Camera Obscura の新しいアルバムが出ていたので、い
まそれを聞きながらこれを書いている。Camera Obscura
はメンバーの女性がガンで亡くなったことで長く活動休止し
ていたが、新しいメンバーも加入して11年ぶりのアルバム発
表となったそうだ。曲調はこれまでと変わらず楽しめるが、
少し落ち着いた感じになっている。バンド結成から28年、
メンバーも中年になっているので落ち着いた感じになって当
たり前だろうけど、経緯を考えるとそれだけでもないだろう
なぁ。
脂の乗っている時期にメンバーを喪う。 好事魔多し。現実
は容赦ない。そして、その容赦のない現実が、その後の人生
を変えて行く・・・。それを想定外・予想外と見て現実を呪
うのか、思いもよらない展開を「これも自分の人生か・・」
と真摯に受け取るのか。
Camera Obscura は現実を受け止めて消化するのに10
年を必要としたようだけど、その10年は早いわけでも遅い
わけでもない。その10年と容赦のない現実は、新しいアル
バムの出来からして、価値があると考えてよいものだったの
だろう。亡くなったメンバーの供養の為にも、そうであるべ
きだっただろう。
時として現実は容赦ない。けれど「容赦ない」と思うのは
人の勝手であって、どのような現実も、現実はただ現実であ
るだけだ。思いもよらない現実は、悲劇であったり喜劇でも
あったりするけれど、悲劇は悲劇であるがゆえに大きな影響
力を持っていて、それが思いがけない恩寵として作用するこ
ともある。私自身の人生を振り返っても、そういう事がいく
つも有る。
悲劇も喜劇もいずれにせよ “劇” ならば続きがある。自分の
中でそのストーリーのその後をどうするかは、一応自分に託
されている。さて、その現実からどこへ向かえるのか?
私は大切な人の死であっても、「不幸なこと」にしてしま
うべきではないと考えている人間です。 それはその人を「不
幸で終わった人生」に閉じ込めないことが礼儀だと思うから
だし、他の容赦ない現実であっても「不幸なこと」にするべ
きではないと思っている。
以前《 一人の人を愛する心は、どんな人をも憎むことがで
きません 》というゲーテの言葉を引用したことがあるけれ
ど、この言葉は《 一つの出来事を愛する心は、どんな出来事
をも憎むことができません 》と言い替えてもよいと思う。そ
れが世の中の基準とは違っていても、生きることの本質を想
えばそちらの方が正解に違いない。
どんな出来事であっても、出来事自体に良いも悪いもな
い。
一つの出来事を本当に愛し、本当に感謝する心は、どのよ
うな望まぬ出来事であっても、そこになんらかの必然を見る
だろう。
「出来事は起こるべくして起こるのだから、出来事が “起
こる甲斐があった” ように生きねばならない」
そのような受け取り方をするだろう。
都合が良いから愛するのではない。都合が悪いのに愛する
のでもない。
「出来事と都合が反応して、愛や憎しみが生まれる」それ
が世の中の常識だけど、「出来事と愛が反応して、それから
の都合が生まれて来る」それが良い生き方ではないだろう
か?
現実を「容赦ない」と感じる人が現実を愛するときは来な
いだろうと思う。
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