2024年8月4日日曜日

種は蒔かれる



 今日も暑い。休みの日でも出かける気などしない。最低限

用事を済ませるためだけに出かける日々が続いている。

 今年はサクラの開花が遅かったり、6月中旬まであまり気

温が上がらない感じだったので「今年は冷夏になるので

は?」などと思っていたが、気象庁の見解通りの暑さになっ

ている。私の育てている花たちも、暑さで枯れそうだけど、

どうにか乗り越えているという毎日。


 テレビをつけると「危険な暑さ」とか「災害級の暑さ」だ

とか毎日言っている。まるでコロナ騒動の時の感染者数や死

者数のご報告のようで、本当にテレビは不安にさせるのが商

売だと改めて思う。いやビョーキというべきだろう。表向き

は注意喚起ということだけど、私はそんな風には思えませ

ん。

 社会は安らぎを嫌う。そしてマスメディアは社会の道具だ

から人を脅かさないとね。そして、その後に少しばかりの安

心感をちらつかせる。それが飯のタネになるのだけど、コロ

ナの時にやり過ぎたせいでテレビを見るのが嫌になる人間を

沢山作ってしまった。「まぁ、自分の蒔いた種だから自分で

刈り取りなさいね」などと独り言をいう。


 そんな風に、エアコンの効いた部屋でテレビの悪口を書き

つつ考える。

 「自分が蒔いた種を自分が刈り取る」とはよく言われるけ

ど、本当はそんなことは無いだろう。

 それぞれの出来事はさまざまな繋がりの中で起きて来る。

全く突然に何のつながりも持たない出来事が起きることは無

い。それどころか、私の不機嫌が月の引力の影響を受けてい

たりということもあるだろう。

 すべてはつながり、関わり合っているので、人間が、ある

一つの因果関係だけを独立したストーリーとしてみること

は、本当は無理がある。

 テレビが卑しく下らないことばかりやっていて、それで視

聴者を失うのは「自分の蒔いた種を自分で刈る」ように見え

る。確かに一面ではそうだ。けれど「卑しい種を蒔く」よう

になったのにはさまざまな因果関係がある。単純にテレビの

人間のアタマが悪いだけとは言えない。アタマの悪いテレビ

マンを育てたのは、視聴者でもありスポンサーでもあるだろ

う。
 

 私はテレビの人間をかばうつもりなど毛頭ない。今のテレ

ビはつまらなくて不快になるものがほとんどだから。

 もうすぐ、とくに民放はまもなく終わるだろう。悪循環に

はまり込んでいるので、明るい未来はありそうもない。テレ

ビの元気だった時代に、さまざまな事を学ばせてもらった世

代なので残念ではあるが、終わるものは終わる。すべてのも

のは時代に殉じる。そして、インターネットの時代もそう長

くはないだろう。なにせ時代の変化が速すぎる。こうも速い

と、時代がすぐに変わってしまう。けれど、社会が安らぎを

嫌うことは変わらないので、次の時代も社会は不安をばら蒔

き、人々はその時代なりの右往左往をするのだろう。


 不安の種を社会が蒔き、人々のエゴがそれを育てて不安の

実をつける。それを社会が刈り取って、また人々にばら蒔

く・・・。人はこれからもずっとそれを続けてゆくのだろ

う。社会とは深く付き合わない方が身のためだ。


 一方、誰かが安心の種を蒔いて、他の誰かの中でそれが育

ってゆくことはそんなに珍しいことではない。そして、それ

は社会の蒔く不安の種を受け取らないことだけでできる。そ

れには、不安の育つ用土である「エゴ」の中に種を入れない

ようにすればいい。


 不安の種を受け取らなければ、人の中に本来有る「安心」

が自ずと外へこぼれ出すだろう。

 あなたが安らいでいると、あなたからこぼれ出した「安

心」が、誰かの中で少しばかりは育つだろう。そして、今度

はその人から少しばかりの「安心」がこぼれ出すだろう。そ

れをあなたが受け取るかもしれない。


 エゴという用土が無ければ、不安は育たずに枯れてしまう

ものだから。



 

 


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