『君たちはどう生きるか』という宮崎駿監督の映画を私は観
ていないんですけど、ふとタイトルが頭に浮かんだので、考え
てみる。わたしたちはどう生きるのがいいのだろうか。
前に『無意味の意味』(2023/2)という話を書いたときの
最後に、「言葉に囚われ、言葉に振り回されることから卒業す
ることは、人として生まれた甲斐のあることではないでしょう
か?」と書きましたけど、どうせ生きるんならそうあるのが最
も望ましいと思っています。
生まれた甲斐のある生き方をする。
それが生きる意味のようなものではないかと思う。
わたしたちは言葉に振り回される。思考に振り回される。世
の中の見せるストーリーに振り回される。そうして、人として
の本質を見失う。見失わされる・・・。ごく普通に、人生とい
うものはそういう風にできているので、ほとんどの人が人とし
ての本質を見失い、世の中から「甲斐がある」と思わされたこ
とに人生を費やし、結局、生まれた甲斐の無い一生を終える。
まあ終わってしまえば一緒ではあるので、それでもいいのだ
けど、せっかくなら「生まれた甲斐」がある方がいいじゃない
ですか。で、その「言葉に振り回されない」「生まれた甲斐」
がどういうことかというと、「機嫌良く生きる」という単純な
ことだというのが、私の現時点での結論なんですね。そして、
人としての本質というものは「機嫌が良い」ものなので、言葉
に振り回されなければ、それで機嫌良くいられるわけです。
世の中で評価を得られるようなことを「甲斐がある」と思っ
て生きていると、不機嫌でいることが多くありませんか?
首尾よく物事が運んだ時に少しばかり感じられる「愉快」に
たどりつく為に、多くの不機嫌を「仕方がないこと」と自分に
言い聞かせていませんか? 少なくとも、不機嫌な時間は「生き
てる甲斐」が無い時間ではないでしょうか?
そういう人生では「生まれた甲斐」がほとんど無いでしょ
う。
「機嫌が良いのが人としての本質だ」と私が気付いたのは四
年ほど前のことで、『不幸になってみよう!』(2020/4)と
いう話も書いたのですが、「言葉に振り回されないこと」と
「機嫌良くいること」は補完し合っているのです。
言葉に振り回されないようにすると機嫌良くいられるし、機
嫌良くいると言葉に振り回されないでいられるわけです。どち
らのアプローチでもいいのですが、自分(人)は本質的に「機
嫌が良い」のだということを体感しておくのが大事でしょう
ね。そうでなければ言葉に振り回されてしまう。表現を変えれ
ば、言葉によって、機嫌良さから不機嫌へと誘い出されてしま
うのです。
自分の中と、この世界の、言葉ではない部分に目を向け、 そ
こに機嫌良さがあることを確かめる。そして、その意識を見失
わないようにしながら、(しようがないから)言葉の世界と付
き合う・・・。
「そんなことできない。難しい」と思われるかもしれません
が、たぶんほとんどの人にできることだと思います。だって、
仕事をしながら、家事をしながら、遊びながらも「スマホに何
かの通知が来ていないかな・・」なんて意識のどこかで思って
いたりするでしょう?それと同じです。
仕事をしながら、家事をしながら、遊びながら「しょうがな
いからこういう自分をやっているけど、心の後ろには機嫌良さ
が常にあるな 😊」と気付いていられるんですよ。
そうしながら、奇妙で・ウザくて・しんどくて・時々バカみ
たいに面白かったり嬉しかったりするこのロクでもない世の中
と、ロクなもんじゃない自分を生きてゆく。
それは「生きてる甲斐がある」と私は思いますけどね。
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