2025年1月17日金曜日

犠牲か・・・

 
 
 今日は阪神淡路大震災から30年ということで、テレビでは
 
いろいろ特集を組んで、当時の映像を例年よりもまとまった形
 
で出している。自分もあの中に居たわけだけど、久しぶりにま
 
とまった映像を見て「えげつないなぁ・・・」と思った。長い
 
月日が経ち、実際に経験した感覚が薄れてきたせいで、傍観者
 
的な視点が出てきたかもしれない。で、改めて被害の凄さを感
 
じているようだ。あんな凄まじい現場にいたのだなぁ。
 
 
 「6434人が犠牲になった」
 
 メディアが阪神淡路大震災の話をすると、ほぼ必ずこの言葉
 
が出てくる。今日も何度か聞いたけれど、ふいに「犠牲」とい
 
う言葉が気になりだした。「犠牲」という言葉はそもそも何な
 
んだろうと。
 
 
 災害の犠牲、戦争の犠牲、犯罪の犠牲、疫病の犠牲・・・。
 
 「抗いようのない力によって命を奪われること・・」そうい
 
 う事なんだろうけれど、自然災害で命を落とした人に対して
 
「犠牲」という言葉を使うことが相応しいのだろうか?
 
 そんな疑問が少しだけ浮かんでしまった。
 
 
 戦争や犯罪の場合に「犠牲者」という表現を使うのは、それ
 
でいいような気がするが、災害や疫病などの場合は何か違うよ
 
うな気がする。「犠牲」という言葉には「悪や愚かさによって
 
命を奪われた」というニュアンスがあるように私は感じるの
 
で、「6434人の犠牲」とか言われると、ある種の社会的な
 
負のレッテルが余計に加えられていて、なんだか亡くなった人
 
たちに重いものを背負わせるようにも思う。できごとの重さを
 
表したいのだろうけど、その重さが亡くなった人にかかっては
 
いないか?
 
 まぁ考えすぎだろうから、そんな些細な言葉のニュアンスに
 
こだわるのも趣味が悪いのかもしれない。ただ、自然災害に
 
よって突然命を奪われた人たちのことを語るのなら、慎重に言
 
葉を選ぶのは礼儀だろう。
 
 震災以降、私が「がんばれ!」という言葉が嫌いになったの
 
と同様に、「犠牲」という言葉が相応しいのかどうかを、一度
 
考えてみてもいいのではないだろうか。 
 
         (『がんばれ!』?・・・・2017/10 )
 
 
 「6434人が亡くなった」
 
 単にそれでいいのではないだろうか。
 
 そのようなフラットな表現の方が、亡くなった方たちに親切
 
ではなかろうか。
 
 
 震災から30年。この30年の間に、日本では3500万人
 
ぐらいの人がさまざまな事情で亡くなっただろう。そのほとん
 
どの人の死を誰かが悼んだだろう。そして、それぞれのさだめ
 
によって、その死を受け止めて来ただろう。
 
 人は死んでゆくのである。次々に死んでゆくのである。
 
 それは厳然たる事実である。
 
 そして「死」そのものに区別は無い。
 
 直接関わりのない人の「死」に対しては、フラットに関わる
 
べきではではないだろうか。
 
 所縁(ゆかり)の無い者が、その「死」になんらかの色を付
 
けてしまうのは失礼であり、なおかつ「死」の真実を歪めるこ
 
とになるように思うのだが・・・。
 
 
 
 
 もう30年か・・・。 
 
 歳月人を待たず。本当にあっという間に過ぎてしまった。
 
 本当にあんなことが起きたのだろうか?
 
 この30年は本当にあったのだろうか?
 
 なにやら、呆然としてしまう。
 
 
 「あの日、あの人たちが死なずにいたなら・・・」
 
 その世界は無いのです。
 
 あの人たちの死んだ世界を私たちは生きてきた。そしてその
 
30年の世界も過ぎ去って、もう無い。
 
 
 30年前、あの人たちは生きていた。
 
 いま私たちは生きている。あとしばらくの間。
 
 そして私たちも「生きていた人」になる。
 
 
 「生きている」
 
 「生きていた」
  
 
 生きることに色を付けずにいたいものだ。
 
 これからの「生きてゆく」ことにも、かつて「生きていた」
 
ことにも。
 
 
 
 
 
 

2025年1月13日月曜日

昨日を探す

 
 
 加川 良さんの50年以上前のアルバム『やぁ。』の冒頭の曲
 
「大晦日」のサビの部分が時折あたまをよぎる。
 
 
  いつかきっと 船に乗って ボクの昨日を探しあてて 
 
  いつかきっと 船に乗って ボクの昨日を住み処とするさ
 
 
 なぜかこの歌詞が好きだったけれど、今日もふとあたまに浮
 
かんで来てはたと気付いた。
 
 「昨日」を探しあてると、その「昨日」にも「昨日」がある
 
わけで、そうやって「昨日」を探し続けると赤ん坊の時に戻
 
り、さらに母親のおなかの中へ戻り、そして生まれる前に戻
 
る。
 
 「この歌は、世の中に惑わされ、害される前の自分に戻りた
 
いという想いを歌っていたんだ。だからずっと心に引っかかっ
 
ていたんだな」と。
 
 
 加川 良さんがそこまで意識した上で詞を書いたのではないだ
 
ろうと思う。けれど、そういう言葉にはなっていない想いから
 
生まれた歌詞なんだろう。
 
 
 別に、現状が嫌だから昨日に逃げ帰りたいということではな
 
くて、誰しもが「何かが違う」という感覚を持ちながら暮らし
 
ていて、「自分は世の中に迷い出てしまった・・・」と心のど
 
こかで知っているのだろう。その気持ちを、加川さんは〈昨日
 
を探しあてて 昨日を住み処とする〉と言葉にした。「何か違う
 
から、昨日に戻ってみよう」と。

 
 現実には昨日に戻れない。戻ろうとしても〈昨日に戻ろうと
 
した今日〉が来るだけ。
 
 けれども、今日を生きて、明日を迎えながら、そこに迷い込
 
まないで、遠い遠い昨日の本来の自分を迷子にさせないように
 
することは、自分を大切にすることだろう。
 
 と、書いていて「これ詞になるなぁ」と思った。
 
 
 きょうを生きて
 
 あしたを迎えながら
 
 そこには迷い込まないようにね
 
 
 遠い遠い 昨日の自分を
 
 迷子にさせないようにね
 
 
 書きながら加川 良 風のメロディが浮かんだ。
 
 久しぶりに『やぁ。』のレコードを出して聴いてみることに
 
する。

 
 
 

2025年1月12日日曜日

現実は容赦ない

 

 Camera Obscura の新しいアルバムが出ていたので、い

まそれを聞きながらこれを書いている。Camera Obscura 

メンバーの女性がガンで亡くなったことで長く活動休止し

ていたが、新しいメンバーも加入して11年ぶりのアルバム発

表となったそうだ。曲調はこれまでと変わらず楽しめるが、

少し落ち着いた感じになっている。バンド結成から28年、

メンバーも中年になっているので落ち着いた感じになって当

たり前だろうけど、経緯を考えるとそれだけでもないだろう

なぁ。
 

 脂の乗っている時期にメンバーを喪う。 好事魔多し。現実

容赦ない。そして、その容赦のない現実が、その後の人生

を変えて行く・・・。それを想定外・予想外と見て現実を呪

うのか、思いもよらない展開を「これも自分の人生か・・」

と真摯に受け取るのか。

 Camera Obscura は現実を受け止めて消化するのに10

年を必要としたようだけど、その10年は早いわけでも遅い

わけでもない。その10年と容赦のない現実は、新しいアル

バムの出来からして、価値があると考えてよいものだったの

だろう。亡くなったメンバーの供養の為にも、そうであるべ

きだっただろう。
 

 時として現実は容赦ない。けれど「容赦ない」と思うのは

人の勝手であって、どのような現実も、現実はただ現実であ

るだけだ。思いもよらない現実は、悲劇であったり喜劇でも

あったりするけれど、悲劇は悲劇であるがゆえに大きな影響

力を持っていて、それが思いがけない恩寵として作用するこ

ともある。私自身の人生を振り返っても、そういう事がいく

つも有る。

 悲劇も喜劇もいずれにせよ “劇” ならば続きがある。自分の

中でそのストーリーのその後をどうするかは、一応自分に託

されている。さて、その現実からどこへ向かえるのか?
 

 私は大切な人の死であっても、「不幸なこと」にしてしま

うべきではないと考えている人間です。 それはその人を「不

幸で終わった人生」に閉じ込めないことが礼儀だと思うから

だし、他の容赦ない現実であっても「不幸なこと」にするべ

きではないと思っている。 
 

 以前《 一人の人を愛する心は、どんな人をも憎むことがで

きません 》というゲーテの言葉を引用したことがあるけれ

ど、この言葉は《 一つの出来事を愛する心は、どんな出来事

をも憎むことができません 》と言い替えてもよいと思う。そ

れが世の中の基準とは違っていても、生きることの本質を想

えばそちらの方が正解に違いない。
 

 どんな出来事であっても、出来事自体に良いも悪いもな

い。

 一つの出来事を本当に愛し、本当に感謝する心は、どのよ

うな望まぬ出来事であっても、そこになんらかの必然を見る

だろう。

 「出来事は起こるべくして起こるのだから、出来事が “起

こる甲斐があった” ように生きねばならない」

 そのような受け取り方をするだろう。

 都合が良いから愛するのではない。都合が悪いのに愛する

のでもない。
 

 「出来事と都合が反応して、愛や憎しみが生まれる」それ

が世の中の常識だけど、「出来事と愛が反応して、それから

の都合が生まれて来る」それが良い生き方ではないだろう

か? 


 現実を「容赦ない」と感じる人が現実を愛するときは来な

いだろうと思う。



 

2025年1月4日土曜日

こんな人とは縁を切れ😁

 
 
 こんなブログを書いている人間だから興味もそういう方向な
 
ので、You Tube のおすすめにもいろいろスピリチュアル系や
 
自己啓発系の動画が出てくる。よく見かけるサムネの一つに
 
「こういう人とは縁を切れ」というのがある。「あなたのしあ
 
わせや成長に、こういう人は邪魔になる」というやつですね。
 
 まぁそういう人間はもちろんいるし、縁を切った方が良いと
 
思うけど、これまでの自分・いまの自分の状況は良くないと思
 
うのなら、縁を切らなけりゃいけないのは「自分」でしょう。
 
 
 利己的で打算的な人間と関わってしまうのは、「自分」にそ
 
ういう人間と関わりやすい性質があるからです。そこが同じな
 
ら、また問題の有る人間が関わってきてしまう。
 
 「自分の成長」とか「自分のしあわせ」とかの為に人を値踏
 
みするような性質だから、同じような人間が関わってきてしま
 
う。類は友を呼ぶ、類をもって集まる・・・。自分がしあわせ
 
であるかどうかを人のせいにしてはいけない。それは不幸の始
 
まりです。 
 
 
 「成長」とか「しあわせ」にこだわるような「自分」という
 
が、一番自分にとって邪魔です。そんなことに気をとられて
 
いるから、自分のしあわせやこれまでに成長してきた自分を顧
 
みることができなくなる。
 
 “「自分」とは縁を切れ” 
 
 私ならそう言う。
 
 
 「自分」をどこかへ消し去ってしまえというんじゃない。
 
 「無我になれ」とか、型通りの禅僧みたいなことは言わな
 
い。ただ「自分」との繋がりを切ればいい。自分の前や、自分
 
の周りで「自分」がうろちょろしていても、それはさせておけ
 
ばいい。「ああ、ご苦労さん」と眺めていればいい。自分に面
 
倒をかけても大目に見てやる。ただし、その「自分」と、自分
 
を同一視してはいけない。それが縁を切るということ。
 
 
 それができれば、他の人もそのように扱える。
 
 利己的で面倒な人間が目の前をうろちょろしてすり寄ってき
 
ても、自分の世界に入って来ていると思ってはいけない。心理
 
的に縁が切れていれば、そういう人間はすぐにどこかへ去って
 
行く。「こいつは利用できない」と感じるので。 
 
 
 「自分」と縁が切れると、あらゆる面倒と縁が切れる。「自
 
分」が世の中(他者)との窓口だから。結果的に自分は穏やか
 
でいられるようになる。自分を自分が非難したり攻撃すること
 
はないですからね。
 
 
 引きこもりの勧めとかじゃないですよ。あくまでも、心理的
 
な絶縁の話です。
 
 
 
 
 

2025年1月3日金曜日

お祭り嫌い

 
 
 子供のころからお祭りというものが好きじゃなくて、町内の
 
子供みこしとかも参加しない子でした。地蔵盆みたいな落ち着
 
いたお祭りはいいのだけど、「ワッショイ、ワッショイ」みた
 
いな乱暴なのにはいまも全然馴染めない。岸和田のだんじりと
 
か、いろんな地方にあるケンカ祭り的なものとかは見たくもな
 
い。
 
 単純に肉体的・暴力的な感じがイヤということではなくて、
 
どうもあの理性を投げうつ感じに違和感があるらしい。
 
 
 ああいうお祭りというのは、その社会(コミュニティ)の方
 
針に普段から従順に従っている人間にガス抜きをさせるために
 
あるんだろうと思っています。「はい、この日だけは暴れさせ
 
てやるから、済んだらまたおとなしくいうことを聞いてなさい
 
ね」ということでしょう。つまり、ああいうのに熱狂する人間
 
は、普段から自分の考え・感性というものを抑え込んでいるの
 
で、その反作用としてお祭りでキレることができる。
 
 私のように自分をごまかせない人間は、日頃から「変だ」と
 
思うことには従わないので(嫌がられたり干されたりしますが
 
😮‍💨)、鬱憤を溜め込まない。溜まっても「溜まってる」と自分
 
で認識しているので、個人的にお祭りをして小さなガス抜きを
 
するので、特定の時にキレる必要がない。
 
 なので、ああいうお祭りで鎖を解かれた犬が駆け回るみたい
 
にしている人間を見ると、自分の考えが無い人間だということ
 
があらわになっていて気味が悪い。恐い。肉体的・暴力的な面
 
が恐いのではなくて、自分の考えが無いというところが恐いの
 
です。
 
 
 『ヤマタイカ』という星野之宣さんの面白いマンガがありま
 
すが、その中で第二次世界大戦を「歪んだかたちの祭り」と表
 
現していて、昔読んだときに「なるほど」と思いました。
 
 自分で考えず、社会に従順に従って自分を抑え込んで生きて
 
いる人間は、それが限界を迎えると爆発する。それがあのよう
 
な戦争になったというわけです。
 
 戦後に学生運動が盛んになって学生が暴れまわったのも、や
 
はりそうでしょう。一見、社会に反発しての運動に見えていま
 
したけど、彼らは自分たちの社会を作ってその不文律にした
 
がったのですから(自分たちの)社会に従順だったのですし、
 
日本社会全体のガス抜き役になっていたのでしょう。その証拠
 
に、彼らは学生運動のブームが去ると、ネクタイをしめて満員
 
電車にすし詰めになりタイムカードを押した・・・。従順なも
 
のです。そして仕事が終わったら飲み屋に集まって大勢で酔っ
 
払って騒ぐ・・・みんなで小さなお祭りをしてどうにかこうに
 
か自分をなだめる。私が酔っ払いを嫌いなのも、彼らが「自分
 
を消す人間」だからです。(ちなみに私は、後でよく憶えてい
 
ないほど飲んだとしても理性的です。たぶん普段から鬱憤を溜
 
めないからでしょう。ひねくれ者の良いところでしょね)
 
 
 戦争や暴動のような「歪んだ祭り」を担うのは、普段のお祭
 
りに喜んで参加する人間たちだと思いますね。「自分がしなけ
 
 ればならないことは社会が指示してくれる」「みんなやってい
 
るから」という人たちですから、国から「戦争へ行って人を殺
 
してこい」と言われれば、「はい分かりました」と。
 
 
 ネット上でしょっちゅう炎上が起きますが、あれもお祭りの
 
一種でしょうね。
 
 ネタはなんでもいい。本当のことなんか知らなくていい。良
 
い悪いも掘り下げる必要はない。とにかく暴れられればそれで
 
いい・・・。社会で割を喰わないように普段自分を消している
 
から、安全そうだとすぐに暴力を振るう。子供のいじめと一緒
 
です。情けない話です。ああいう情けない人間にはなりたくあ
 
りません。「情け」というのは「自分の情」であり、自分に本
 
来備わっている善性と、そこから生まれる判断力でしょうから
 
ね。
 
 自分を消す人間には、情が無い。
 
 当然といえば当然ですね。
 
 
 
 

2025年1月1日水曜日

正月向けじゃないブログ

 
 
 命の本質は白紙であって、そこに展開する人生はオマケや飾
 
りのようなものでしかなく、実体は無い。
 
 
 このブログでは、そのようなことを幾度となく書いている。
 
世間の常識からすれば、はなはだ不快なブログでしょう。
 
 「あんたのしていることには、つまるところ意味は無い」
 
 そういう話ですからね。とても正月から読むような内容じゃ
 
ない。
 
 でも私は本気でそう思っているのでしようがない。そう考え
 
ることがしてはいけないことなら、この世界はそう考えること
 
などできないように私を作っただろう。でもそのようにはなっ
 
ていないので、私はこれからも気兼ねなくそう考える。
 
 
 たまたまこのブログを見てしまって不快になる人は、不快に
 
なればいいのである。そして良い機会だから自分がなぜ不快に
 
なるのかを探ってみればいい。自分にとって見過ごせない意味
 
を持つ内容だからこそ不快になるのだから。
 
 
 このブログのような話に限らず、人が不快になる事柄はその
 
人の世界観・価値観にとって重要な意味を持っている。その不
 
快さは、その事柄が自分の世界観・価値観の弱点や欠陥に触れ
 
るからこそ不快なのだから。
 
 このブログがとてもとても不快に感じるようならば、それは
 
その人の世界観・価値観に大きな問題がある証拠でもある。 
 
だって、どこの馬の骨が書いたかも分からないものだし、単な
 
る言葉でしかないのだから、そのようなものをとても不快に感
 
じるということは、その人はかなり不安定な世界観・価値観の
 
上に自分を成り立たせているはずです。なので、このブログの
 
内容を取り入れるとかじゃなくても、とにかく自分の世界観・
 
価値観を見直してみるべきです。
 
 
 で、冒頭の話に戻りますが、 そのような人は一度自分の世界
 
観・価値観を白紙にすべきです・・・いや、違うな・・・、
 
分の世界観・価値観が変更可能であることを確認すべきです。
 
 病的な精神状態でなければ、少しものの見方が変わることは
 
誰にでもあることでしょう? それはわたしたちの世界観・価値
 
観が絶対のものではないことの証拠です。少しどころか、すべ
 
てがホワイトボードに描かれたもののように、消し去られ得る
 
ものです。
 
 
 わたしたちの世界と価値の本質は、描かれたものではなく
 
て、それが描かれている白紙の方にあるのです。
 
 それは消し去られ得るものではない。それは失われることが
 
ない。そこにはわたしたちが不快になる元のものが無い。
 
  汚され、傷付けられ、圧し潰されうる表面的なものがない。
 
 
 今日は2025年元日ですが、「正月」というのは「正す
 
月」であって、リセットするという意味でしょう。
 
 日本の暦(こよみ)というのは一年草である稲作をメインに
 
した農業歴で、前年の収穫を終えてゼロからまた始めるわけで
 
すから、リセットという意味で新しい一年の始まりの月を「正
 
月」とした。
 
 正月は白紙の自分を意識するにはふさわしいのかもしれな
 
い。そして、その白紙の意識を忘れずに暮らすのなら、心の中
 
は一年中正月のようなものでしょう。めでたい話です。