2024年8月9日金曜日

しあわせを生きる



 《 人間には何の義務も無いが

  もしあるとすれば「しあわせを生きること」だろう 》


 そんなことを書いたのはもうずいぶん前になる。


 「しあわせを生きる」


 「しあわせになる」のでも「しあわせを得る」のでもなく

「しあわせに生きる」のでもない。「しあわせを生きる」。


 余語翠巖老師の本の中に印象深い話がある。

 どこかの姉妹がそろって尼僧になったそうだ。妹さんの方

はできが良くて、一点の非の打ちどころのない品行方正だっ

たそうだけど、姉さんの方は男にだまされて金を巻き上げら

れたりして、うろうろして一生涯が済んだ。

 晩年になって二人が日なたぼっこしながら「もう済んだな

ぁ」といって話していたそう・・・。


 済んでしまうのです。


 良いとか悪いとか。

 嬉しいとか悲しいとか。

 いい気になったり、悔しがったり、恨んだり、ほくそ笑ん

だり・・・。

 図に乗って、怯えて、慌てふためいて、駆けずり回って、

逃げ出して、身を潜めて、あたまを抱えて・・・。


 でも、結局済んでしまうのです。


 そういう「済んでしまうこと」を、余語老師は「あや模

様」と言う。表面的なもので、生きていることの真実とは関

係がないと。

 同じことを、私はよく「お話し」とか「ストーリー」と表

現しますが、それはわたしたちが本来生きるべきものではな

い。それは生きていることの飾りでしかない、だから「あや

模様」であって、生きていることの本体ではない。


 生きていることの真実に意識を向けると、そこには「お話

し」の中とは全く違う味わいがある。それを「しあわせ」と

いう。その味わいを受け止めながら生きることを「しあわせ

を生きる」という。


 先の姉妹のように、わたしたちも泣いたり笑ったりしなが

ら生きるけれど、その右往左往とは関係ない「生きているこ

と」がある。そういう風にできている。なんと嬉しいことだ

ろう。


 誰もが皆、絶対のしあわせをその内に持っている。なの

に、そこに目を向けることができずに一生涯を終えてしま

う・・・。なんともったいないことだろう。なんと悲しいこ

とだろうと思う。

 が、そんな風に、もったいなく、悲しい人生であっても、

その人生も済んでしまう。


 済んでしまえば同じです。宗教的な安らぎを得ようが、世

の中で大成功しようが、済んでしまえば同じです。

 「ああ、ごくろうさんでした」そんなことでしょう。


 とはいえ、機嫌良く生きられたらそれは気分がいいでしょ

う。それが可能ならそうさせてもらった方がいい。

 なので、「しあわせを生きる」。


 「泣いても笑っても、済んでしまえば同じだ😁」

 そうやって、「ホッ」としながら日々を生きる。

 次々と終わり続ける “今” を生きる。

 しあわせを生きる。



  

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