今日は阪神淡路大震災から30年ということで、テレビでは
いろいろ特集を組んで、当時の映像を例年よりもまとまった形
で出している。自分もあの中に居たわけだけど、久しぶりにま
とまった映像を見て「えげつないなぁ・・・」と思った。長い
月日が経ち、実際に経験した感覚が薄れてきたせいで、傍観者
的な視点が出てきたかもしれない。で、改めて被害の凄さを感
じているようだ。あんな凄まじい現場にいたのだなぁ。
「6434人が犠牲になった」
メディアが阪神淡路大震災の話をすると、ほぼ必ずこの言葉
が出てくる。今日も何度か聞いたけれど、ふいに「犠牲」とい
う言葉が気になりだした。「犠牲」という言葉はそもそも何な
んだろうと。
災害の犠牲、戦争の犠牲、犯罪の犠牲、疫病の犠牲・・・。
「抗いようのない力によって命を奪われること・・」そうい
う事なんだろうけれど、自然災害で命を落とした人に対して
「犠牲」という言葉を使うことが相応しいのだろうか?
そんな疑問が少しだけ浮かんでしまった。
戦争や犯罪の場合に「犠牲者」という表現を使うのは、それ
でいいような気がするが、災害や疫病などの場合は何か違うよ
うな気がする。「犠牲」という言葉には「悪や愚かさによって
命を奪われた」というニュアンスがあるように私は感じるの
で、「6434人の犠牲」とか言われると、ある種の社会的な
負のレッテルが余計に加えられていて、なんだか亡くなった人
たちに重いものを背負わせるようにも思う。できごとの重さを
表したいのだろうけど、その重さが亡くなった人にかかっては
いないか?
まぁ考えすぎだろうから、そんな些細な言葉のニュアンスに
こだわるのも趣味が悪いのかもしれない。ただ、自然災害に
よって突然命を奪われた人たちのことを語るのなら、慎重に言
葉を選ぶのは礼儀だろう。
震災以降、私が「がんばれ!」という言葉が嫌いになったの
と同様に、「犠牲」という言葉が相応しいのかどうかを、一度
考えてみてもいいのではないだろうか。
(『がんばれ!』?・・・・2017/10 )
「6434人が亡くなった」
単にそれでいいのではないだろうか。
そのようなフラットな表現の方が、亡くなった方たちに親切
ではなかろうか。
震災から30年。この30年の間に、日本では3500万人
ぐらいの人がさまざまな事情で亡くなっただろう。そのほとん
どの人の死を誰かが悼んだだろう。そして、それぞれのさだめ
によって、その死を受け止めて来ただろう。
人は死んでゆくのである。次々に死んでゆくのである。
それは厳然たる事実である。
そして「死」そのものに区別は無い。
直接関わりのない人の「死」に対しては、フラットに関わる
べきではではないだろうか。
所縁(ゆかり)の無い者が、その「死」になんらかの色を付
けてしまうのは失礼であり、なおかつ「死」の真実を歪めるこ
とになるように思うのだが・・・。
もう30年か・・・。
歳月人を待たず。本当にあっという間に過ぎてしまった。
本当にあんなことが起きたのだろうか?
この30年は本当にあったのだろうか?
なにやら、呆然としてしまう。
「あの日、あの人たちが死なずにいたなら・・・」
その世界は無いのです。
あの人たちの死んだ世界を私たちは生きてきた。そしてその
30年の世界も過ぎ去って、もう無い。
30年前、あの人たちは生きていた。
いま私たちは生きている。あとしばらくの間。
そして私たちも「生きていた人」になる。
「生きている」
「生きていた」
生きることに色を付けずにいたいものだ。
これからの「生きてゆく」ことにも、かつて「生きていた」
ことにも。
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