2024年10月28日月曜日

自由自在とは

 

 

 不運をどう扱うか。

 幸運をどう扱うか。
 
 生きるということは、結局そういうことだろうと思う。
 
 で、どうしたら良いか?
 
 スルーしちゃうのが最善でしょう。
 
 
 イワシの群れにカジキとかサメとかが突っ込んで行くと、群
 
れが「パッ」と分かれてすぐまた塊りになるじゃない? ああい
 
う感じで、わたしたちの意識も、不運や幸運をスルーするのが
 
いい。そうすれば、不運が人生に不運として影響しない。幸運
 
が人生に幸運として影響しない。運・不運に乱されない。
 
 
 幸運は受け止めればいいじゃないか!
 
 普通はそう考える。けれど幸運を受け止める意識の受け皿
 
は、不運も受け止めるようにできているので、受け皿を出さな
 
い方がいい。
 
 
 大きな病気になった・・。まぁ、不運でしょう。けれどそれ
 
を不運として扱わない。ただ「病気になった」として扱う。
 
 宝くじが当たった!まぁ、幸運でしょう。けれどそれを幸運
 
として扱わない。ただ「沢山お金が入った」 として扱う。
 
 出来事に乱されないように、出来事は出来事のままに扱う。
 
 
 もちろん大きな病気になったら、「まいったな・・」ぐらい
 
は思う。人間ですから。
 
 宝くじが当たったら「ラッキー!」ぐらいは言う。人間だか
 
ら。でもそれぐらいにしておく方がいい。運・不運に深く関わ
 
ると、あらぬ所に迷い出してしまう。観念・妄想の世界に入り
 
込んで、命からはぐれてしまう。
 
 
 不運も幸運もスルーして、やって来るものはやり過ごして、
 
自分の中から外に出て行こうとするものは出て行かせて、変わ
 
らずにここにいる自分を味わう。それは、運・不運とは関係な
 
いしあわせだから。
 
 
 自由自在。
 
 それは何でもできるということじゃなくて、なんでもないと
 
いうこと。 老子の場合は「上善は水の如し」と言った。
 
 自分を固めないで、自分を緩めて、イワシの群れや水のよう
 
に生きたら・・・。試してみれば味わえる。
 
 
 
 
 

2024年10月27日日曜日

天国の地獄

 
 
 タイトルは「天国と地獄」の打ち間違いではありません。昨
 
日、駅のホームに立っているときに、ふと思ったのです。「天
 
国と地獄が別にあるわけじゃないんだ。天国の中に地獄がある
 
んだな」と。
 
 
 この世界は天国なのです。その中でエゴが地獄を作る。
 
 いついかなる時も天国なのです。エゴはそこから目をそら
 
す。エゴは天国が気に入らないようです。
 
 
 これまでも書いてきましたが、エゴの仕事は「分けること」
 
と「否定」することです。
 
 世界と分けることで自分(エゴ)を確認し、自分と自分の世
 
界以外を否定することで、自分が価値あるものだと感じたいの
 
です。その結果どうなるか? 自分が否定したものに取り囲まれ
 
て孤立することになりますね。それは地獄じゃないですか?
 
 
 エゴが否定をしなければ、この世界は天国のままです。
 
 分けずに受け入れてしまえば、この世界は天国です。
 
 とはいうものの、邪悪なものを受け入れていいはずもありま
 
せんね。破滅してしまいます。
 
 
 しかし、邪悪なものとはなんでしょうか?
 
 ひとつには身体を損なうもの・・「暴力」でしょうね。
 
 もうひとつは心を損なうもの・・精神的な「暴力」ですね。 
 
「暴力」だけは避けなければなりません。逃げる・スルーす
 
る・抗う。とにかく受け入れてはなりませんね。 生きて行く上
 
でしなければならないことは、それだけなのかもしれません。
 
「暴力」を受け取らないこと。
 
 
 「暴力」というと、殴るだとか銃で撃つだとかがすぐに思い
 
浮かびますし、精神的な「暴力」だと、罵るとか無視するとか
 
ありますけど、どれもエゴの暴走です。
 
 他人のエゴであれ、自分のエゴであれ、制御できなくなった
 
エゴが暴走して、誰かをあるいは自分自身を傷付ける。
 
 自己嫌悪だとか自己否定とか、自分の人生・運命を呪うなん
 
ていうのは、自分自身に対するエゴの暴走です。だってそんな
 
ことをしても、自分を喜ばすことはできないんですからね。わ
 
たしたちに一番「暴力」を振るうのは、わたしたち自身のエゴ
 
かもしれない。なにせ、エゴはわたしたちの意識に入り込んだ
 
他者(世の中)ですからね。(『意識というものは・・・』
 
2017/1 参照)

 
 「暴力」を振るう誰かからは物理的に逃げることもできる
 
(それが難しい場合もありますが)。けれど、自分のエゴから
 
は物理的に逃げられない。意識の中で自分の心を逃がすしかな
 
いけれど、どうするか?
 
 「勝手に地獄ごっこをやってなさい」
 
 エゴにそう言ってやる(放し飼いですね)。そう言った瞬
 
間、心は天国に居ることに気付く。 元々天国なんですから。
 
 
 じゃぁ、身体的な「暴力」から逃げられなかったら?
 
 逃げられなかったのならしようがないから、せめて心は「暴
 
力」から逃がしてやるのが得策ですね。
 
 「暴力」を防げなかった敗北感・無力感だとか、「暴力」を
 
振るった相手や社会に対する恨み・怒りといった感情に言って
 
やる。「君は地獄に居なさいね」と。 

 
 この世界は天国ですよ。わたしたちのアタマが作るストー
 
リーが地獄を作るけれど。
 
 
 そんな風に思えなければ?
 
 仕方がないので地獄を生きるしかありませんね。それがさだ
 
めなんでしょう。けれど、やっぱりそこは天国ですけどね。
 
 
  


2024年10月19日土曜日

離人症について

 
 
 前回の話を書いたあと、以前から書こうと思っていたことを
 
書く頃合いが来たなと思った。それは「離人症」について。
 
 
 「離人症」というのは精神医学の言葉で、自分が自分の心
 
や体から離れていったり、また自分が自身の観察者になるよう
 
な状態を感じること。罹患者は自分が変化し、世界があいまい
 
になり、現実感を喪失し、その重さや実感を失ったと感じる。
 
慢性的な離人症は離人感・現実感消失障害 とされ、これは
 
DSM-5では解離性障害に分類される”   (ウィキペディア)
 
いうようなことで、 当事者は不安や混乱を覚えるのですが、実
 
は私は二十歳前後の頃に、強いストレスにさらされる期間が続
 
いたためにそういう傾向が有ったのです。自分がおかしくなっ
 
てしまったと、かなり不安になっていました。友達に「お前、
 
おかしいぞ・・」と言われたことさえあったのです。
 
 
 友達と話をしている自分を、もう一人の自分が後ろから見て
 
いて、話はしているけど上のそら・・・。自分が分裂してしま
 
いそうな感じでしたね。その状態は、まさに前回書いたことと
 
同じように思えます。このブログを精神科医が読んだら「あん
 
た離人症だよ」と言われるかもしれませんね。
 
 
 けれども、いまの私が「自分」を放し飼いにしている状況と
 
は、決定的に違うところがある。それは不安を感じていないと
 
いうこと。むしろ、以前の自分が日常レベルで感じていたよう
 
な不安さえ感じなくて、心穏やかな日々を過ごしている。それ
 
が悪いことであるわけがない。
 
 
 二十歳の頃の私の精神状態といまの私の精神状態は、ほぼ一
 
緒でしょう。そもそもわたしたちの意識というのは、意識全体
 
の中に「自分」という自意識があるという構造なので、「自
 
分」とそれ以外の意識が分かれて感じられるという状況は、簡
 
単に起こる。むしろ、そうなるのが当たり前なのを、自意識が
 
必死になって分離感を消しているのでしょう。自意識は全能感
 
に飢えているので、「自分」の外に管轄外の意識が存在するこ
 
とを認めたくないから。

 
 「自分」は意識の本体ではないということを、自意識の側に
 
立って見ると不安になる。けれど意識の本体の側に立って「自
 
分」を見ると不安は無い。人の不安は自意識のはたらきだから
 
です。
 
 
 二十歳の頃の私は地獄にいました。いまの私は天国にいま
 
す。意識構造の在り方に違いはありません。ただ視点が違うだ
 
けですが、その違いが天と地の違いを生んでいる。
 
 
 いわゆる「現実」の私はパッとしません 。いまも昔も大した
 
ことありません。生活や能力に大きな違いが生まれたりしてい
 
ませんが、いまは天国です。それは、意識の視点が生きている
 
ことの豊かさを決定付けるということでしょう。
 
 
 意識が分離しながらも常識的に社会生活を営んでいて、なお
 
かつ非常に穏やかに暮らしているのですから、たとえ精神科医
 
が私を精神疾患だと診断したとしても、「もうちょっと勉強し
 
なさいね😃」と思うだけでしょうね。
 
 
 「自分」を放し飼いにできた人には、宇宙から「離人賞」が
 
贈られます。それは、おおらかな穏やかさです。
 
 
 
 
 
  

2024年10月16日水曜日

自分を飼う

 
 
 
  ~「自分」というものは放し飼いにしておこう~
 
 
 今日も仕事をして、買い物をして、花に水をやって、晩飯を
 
食べて、パソコンをさわって、いまはボサノバを聴きながらこ
 
れを書いている。
 
 日々、朝から晩まで「自分」が何かをしている。 
 
 そのしていることを見ながら、「バカなことしてるなぁ」と
 
か「なかなか面白いことしてるじゃない」とか「コイツはどう
 
しようもないなぁ😅」などと思ったりする・・・。
 
 「自分」を見ているのもなかなか面白い。
 
 
 「自分」を放し飼いにしてると、余計なエネルギーを使わな
 
くて済むので楽だ。手綱を取って「自分」を思い通りにコント
 
ロールしようとしてるとあまり良い結果にはならない。
 
 アタマというものは、「自分」というものも世界というもの
 
もよく分かっていないのに、分かったつもりで「自分」を操ろ
 
うとするものだから面倒を起こす。
 
 
 「自分」は放っておけばいい。けれど野放しはいけない。本
 
能とエゴのままにさせておくと、とんでもないことをしでかす
 
だろうことは誰にでもわかる。なので放し飼いにする。「ここ
 
から出てはいけない」という大枠をふまえた上で、その中で好
 
きにさせておく。〈自分〉は母屋で椅子にでも腰かけてのんび
 
りそれをながめていればいい。気楽なものだ。
 
 
 そんな風に「自分」を放し飼いにするというイメージを持つ
 
と、自動的に母屋の居心地を感じられることになる。たとえそ
 
の感覚が小さなものでも、それは大きな収穫だ。その小さな感
 
覚がやがて大きなものへと広がってゆく。
 
 崩れた堤防がどんどんと広がって川があふれ出すように、意
 
識が自由な空間に広がってゆくことに気が付く。

 
 「ああ、こんなに自由だったんだ」
 
 
 「自分」に構わないでいてやれば、すぐにそう感じる。
 
  そして「自分」も喜ぶんだ。だって、飼い主は〈自由〉とい
 
う懐の広いものなんだからね。
 
 
 
 

2024年10月5日土曜日

わたしたちはどう生きるか?

 
 
 『君たちはどう生きるか』という宮崎駿監督の映画を私は観
 
ていないんですけど、ふとタイトルが頭に浮かんだので、考え
 
てみる。わたしたちはどう生きるのがいいのだろうか。

 
 前に『無意味の意味』(2023/2)という話を書いたときの
 
最後に、「言葉に囚われ、言葉に振り回されることから卒業す
 
ることは、人として生まれた甲斐のあることではないでしょう
 
か?」と書きましたけど、どうせ生きるんならそうあるのが最
 
も望ましいと思っています。
 
 
 生まれた甲斐のある生き方をする。
 
 それが生きる意味のようなものではないかと思う。

 
 わたしたちは言葉に振り回される。思考に振り回される。世
 
の中の見せるストーリーに振り回される。そうして、人として
 
の本質を見失う。見失わされる・・・。ごく普通に、人生とい
 
うものはそういう風にできているので、ほとんどの人が人とし
 
ての本質を見失い、世の中から「甲斐がある」と思わされたこ
 
とに人生を費やし、結局、生まれた甲斐の無い一生を終える。
 
 
 まあ終わってしまえば一緒ではあるので、それでもいいのだ
 
けど、せっかくなら「生まれた甲斐」がある方がいいじゃない
 
ですか。で、その「言葉に振り回されない」「生まれた甲斐」
 
がどういうことかというと、「機嫌良く生きる」という単純な
 
ことだというのが、私の現時点での結論なんですね。そして、
 
人としての本質というものは「機嫌が良い」ものなので、言葉
 
に振り回されなければ、それで機嫌良くいられるわけです。
 
 
 世の中で評価を得られるようなことを「甲斐がある」と思っ
 
て生きていると、不機嫌でいることが多くありませんか?
 
 首尾よく物事が運んだ時に少しばかり感じられる「愉快」に
 
たどりつく為に、多くの不機嫌を「仕方がないこと」と自分に
 
言い聞かせていませんか? 少なくとも、不機嫌な時間は「生き
 
てる甲斐」が無い時間ではないでしょうか?
 
 そういう人生では「生まれた甲斐」がほとんど無いでしょ
 
う。

 
 「機嫌が良いのが人としての本質だ」と私が気付いたのは四
 
年ほど前のことで、『不幸になってみよう!』(2020/4)
 
いう話も書いたのですが、「言葉に振り回されないこと」と
 
「機嫌良くいること」は補完し合っているのです。
 
 言葉に振り回されないようにすると機嫌良くいられるし、機
 
嫌良くいると言葉に振り回されないでいられるわけです。どち
 
らのアプローチでもいいのですが、自分(人)は本質的に「機
 
嫌が良い」のだということを体感しておくのが大事でしょう
 
ね。そうでなければ言葉に振り回されてしまう。表現を変えれ
 
ば、言葉によって、機嫌良さから不機嫌へと誘い出されてしま
 
うのです。
 
 
 自分の中と、この世界の、言葉ではない部分に目を向け、 そ
 
こに機嫌良さがあることを確かめる。そして、その意識を見失
 
わないようにしながら、(しようがないから)言葉の世界と付
 
き合う・・・。

 
 「そんなことできない。難しい」と思われるかもしれません
 
が、たぶんほとんどの人にできることだと思います。だって、
 
仕事をしながら、家事をしながら、遊びながらも「スマホに何
 
かの通知が来ていないかな・・」なんて意識のどこかで思って
 
いたりするでしょう?それと同じです。
 
 
 仕事をしながら、家事をしながら、遊びながら「しょうがな
 
いからこういう自分をやっているけど、心の後ろには機嫌良さ
 
が常にあるな 😊」と気付いていられるんですよ。
 
 そうしながら、奇妙で・ウザくて・しんどくて・時々バカみ
 
たいに面白かったり嬉しかったりするこのロクでもない世の中
 
と、ロクなもんじゃない自分を生きてゆく。
 
 それは「生きてる甲斐がある」と私は思いますけどね。