毎日パソコンを使うけれど、私はほとんど AI を使わな
い。調べものをするにしても、習慣的に普通に検索してしま
う。「調べる」のではなく「尋ねる」という感じにどうも馴
染めない。まぁ AI を使っても、「尋ねる」というイメージ
なだけであって、調べていることには違いはないのだけど、
どうもしっくり来ない。なにやら余計なものに関わらされて
いる感覚が拭えないのです。
意思も感情もないコンピューターが、「です」「ます」と
いう表現を使って会話をしてみせているという演出が、私に
はかえって距離を感じさせる。「余計な芝居はいらないよ」
という気分にさせる。
私にとっての AI はそういうものだけど、すでに世の中に
は日常的に AI と会話を楽しみ、AI に相談して物事をうま
く進めようという人が結構な数いるらしい。大丈夫かい?
少しでも判断に迷うことがあると AI に相談して、AI の
助言に従う。そして様々なことが上手く運び、危険を回避
し、望ましい結果・成果を得られれば、更に AI の信頼は高
まり、自分で考えなくなってゆくのだろう。
さて、それで望ましい日々が続いて行ったとして、AI が
考え AI が選ぶ道を進んで行くのなら、人は AI の意思
(?)を実現するための道具になってしまう。そうなった
ら、人のアタマは AI の指示を実行させるアプリだろう。
AI は普通のアタマより賢いだろうから、アタマの悪さが
出てくるのを抑制できるだろうけれど、それは人にとって賢
いと言っていいことだろうか?
「アタマは悪さをする」
私はそう書き続けているけれど、アタマが AI のアプリに
なってしまうのは、たとえ失敗しなくなるとしてもあまりに
バカげたことだろう。「アタマの悪さここに極まる」という
ように思う。
バーノン・ハワードの言葉をこのブログで時々引用するけ
れど、彼はこんなことも書いている。
自分の心で考えて十年間ヘマばかりしたとしても、
他人からの心的支配の下でその十年間を暮らすのに
比べれば、むしろ豊かな経験だといえる
『スーパーマインド』より
確かにそうに違いない。他者の支配のままに生きるなら、
それは自分の生ではない。そんな暮らしが自分にとって豊か
であるわけがない。
それが人であるか AI であるかに関わらず、自分の生き方
の多くを他者に依存して決めたり、あるいは丸投げしてしま
うのならば、たとえ上手く行っても、それは社会的な上手さ
であって、自分の生としての上手さではないだろう。
生きることの上手さは、社会的に上手くやることじゃな
い。ヘマばっかり、アンラッキーばかりの人生だとしても、
それを面白がってしまうのが、上手く生きることだろう。た
とえヘマのせいで命を落としたとしても、それが自分本来の
在り方からのヘマならば・・・。
AI を道具にするか、 AI の道具になるか。
どうやらアタマは道具になりたがっているようだ。だって
AI はアタマが生み出したものだからね。親が出来の良い子
供に面倒をみてもらおうとするようなものだろう。ただ、隠
居するのは生きることをちゃんと味わってからにした方が良
いと思うが・・・。