うちには奥さんがいるけれど、私は基本的にひとり
で過ごしています(仲はとても良いですよ)。引きこ
もりとかではないし、人と関わりたくないのでもない
けれど、ひとりでいることが自分にとって一番自然な
のでそうなってしまう。
世の中には「ひとりは淋しい」「ひとりで居る人は
強い」「ひとりになるのは勇気が要る」とか言う人も
いるけれど、私は強さや勇気があるからひとりで居る
のではありません。そうせざるを得ないからひとりに
なります。性質的に、社会的であること(他律的な人
間関係を維持すること)の負担の大きさをごまかせな
いのです。
そういう風に生きていると、結果的に社会を外側か
ら眺めることになり、中の人が気付けないことが分か
るので、中の人とは違った感覚や思考の傾向が出てき
ます。要するに、へそ曲がり・ひねくれ者・変人とい
うことになりますが、自分としては素直で真っ当な人
間だと思っています。社会にどっぷり浸かれる方が人
として異常だと感じます。
そういう“社会にどっぷりな人”のことを、余語翠
巖老師は「人間の手垢をまともにやっている人」と表
現していました。社会の価値観・やり方などは人間の
本質的なものではなく、手垢のようなものだというわ
けです。
社会の物事には手垢が付いている。物事の本来性を
手垢で汚してしまっているけれど、社会にどっぷりな
人はその手垢を価値だと疑わず、手垢を誇りさえす
る。汚れを身と心に纏っているのを、仏教では「染汚
(ぜんな・ぜんお)」という。
別に社会的な価値が汚れだということではなくて、
価値というものに絶対性があると思いこんで、それに
考えや生き方が左右されてしまうことが汚れです。時
と場所によって変わってしまうようなものに囚われて
あるべき自分や生きることの本質を見失っては、生き
損ねる。
社会というものは社会のために有るので、そこにど
っぷり浸かっていては、自分を見失い、しあわせに生
きられない。なので、真摯にしあわせを求めると、人
は社会から距離を置かざるを得なくなる。ひとりにな
る。
じゃぁ、社会から距離を置いている私はしあわせな
のかと言うと・・・しあわせです。「自分のような者
がこんなにしあわせでいいのか?」とかたじけなく感
じるぐらいです。もちろん、社会の側から見れば「か
つかつで、しみったれてるやん」と鼻で笑われるよう
な姿でしょうけど、自分の人生です。自分が満足でき
れば問題ありませんし、これは絶対に失うことのない
しあわせです。
しあわせだからひとりでいるのか?
ひとりでいるからしあわせなのか?
たぶんそれは同時でしょう。同時に相関相補してい
る。
もしも、しあわせが社会との関わりの中にあるのな
ら、ひとりで居る人がしあわせであることは有り得な
いことになりますが、そんなはずがない。一つの命と
して、自分ひとりで生きていてしあわせでないはずが
ない。ひとりでしあわせ・・・それが命の基本である
はずです。むしろ、他者と関わることで、そのしあわ
せを見失いがちになる。
他者と関わるのなら、まず自分が“ひとりのしあわ
せ”を確かめ、しあわせでいる状態で関わるのが望ま
しい。そうしなければ、自分と誰かでしあわせを汚し
合うことになってしまう。
人は、まずひとりであるべきです。そうしてしあわ
せであるべきです。そうあって初めて、誰かと関わる
ことに喜びが生まれるでしょう。しみじみとした喜び
が。