2024年8月18日日曜日

ミルクをこぼした・・・



 このブログを書き始めてまだ一年も経たない頃に、むかし

通っていた「ライカ」という喫茶店のことを書いた(『新長

田 喫茶「ライカ」で』2017/12)。ある日そこで読んだ雑誌

の中で印象に残った言葉がある。


 「ミルクをこぼしたことがない人はいない・・・」


 読み切りのコラムのようなものの中にあった言葉だった。

 内容も書き手も覚えていない。ただ、書いていたのが女性

で、自分や誰かの失敗をどう受け止めるかという話だったの

だと思う。


 誰でも失敗するのだからという表現として、「ミルクをこ

ぼしたことがない人はいない」という言葉が使われていた。

「水をこぼした・・」ではなくて「ミルクをこぼした・・」

という表現が、優しく、女性的で、「イイ表現だな」と思っ

て印象に残った。そしていまでも時々この言葉が頭に浮かぶ

ことがある。


 「ミルクをこぼしたことがない人はいない・・・」


 失敗したことがない人はいない。誰でも失敗する。お互い

様なんだけど、わたしたちは他人の失敗は嘲笑ったり、怒っ

たりする。そうすることで自分の心の安定感を増そうとす

る。失敗した者と、そのときは失敗していない自分を、無意

識に天秤に掛けて「自分は優位だ」と・・・。けれど、その

天秤に「失敗した者」として自分が載る時がすぐに来る。そ

して自己嫌悪することになり、自分に言い訳をするという、

情けないはめになる。


 他人の失敗も、自分の失敗も、意に介さないのならば、わ

たしたちはどれほど穏やかだろう。けれど、わたしたちはそ

れがとても苦手だ。

 わたしたちは、自分の失敗も他人の失敗もとても恐れてい

る。失敗は未来を重たくする。自分にとって望ましい未来

を・・・。

 けれども、誰でもミルクをこぼす。誰でも。


 誰でもミルクをこぼす

 誰でもミルクをこぼんすんだ

 誰でも・・・


 前に ボブ・ロス さんの言葉を書いたこともあった。

 「失敗なんかありません。すべては楽しいハプニング!」
 

 失敗などあるのだろうか?

 どのような深刻なことであれ、どのような受け止め難いこ

とであれ、それは「そのようなことが起きた」ということ

で、それをどう受け止めるかは自分にゆだねられている。そ

の出来事に「失敗」というラベルを貼らなければ、失敗は無

い。

 自分のしたことに対して、誰かが「失敗」という評価をし

たりするだろう。その状況ではその評価を受け止めなければ

しようがなこともあるだろう。けれど本当は失敗などはな

い。

 この世界は失敗したことがない。当然、世界の一部である

人も失敗したことがない。


 「ミルクをこぼした・・・」。それは失敗ではない。

 「ミルクをこぼした」ということが起きただけだ。
 

 しかし、人間のしてきたことを振り返ると、人間はとんで

もない失敗ばかりをしてきたように見える。「すべては楽し

いハプニング!」などとは、とてもじゃないけど言えない。

「すべては楽しいハプニング!」ではない。すべては「楽し

くもない」し「ハプニング」でもない。けれども失敗でもな

い。すべては、ただ「起きたこと」、だ。


 「起きたこと」をわたしたちが評価の天秤に載せるせい

で、世界は傾く。一度その天秤を動かせば、わたしたちの心

は揺れ続けることになる。

 その揺れがある程度までなら、人はあえてそれを楽しむけ

れど、そうしている内に平衡感覚を失う。やがてはまったく

揺れを制御できなくなり、抜き差しならないことになる。薬

物やギャンブルの依存症のように、思想を振りかざす原理主

義者のように。


 こぼしたミルクを天秤に移すようなことはしない方がい

い。ミルクをこばしたら、ただ拭けばいい。それだけのこと

だ。


 世界は何も評価していない。わたしたちのアタマだけが評

価ということをする。そして、まるで世界が常に揺れている

かのように錯覚する。自分たちが揺らしていることに気付か

ずに。


 そもそも、「ミルクをこぼす」のはバランスを崩すからだ

けれど、バランスを崩させたのはわたしたちの評価ではない

のか?

 「早く運ぼう」とか「できるだけたくさん入れておこう」

とか、あるいは他のことに気をとられてとか。そこには評価

する習癖が潜んでいないか?


 わたしたちは、あらゆることで少しでも評価の高いものを

手に入れようとするけれど、「評価すること」自体で、わた

したちはいったい何を得られるのか? そこのところの評価は

放ったらかしのままなのだ。

 ミルクは、コップの中でただ飲まれるのを待っている。



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