2024年8月15日木曜日

狭くなった世界



 You Tube のおすすめに、20年以上前の立川談志と上岡

龍太郎がトークするテレビ番組があって観ていた。そのなか

にいくつも面白い話があって、上岡龍太郎が「昔はたかが漫

才でも教養があった」と言っているのを聞いて。「まったく

そうだ」と思った。

 漫才だけではなく、昔はテレビも音楽もスポーツにも教養

があった。今はもう無い。だからどれもが衰退している(と

私には見えている)。

 なぜ教養が無いことが衰退なのか?

 教養とは何なのか?


 教養とは「遊び心」だろう。言葉を代えれば「ゆとり」だ

ろう。いまの娯楽にはそれが無い。いまの娯楽は息がつけな

い。


 教養が「遊び心」「ゆとり」だというのは変に思われるか

もしれないけれど、私はそう感じる。一般的には、教養とい

うのは「有用なもの」のようなイメージがあるだろうけど、

本当は「有用さ」の飾りのようなものだろう。


 祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり

 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす

 ・・・・・・・・


 そんなことをそらんじても生きてることに役に立たない。

 縄文人が火焔型土器をデザインしたのは役に立てるためじ

ゃない。実用上あんなのムダです。でも、人はそのムダを求

める。それは古来から人間の豊かさだった。そこに楽しみが

あった。けれど、いまその楽しみはとても薄っぺらいものに

なった。ムダがなくなった。

 いまも人はさまざまな娯楽を楽しむけれど、それを他人に

見せたり、共有することを重要視している。自分の中でしみ

じみと味わって楽しんではいないように見える。娯楽さえ人

間関係の中の道具になっているんじゃないのか?自分の価値

を担保するためのパーツにしていないか?


 以前に「遊びが “遊び” でなくなった」というようなことを

書いたことがあるけれど、現代人の多くは豊かさを見失って

しまっているだろう。

 それはいまの人たちの罪でも愚かさでもないだろう。そう

いう時代になってしまったから仕方のないことだろう。けれ

ど、個人のレベルなら、豊かさを見いだすことはできる。

 誰の承認も理解も要らない。ただ自分の内面に親しんで、

そのフィーリングを携えながら世界と関わる・・・。そうし

て関わることが以前と同じであったとしても、なにかが変わ

っていることだろう。


 「教養」は社会に見せる飾りじゃなくて、自分の楽しみを

豊かにする「遊びの場」を拡げるものだ。


 交通機関の発達・インターネット・・・。ポジティブな意

味で「世界は狭くなった」と言われて久しい。それは個人の

活動の場が広がったという意味でもあるが、個人の内面の方

は狭くなったようだ。

 世の中は上手にたしなもう。



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