を正当化できる

確たる「根拠」はない。せいぜい「こいつら嫌だから」とか

「オレの方が偉いから」という程度の恣意的な「根拠」しか

ない。

 ことほど左様に、良かれ悪しかれ人の “考え” に「根拠」は

ない。さっき書いたように、「根拠」というものは常に恣意

的なものです。

 それが科学であっても、“考え” である限り恣意的です。実

験や観測で確認して、それを「根拠」としたりするけれど、

そういう科学的な “考え” が後で否定される例は数限りない。

恣意的な前提条件の上での「根拠」でしかないからです。い

ま否定されていない事柄でも、この先も否定されない保証は

ない。現時点でその事を確認する必要を感じている人がいな

いだけでしょう。「さしあたりそれでかまわないな」と皆が

思っているだけ。

 あげくに、「科学的」を突き詰めてきた結果、量子力学で

は「観測するという行為が結果を変えてしまう」という話に

なってしまって、科学者は困ってしまった。しかも「観測す

るという行為が結果を変えてしまう」という説自体が、原理

的に確たる「根拠」を示せないという泥沼です。


 科学でさえそうなのですから、他のことに「根拠」など示

しようがありません。すべては恣意的で、自分が納得できれ

ばいいということでしかない。

 「根拠を示せ」なんて言うのは、身勝手を通したいが為の

その場しのぎのあがきでしかありません。


 あるお坊さんが言っていました。

 「他人に認めてもらって安心してもしようがない。自分が

納得できればそれでいいじゃないか」と。


 他人に認めてもらうことで得られる安心は、他人から否定

されたらすぐ揺らぐものでしかありません。「妄想」だろう

が「たわごと」だろうが、自分が納得できていればそれで良

いわけです。自分が生きているんだから。

 それが本当に「妄想」なら、世の中でいろいろ苦労するこ

とになるでしょうけど、納得づくならそれも引き受けられる

でしょう。ヘタをしたらイエスみたいに磔にされるかもしれ

ませんが、イエスは納得づくで磔になったことでしょうね。


 結局のところ「根拠」を求めるとしたら、“自分の納得” 以

外にないでしょう。

 誰からのどのような批判・非難を浴びても揺るがない “納

得” 。それこそが「根拠」と呼べるでしょう。ようするに

「これでいいんだ」という満足ですね。


 「根拠」というものは世の中に存在しているのではなく、

個人の中に見つけるものなんですね。


 世間的に見れば、はなはだ根拠のない話になりましたけど

ね😄




2024年8月9日金曜日

しあわせを生きる



 《 人間には何の義務も無いが

  もしあるとすれば「しあわせを生きること」だろう 》


 そんなことを書いたのはもうずいぶん前になる。


 「しあわせを生きる」


 「しあわせになる」のでも「しあわせを得る」のでもなく

「しあわせに生きる」のでもない。「しあわせを生きる」。


 余語翠巖老師の本の中に印象深い話がある。

 どこかの姉妹がそろって尼僧になったそうだ。妹さんの方

はできが良くて、一点の非の打ちどころのない品行方正だっ

たそうだけど、姉さんの方は男にだまされて金を巻き上げら

れたりして、うろうろして一生涯が済んだ。

 晩年になって二人が日なたぼっこしながら「もう済んだな

ぁ」といって話していたそう・・・。


 済んでしまうのです。


 良いとか悪いとか。

 嬉しいとか悲しいとか。

 いい気になったり、悔しがったり、恨んだり、ほくそ笑ん

だり・・・。

 図に乗って、怯えて、慌てふためいて、駆けずり回って、

逃げ出して、身を潜めて、あたまを抱えて・・・。


 でも、結局済んでしまうのです。


 そういう「済んでしまうこと」を、余語老師は「あや模

様」と言う。表面的なもので、生きていることの真実とは関

係がないと。

 同じことを、私はよく「お話し」とか「ストーリー」と表

現しますが、それはわたしたちが本来生きるべきものではな

い。それは生きていることの飾りでしかない、だから「あや

模様」であって、生きていることの本体ではない。


 生きていることの真実に意識を向けると、そこには「お話

し」の中とは全く違う味わいがある。それを「しあわせ」と

いう。その味わいを受け止めながら生きることを「しあわせ

を生きる」という。


 先の姉妹のように、わたしたちも泣いたり笑ったりしなが

ら生きるけれど、その右往左往とは関係ない「生きているこ

と」がある。そういう風にできている。なんと嬉しいことだ

ろう。


 誰もが皆、絶対のしあわせをその内に持っている。なの

に、そこに目を向けることができずに一生涯を終えてしま

う・・・。なんともったいないことだろう。なんと悲しいこ

とだろうと思う。

 が、そんな風に、もったいなく、悲しい人生であっても、

その人生も済んでしまう。


 済んでしまえば同じです。宗教的な安らぎを得ようが、世

の中で大成功しようが、済んでしまえば同じです。

 「ああ、ごくろうさんでした」そんなことでしょう。


 とはいえ、機嫌良く生きられたらそれは気分がいいでしょ

う。それが可能ならそうさせてもらった方がいい。

 なので、「しあわせを生きる」。


 「泣いても笑っても、済んでしまえば同じだ😁」

 そうやって、「ホッ」としながら日々を生きる。

 次々と終わり続ける “今” を生きる。

 しあわせを生きる。



  

2024年8月4日日曜日

種は蒔かれる



 今日も暑い。休みの日でも出かける気などしない。最低限

用事を済ませるためだけに出かける日々が続いている。

 今年はサクラの開花が遅かったり、6月中旬まであまり気

温が上がらない感じだったので「今年は冷夏になるので

は?」などと思っていたが、気象庁の見解通りの暑さになっ

ている。私の育てている花たちも、暑さで枯れそうだけど、

どうにか乗り越えているという毎日。


 テレビをつけると「危険な暑さ」とか「災害級の暑さ」だ

とか毎日言っている。まるでコロナ騒動の時の感染者数や死

者数のご報告のようで、本当にテレビは不安にさせるのが商

売だと改めて思う。いやビョーキというべきだろう。表向き

は注意喚起ということだけど、私はそんな風には思えませ

ん。

 社会は安らぎを嫌う。そしてマスメディアは社会の道具だ

から人を脅かさないとね。そして、その後に少しばかりの安

心感をちらつかせる。それが飯のタネになるのだけど、コロ

ナの時にやり過ぎたせいでテレビを見るのが嫌になる人間を

沢山作ってしまった。「まぁ、自分の蒔いた種だから自分で

刈り取りなさいね」などと独り言をいう。


 そんな風に、エアコンの効いた部屋でテレビの悪口を書き

つつ考える。

 「自分が蒔いた種を自分が刈り取る」とはよく言われるけ

ど、本当はそんなことは無いだろう。

 それぞれの出来事はさまざまな繋がりの中で起きて来る。

全く突然に何のつながりも持たない出来事が起きることは無

い。それどころか、私の不機嫌が月の引力の影響を受けてい

たりということもあるだろう。

 すべてはつながり、関わり合っているので、人間が、ある

一つの因果関係だけを独立したストーリーとしてみること

は、本当は無理がある。

 テレビが卑しく下らないことばかりやっていて、それで視

聴者を失うのは「自分の蒔いた種を自分で刈る」ように見え

る。確かに一面ではそうだ。けれど「卑しい種を蒔く」よう

になったのにはさまざまな因果関係がある。単純にテレビの

人間のアタマが悪いだけとは言えない。アタマの悪いテレビ

マンを育てたのは、視聴者でもありスポンサーでもあるだろ

う。
 

 私はテレビの人間をかばうつもりなど毛頭ない。今のテレ

ビはつまらなくて不快になるものがほとんどだから。

 もうすぐ、とくに民放はまもなく終わるだろう。悪循環に

はまり込んでいるので、明るい未来はありそうもない。テレ

ビの元気だった時代に、さまざまな事を学ばせてもらった世

代なので残念ではあるが、終わるものは終わる。すべてのも

のは時代に殉じる。そして、インターネットの時代もそう長

くはないだろう。なにせ時代の変化が速すぎる。こうも速い

と、時代がすぐに変わってしまう。けれど、社会が安らぎを

嫌うことは変わらないので、次の時代も社会は不安をばら蒔

き、人々はその時代なりの右往左往をするのだろう。


 不安の種を社会が蒔き、人々のエゴがそれを育てて不安の

実をつける。それを社会が刈り取って、また人々にばら蒔

く・・・。人はこれからもずっとそれを続けてゆくのだろ

う。社会とは深く付き合わない方が身のためだ。


 一方、誰かが安心の種を蒔いて、他の誰かの中でそれが育

ってゆくことはそんなに珍しいことではない。そして、それ

は社会の蒔く不安の種を受け取らないことだけでできる。そ

れには、不安の育つ用土である「エゴ」の中に種を入れない

ようにすればいい。


 不安の種を受け取らなければ、人の中に本来有る「安心」

が自ずと外へこぼれ出すだろう。

 あなたが安らいでいると、あなたからこぼれ出した「安

心」が、誰かの中で少しばかりは育つだろう。そして、今度

はその人から少しばかりの「安心」がこぼれ出すだろう。そ

れをあなたが受け取るかもしれない。


 エゴという用土が無ければ、不安は育たずに枯れてしまう

ものだから。