2025年9月7日日曜日

期待外れ

 
 
 何ヶ月か前のブログだったと思うけど、「真理は期待外
 
れ」と書いた。
 
 アタマの右往左往に終止符を打つべく真理を求めるのな
 
ら、真理は期待外れで当然だ。アタマの期待に答えるような
 
ものなら、それは右往左往の内にあるので、右往左往を止め
 
られない。だから真理は外にある。アタマの期待の外にあ
 
る。
 
 
 ならば、期待することを止めれば、そこには真理が現れる
 
だろう。
 
 期待することを止めれば、右往左往も止まるだろう。アタ
 
マが右往左往するのは、何かを期待するからこそだから。
 
 
 真理はいつでも在るのに、何かを期待して右往左往するか
 
ら見失う。人間は、なんとトンチンカンで骨折り損なことを
 
する存在だろう。
 
 
 「とにかく座れ」
 
 「追うな」
 
 「拒むな」
 
 「放っておけ」
 
 「得ようとするな」 
 
 
 禅ではそう教える。
 
 なんの期待も無いとき。そこには忽然と期待はずれの真実
 
がある。期待が無い、という平和が在る。
 
 
 アタマの失望の背後では、平和が笑っている。 
 
 
 
 

2025年9月6日土曜日

「誤解」についての理解

 
 
 
 「あの人はわたしを誤解している」
 
 「わたしはあの人を誤解していた」
 
 人はよくそんなことを言うが、人が誤解しているのは「誤
 
解」という言葉の方だ。「誤解」なんて存在しないのだか
 
ら。そもそも「理解」というものが存在しないのに「誤解」
 
などしようがない。
 
 
 私は人を誤解することがない。理解するなんて不可能だと
 
思っているので、人に対して便宜的にキャラクター付けする
 
ことしかしない。「この人はこういう人」といった決めつけ
 
をしないので、誤解にまで至らない。
 
 逆に私が人から誤解されることもない。たとえ相手が「あ
 
なたのことを誤解していた」と私に告げても、それは相手が
 
一人で勝手に「誤解した」と思うだけで私には関係のないこ
 
とだ。自分で自分のことも理解できないのに、他の人が私を
 
理解できるはずがないから、他の人の思惑なんてどうでもよ
 
いことだ。
 
 
 普通一般に使われる「誤解」という言葉の正体は、良い意
 
味でも悪い意味でも「当てが外れた」ということだろう。一
 
時的に自分が納得しやすい枠の中に相手をはめ込んでいた
 
が、それがズレていると気付いたので「誤解」していたと思
 
う。ではそれで目出度く「理解」したのかといえば、せいぜ
 
い少しはマシな枠付けになっただけのこと。分かった気に
 
なっただけ。
 
 
 人のことなんて分かるわけがない。むしろ、できるだけ分
 
かろうとしない方が良いだろう。
 
 分からないまま、ニュートラルでオープンに人と関わっ
 
て、その時々に目の前に現わされているその人と無理せずに
 
やり取りをする。いま現わされていないその人(の部分)な
 
んて関係ない。いまのその人の在り方と、いまの自分の在り
 
方の親和性がある部分を探って、そこでやり取りするだけの
 
こと。それが人付き合いというものだろう。
 
 もし、そこに親和性が見つからなかったら?
 
 相手をする必要はない。相手のしようがない。無理に付き
 
合ってもお互いに何も良いことはない。そこから立ち去るだ
 
け。 
 
 
 誰にでも経験があるだろうけど、街で道を尋ねられたり、
 
旅先で見知らぬ人とちょっと話す機会があったりしたときの
 
方が、気安く、気分良く話せたりするものだ。それは、お互
 
いに利害関係がないし、お互いに相手のバックグラウンドや
 
バックボーンなどを知らないからニュートラルに関われるか
 
らだ。
 
 
 “その人”を分かろうなんてムリなことだし、変なバイア
 
スを持つだけになりかねない。
 
 自分を分かろうとするのも同じことだ。自分を分かろうと
 
するせいで、多くの人が自分を「誤解」する。
 
 自分であれ他人であれ、悪意がなくても、人を枠にはめよ
 
うととすればロクなことがない。

 
 自分のことも、他人のことも、分からないままで良いでは
 
ないか、さしあたり生きていけそうならば。
 
 もしも生きてゆくのが難しそうならば、それは自分や誰か
 
を分かったつもりになっているせいかもしれない。 

 
 
 
 

2025年9月5日金曜日

仲間はずれ

 
 
 
 もう何十年も前に近鉄電車に乗って奈良へ行ったとき、生
 
駒の高台に差し掛かったところで大阪方面を見たら、霞の彼
 
方まで建物が密集していて「うわぁ・・」と思ったことがあ
 
る。
 
 人間の所業に恐怖を感じて、「この光景が気味悪いと感じ
 
る自分は、人間の仲間ではないのかな・・」とか思ったけれ
 
ど、いまにして思えば、やはり自分は人間の仲間ではないの
 
だろう。
 
 
 ことさらに人を避けているわけではないが、人付き合いは
 
ほとんど無く、世の中で当たり前に通っている常識に違和感
 
を感じる事が多いのだから、仲間でないと判断する方が自然
 
だ。
 
 
 なぜ仲間になれないか?
 
 私が肌感覚のようなものを優先する人間だからだろう。
 
 ほとんどの人が、人の肌感覚的なものをないがしろにして
 
でも、世の中のお話しを進めて行こうとすることに合わせら
 
れない。「なんで、それで平気なの? なんで気持ち悪くな
 
いの?」と感じてしまうことが世の中に多すぎる。
 
 
 こういうことを言うと当然ながら世の中の側からは「お前
 
がおかしいんだよ」と言われるだろうけれど、こちらは元か
 
ら「自分は人間の仲間ではないな」と思っているわけだか
 
ら、自分がおかしいことを問題だと思わない。そもそも「お
 
かしい」とはどういうことか?
 
 
 なんらかの標準から外れると「おかしい」というラベルが
 
貼られるけれど、〈標準=正しい〉というわけではない。標
 
準はたんに数が多いだけだ。けれども世の中では〈標準=正
 
しい〉という理解だろう。
 
 「数が多いだけで〈正しい〉と思っている人たちと付き
 
合ってると、おかしなことに関わってしまいそうだ」と感じ
 
て距離を置くというのは、自然な成り行きではなかろうか?
 
 
 おかしなこと(お話し)に関わってしまうぐらいなら、私
 
はおかしな奴のまま仲間外れで居る方が安心だ。
 
 私は世の中のために生きているのではない。私は、私を生
 
きるべく生まれてきたはずだし、みんながそうだろう。そう
 
じゃなければ、ひとりひとり誰もが違うということに意味が
 
ない。
 
 
 あの生駒の高台から街を眺めたように、ひとりの人間とし
 
て、世の中で繰り広げられる迷走や暴走を眺めていればいい
 
と思う。関わったところで、霞の彼方まで広がる世の中をど
 
うしようもない。「どうぞ存分に・・・」と思う。
 
 ただ、高台の上で自分と同じように世の中を眺めている人
 
が見つかるならば、その人と仲間のようなものになるのは悪
 
くはないね。 
 
 
 
 

2025年9月4日木曜日

AI が教えてくれないこと

 
 
 毎日パソコンを使うけれど、私はほとんど AI を使わな
 
い。調べものをするにしても、習慣的に普通に検索してしま
 
う。「調べる」のではなく「尋ねる」という感じにどうも馴
 
染めない。まぁ AI を使っても、「尋ねる」というイメージ
 
なだけであって、調べていることには違いはないのだけど、
 
どうもしっくり来ない。なにやら余計なものに関わらされて
 
いる感覚が拭えないのです。
 
 意思も感情もないコンピューターが、「です」「ます」と
 
いう表現を使って会話をしてみせているという演出が、私に
 
はかえって距離を感じさせる。「余計な芝居はいらないよ」
 
という気分にさせる。
 
 
 私にとっての AI はそういうものだけど、すでに世の中に
 
は日常的に AI と会話を楽しみ、AI に相談して物事をうま
 
く進めようという人が結構な数いるらしい。大丈夫かい?
 
 
 少しでも判断に迷うことがあると AI に相談して、AI の
 
助言に従う。そして様々なことが上手く運び、危険を回避
 
し、望ましい結果・成果を得られれば、更に AI の信頼は高
 
まり、自分で考えなくなってゆくのだろう。
 
 
 さて、それで望ましい日々が続いて行ったとして、AI が
 
考え AI が選ぶ道を進んで行くのなら、人は AI の意思
 
(?)を実現するための道具になってしまう。そうなった
 
ら、人のアタマは AI の指示を実行させるアプリだろう。
 
 
 
 AI は普通のアタマより賢いだろうから、アタマの悪さが
 
出てくるのを抑制できるだろうけれど、それは人にとって
 
と言っていいことだろうか? 
 
 
 
 「アタマは悪さをする」
 
 私はそう書き続けているけれど、アタマが AI のアプリに
 
なってしまうのは、たとえ失敗しなくなるとしてもあまりに
 
バカげたことだろう。「アタマの悪さここに極まる」という
 
ように思う。
 
 
 バーノン・ハワードの言葉をこのブログで時々引用するけ
 
れど、彼はこんなことも書いている。
 
 
 自分の心で考えて十年間ヘマばかりしたとしても、
 
 他人からの心的支配の下でその十年間を暮らすのに
 
 比べれば、むしろ豊かな経験だといえる
 
              『スーパーマインド』より 
 
 
 確かにそうに違いない。他者の支配のままに生きるなら、
 
それは自分の生ではない。そんな暮らしが自分にとって豊か
 
であるわけがない。
 
 
 それが人であるか AI であるかに関わらず、自分の生き方
 
の多くを他者に依存して決めたり、あるいは丸投げしてしま
 
うのならば、たとえ上手く行っても、それは社会的な上手さ
 
であって、自分の生としての上手さではないだろう。
 
 
 
 生きることの上手さは、社会的に上手くやることじゃな
 
い。ヘマばっかり、アンラッキーばかりの人生だとしても、
 
それを面白がってしまうのが、上手く生きることだろう。た
 
とえヘマのせいで命を落としたとしても、それが自分本来の
 
在り方からのヘマならば・・・。
 
 
 AI を道具にするか、 AI の道具になるか。
 
 どうやらアタマは道具になりたがっているようだ。だって
 
AI はアタマが生み出したものだからね。親が出来の良い子
 
供に面倒をみてもらおうとするようなものだろう。ただ、隠
 
居するのは生きることをちゃんと味わってからにした方が良
 
いと思うが・・・。