いつもいろんなことについて口から出まかせを書いてい
て、「妄想だ」とか言われたとしても反論のしようがない
(反論する気もないけれど)。「そう言われても仕方がない
よね」と思っています。
世間一般では、現実(世の中の常識)に即していないこと
や、根拠を示せないことを言うと「妄想」だとか「たわご
と」だとか言われてしまうけれど、果たして世の中に確たる
「根拠」を示せる考えがあるでしょうか?
〈100℃ のお湯を手にかければヤケドする〉
そういうことは “考え” ではないので「根拠」がどうのこう
のという話ではなくて、単なる当たり前です。
そういうことではなくて、例えば「差別はいけない」とい
うような “考え” は、多くの人が「そうだ」と思うだろうけ
ど、確たる「根拠」が示せるわけではありません。現に平気
で差別する人間は沢山いて、「差別はいけない」と言って
も、「なぜいけないんだ?」などと平然としている人間を納
得させるのはほとんど不可能です。なぜなら「差別はいけな
い」ということの「根拠」は人類普遍ではないですからね。
しかし、一方で差別をする側の方にも、差別を正当化できる
確たる「根拠」はない。せいぜい「こいつら嫌だから」とか
「オレの方が偉いから」という程度の恣意的な「根拠」しか
ない。
ことほど左様に、良かれ悪しかれ人の “考え” に「根拠」は
ない。さっき書いたように、「根拠」というものは常に恣意
的なものです。
それが科学であっても、“考え” である限り恣意的です。実
験や観測で確認して、それを「根拠」としたりするけれど、
そういう科学的な “考え” が後で否定される例は数限りない。
恣意的な前提条件の上での「根拠」でしかないからです。い
ま否定されていない事柄でも、この先も否定されない保証は
ない。現時点でその事を確認する必要を感じている人がいな
いだけでしょう。「さしあたりそれでかまわないな」と皆が
思っているだけ。
あげくに、「科学的」を突き詰めてきた結果、量子力学で
は「観測するという行為が結果を変えてしまう」という話に
なってしまって、科学者は困ってしまった。しかも「観測す
るという行為が結果を変えてしまう」という説自体が、原理
的に確たる「根拠」を示せないという泥沼です。
科学でさえそうなのですから、他のことに「根拠」など示
しようがありません。すべては恣意的で、自分が納得できれ
ばいいということでしかない。
「根拠を示せ」なんて言うのは、身勝手を通したいが為の
その場しのぎのあがきでしかありません。
あるお坊さんが言っていました。
「他人に認めてもらって安心してもしようがない。自分が
納得できればそれでいいじゃないか」と。
他人に認めてもらうことで得られる安心は、他人から否定
されたらすぐ揺らぐものでしかありません。「妄想」だろう
が「たわごと」だろうが、自分が納得できていればそれで良
いわけです。自分が生きているんだから。
それが本当に「妄想」なら、世の中でいろいろ苦労するこ
とになるでしょうけど、納得づくならそれも引き受けられる
でしょう。ヘタをしたらイエスみたいに磔にされるかもしれ
ませんが、イエスは納得づくで磔になったことでしょうね。
結局のところ「根拠」を求めるとしたら、“自分の納得” 以
外にないでしょう。
誰からのどのような批判・非難を浴びても揺るがない “納
得” 。それこそが「根拠」と呼べるでしょう。ようするに
「これでいいんだ」という満足ですね。
「根拠」というものは世の中に存在しているのではなく、
個人の中に見つけるものなんですね。
世間的に見れば、はなはだ根拠のない話になりましたけど
ね😄
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