2025年6月9日月曜日

人の本性は善か悪か?

 
 
 “性善説”と“性悪説”ってありますよね。「人は本質的
 
に善か悪か」っていう話。私は『魂に罪は無い』(2019/3) 
 
って話を書いているぐらいなんで“性善説”の立場なんです
 
けど、普通一般に言われる“性善説”とは違います。人間的
 
価値観を無効とすることで現れてくる人間の本質を“善”で
 
あると考えているんです。
 
 
 人間的価値観を無効としたら何が現れるか?
 
 それは評価とは無関係な人間の意識状態であって、それこ
 
そが本来人間に備わっている意識のベースであるはずです。
 
その本来備わっている人間の意識のベースは“善・悪”の次
 
元にはありません。評価する意識をその中に収めている、よ
 
り大きなものだと思いますからね。
 
 
 そのように“善・悪”を越えた意識がある。“善・悪”以
 
前にそれはあるわけですから、「善か悪か?」なんて考えて
 
も仕方がない。あるのだから肯定するしかないわけですが、
 
その「肯定する」ことが、私にとっては「魂に罪は無い」と
 
いう認識であり、“善”とでも言うべきことなんです。
 
 
 戦争をしようが、搾取をしようが、騙そうが、差別をしよ
 
うが、それは人間の“善・悪”の価値観の中で展開している
 
ことで、意識のベースには関係がない。
 
 関係がないといったところで、そういう悪辣なことが世界
 
からなくなるわけではありませんが、関係がないと見ること
 
ができれば、その悪辣さに自分の意識が乱されることはな
 
い。
 
 そして面白いことに、関係がないという意識でいると、自
 
分の周りの悪辣さに自分からのエネルギーが流れなくなるの
 
で、悪辣さがしぼんでいってしまいます。
 
 なぜなら“悪”が“悪”であり続けるためには、対照とし
 
の“善”が必要だからです。
 
 “善”がなければ“悪”は意味を失い、“悪”としての体
 
裁を失くしてしいます。その結果、具体的にも“悪”は解体
 
してゆきます。
 
 
 これまでに何度か“頭のない男”であるダグラス・ハーデ
 
ィングに触れたことありますが、以前、ハーディングの考え
 
・実験にふれ、自分の世界が変わったという男性のインタビ
 
ュー動画を観ていると、面白い経験談を話していました。
 
 その男性はある時、仕事でかなり面倒なクライアントと関
 
わらなければならなかったそうですが、話をしている内にそ
 
のクライアントが理不尽に怒りだし、手が付けられない状況
 
になったそうです。男性は「困ったな」と一瞬思ったそうで
 
すが、ごく自然に自分の頭をなくした(善悪などの評価をす
 
る意識の外へ出た)そうです。そして何もせずに、ただ怒り
 
狂っているクライアントを見ていると、しばらくしてクライ
 
アントはおとなしくなり、黙ってしまうと一人で部屋を出て
 
いった・・・。
 
 近くで見ていた同僚が「どんな手を使ったんだ?」と驚い
 
ていたそうですが・・・。
 
 
 その男性は自分の意識の本質の部分に避難したわけです。
 
 そこには“善”も“悪”も無いので、相手は追って来れな
 
い。そこに入れば相手の価値観は雲散霧消してしまう。しか
 
たがないので、その場で怒り狂っていたわけですが、その行
 
為は空気を相手にパンチを繰り出し続けるようなことですか
 
ら、すぐに虚しくなってしまって、続けられなくなってしま
 
ったのでしょう。私自身もそれに似た体験を何度かしていま
 
すしね。
 
 
 「非難に対する最良の方法は、非難はそのままにしておい
 
て、ただ自分のすべきことをし続けること」という考えは昔
 
からありますが、意識の本質に自分を置くというのとは少し
 
違うでしょうね。
 
 
 加島祥造さんの『タオ〜ヒア・ナウ〜』の中に、
 
 
 (無為であれば)
 
 世間のこともまわりのことも、なるがままにさせておき、     
 
 黙って、見ていられる人になる。
 
 その方がうまくいく、という計算さえ持たずにね。
 
 
 という一文がありますけど、「自分のすべきことをし続け
 
る」という場合、そこには自分の正当性を信じるといった姿
 
勢があったりして、ある価値観に拠って立っていることが多
 
いでしょう。つまり「耐える」という在り方です。方や、価
 
値の世界の外に出ると、耐えたりする必要がありません。
 
《その方がうまく行く、という計算》さえないということ
 
は、自分が無いということで、「耐える」という主体が無
 
い。出来事は、それが影響をもたらす対象を失います。
 
 
 そのように、価値の世界の外に立ち、無為であり、自分を
 
失うことは、外の世界の出来事の過剰さを解体させる働きが
 
あると思います。それは“善”と言っていいのではないでし
 
ょうか?
 
 
 価値の世界の中にいると、どうしても価値が高いと思われ
 
ることに引きずられ、何かをしようとしてしまい、しなくて
 
いいことまでしてしまう・・・。
 
 随分前に『“過剰”こそ、悪である。』(2017/4)という
 
ことも書きましたが、「しなくていいことをする」のは
 
“悪”です。物質的あるいは精神的にエネルギーをムダに使
 
い、世界に余分な荷物を増やすだけ。
 
 
 価値の世界から退いていると、すべきことが自ずと為され
 
ます。お腹が減ってメシを食い、眠くなったら寝る・・・。
 
 そのような、余計なことに関わっていない人間の本性は
 
“善”だと思います。
 
 
 
 
 
 
 

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